月に黒猫 朱雀の華

幕外・十六 一つの夜の終わり

――夜が明ける前には家に戻れそうですね……
 シュラインを後にし、人気のない闇の中をシオン達は行く。その足取りは重い。
 戦いの疲労もあるが、それにもまして精神的な疲労が大きい。
――オシリスの砂の脅威は除いた……しかし、ジェダ=ドーマ……
 突如現れた魔族、ジェダ=ドーマ。ジェダはオシリスを取り込み、姿を消した。今はシオン達と戦う意志はなかったようだが、捨てておける存在ではない。
 その事実が、一同の疲労を増すのだ。
『何とかしないと……』
 シュラインにて、ジェダの消えた直後のさつきの呟きは、皆の気持ちの代弁となっていた。
――少なくとも、私は同意見です。
 ちらりと脳裏に浮かんだ考えを読みづらい誰かと、他人に関わりたがらない誰かの顔を敢えて追いやり、シオンは思ったものだ。
――しかし今日は少し休まなくては。
――あのジェダという魔族と対するならば、万全の状態を整えていなければなりません。
――今後は白レンを介して、地獄門の封印を行う者達と連絡を取った方がいいでしょうね。
――それから……
 歩を進めつつ思考を巡らせていたシオンだったが、ふと気づいて足を止めた。
「どうした、シオン?」
「いえ……」
 アレックスの声に応えながら、シオンは周囲を見回す。半死徒の眼は、夜明け前の濃い闇も見通すことが出来る。
――……予測通り、ですか……
「シオン?」
 さつきも首を傾げて声をかけてくる。レン達も足を止め、どうしたのかとシオンに視線を投げかけている。
 シオンは闇の一点を見つめたまま応えた。
「アレックス、さつき、皆と先に戻っていてください」
「大丈夫か?」
「大丈夫?」
 同時に口にした二人の同じ言葉に、シオンは闇の中で密かに笑んだ。
――私は果報者ですね。
「心配いりませんよ。すぐに追います」
「わかった……が、気をつけろよ。
 さすがにジェダが今仕掛けることはないと思うが」
「危ないことはしないでね」
 さっきの今だからだろう、二人はずいぶんとシオンを心配している。
「大丈夫ですよ」
 二人の心配を和らげるようにシオンはクスリと笑ってみせると、一人踵を返した。


 街には街灯がある。この時間でも起きている者がいるのだろう、通りの建物の窓には幾つか光がともっている部屋もある。それでも、街は確かに闇の中にある。
 街灯や窓の明かりが届かぬ箇所を行く時に、はっきりとそれは意識できる。どんなに光を灯そうとも、夜の闇を払拭することなど、どだい人には不可能なのだ。
 更に一人であることが不思議と闇がより濃くなったようにシオンに感じさせる。心なしか、気温まで下がったようにすらシオンは思う。
――心理的なものもあるでしょうが、近くに人の体温がないというのも原因でしょう。
 自分の足音、わずかな息づかいしか聞こえない闇の街を、迷いなくシオンは行く。
 早足に、「彼」に追いつけるように。
 そして行くことしばし。シオンは前方に幼い少女を肩に抱いた男――ダークハンター、ドノヴァン・バインの姿を見つけた。
 悠然と行くドノヴァンは、シオンの気配、足音に気づいているだろうが足を止めるどころか振り返る気配すらない。
――彼らしいと言うべきでしょうが……
 いつの間にか――ひょっとしたら精霊の力を借りたのかも知れない――ドノヴァンが姿を消していたのにシオンは気づいたのだ。さつき達と別れた後、エーテライトを巡らせ、分割思考を展開することでドノヴァンが選んだであろうルートを割り出して追ってきたのである。
 ひとまずの目的を達した以上、ドノヴァンが去るであろうことは予測できていた。新たな脅威には、彼は彼のやり方で対峙するだろうと。
 しかしシオンは、ただ行かせたくはなかったのだ。
――せめて、一言。
 シオンは更に足を速め、ドノヴァンの前に出る。
「………………」
 無言で、しかしそれでもドノヴァンは足を止めた。ドノヴァンの肩に乗ったアニタが、じ、とシオンを見つめる。
「引き留めはしません。しかし礼ぐらい、言わせてください」
「礼など言われるようなことはない。私はやるべきことをやったまでだ」
 長身のドノヴァンを見上げるシオンに、にべもなくドノヴァンは答える。
「それに、まだ何も終わってはいない」
 低く言ったドノヴァンの目が天へと向く。おそらく彼にはわずかに開いた「地獄門」が見えている、少なくとも気配は感じるのだろうとシオンは察した。
「ジェダ=ドーマはオシリスの砂を取り込んだ。取り込んだことでどうなるかはわからないが……」
「オシリスの砂の力、すなわちタタリの能力を得た可能性は否定はできません」
 きっぱりとシオンは言った。
 ジェダ=ドーマにどんな力があるのかはわからない。だがわざわざあのようなことをした――3リットルの赤き血へと、元々の在り様にと戻った、戻されたオシリスの砂を飲み干した――のだ。そこに意味がないはずがなく、最も簡単に思いつく理由こそがそれ、「オシリスの砂の力、すなわちタタリを我がものとする」ことであった。
 世には血を吸った相手の力、記憶、果ては魂までもを自分のものにする吸血鬼もいるという。ジェダがオシリスの砂の力を得た可能性は決して低くはないとシオンは踏んでいる。
「…………。
 そこまでわかっているなら、互いに悠長に言葉を交わしている時はあるまい」
 わずかに眉を寄せてシオンに視線を戻し、ドノヴァンは言う。彼も薄々と状況は察していたのだろう。
「礼を言う時ぐらいあります。それにこれが、今の私のやるべきこと。
 礼も言わずにあなたを行かせたら、さつきが怒りますからね」
 少しおどけた風にシオンは肩をすくめて見せた。そう言いつつさつきを連れてこなかったのは、さつきがきっとドノヴァンを引き留めようとするだろうと予測したからだ。先のことはわからないが、今はドノヴァンはシオン達とは同行すまい。
 アニタと二人だけが性に合っているのか、それともドノヴァンがダークハンターだからか、そこまでの理由はシオンにも推測しきれない。
「あなたが突破口を作ってくれたからオシリスの砂を追い詰められた。私の仲間たちは皆、無事でした。
 感謝しています、ドノヴァン」
 ドノヴァンは無言だ。
「あなたはこれからも地獄門の災厄に立ち向かうのでしょう。
 私達も同じです。だからいつか、また共に戦うことになったら――」
「私はやるべきことをやるまでだ」
 シオンの言葉を遮り、素っ気なくドノヴァンは言った。
「それは私達もです」
 きっぱりと言ったシオンを、ドノヴァンは見つめる。
 憂いを含んだドノヴァンの青い目は、夜明け前の闇の中でもシオンの目をしかと捉える。
 が、すぐに視線を逸らすとドノヴァンはまた歩み出した。シオンはもう追わない。ドノヴァンの肩の上のアニタだけが振り返ってシオンを見やった。
「気をつけて」
「…………」
 こくりとアニタが頷いたのを、シオンは確かに見た。ドノヴァンの大きな手が、優しくアニタの背に触れたのも。
「また、会いましょう」
 遠ざかる背に向けて、シオンは呟いた。

 そして二人の姿が闇に消え、死徒の目を以てしても見えなくなった頃――朝の最初の光が東の空を、裂いた。
                 幕外・終
 

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