月に黒猫 朱雀の華

再びの幕間・四 矛盾するのは人の想い

 嘉神が張った結界は雪の家を中心としておおよそ100m四方に渡る。
 その外側を刹那と久那妓は二人で見回っていた。
 嘉神の傷がまだ癒えていないため、見回るのは二人だけだ。といっても見回り初めてこの方――オシリスの砂が現れた翌日から――御名方守矢の件以外は特に何も起きていない。
――平穏なのは結構だが……
 それがいつまでも続くものではないということは久那妓にも、他の皆にもわかっていることであった。朱雀の守護神、嘉神慎之介の言葉によれば、そもそもこの結界も気休めに過ぎないらしい。
――気休めでも必要な時はある。
 それでも久那妓はそう思う。気休めの結界でも、迫りつつあるはずの「その時」の前に、覚悟を決め体を休めるための時を作る一端にはなるはずだ。
「……今日も、何もなさそうだな」
 一通り見回ったところで足を止め、刹那が呟く。
「そうだな。刹那、あれはどうだ」
 頷き、久那妓は天を見上げた。気持ちよく晴れた空には太陽が輝いているが、そこには常人の目には見えない昏い影がある。久那妓には見えないが、その存在を感じることはできる。
 それは常世、すなわち死者の世界とこの現世を隔てる地獄門。
「……あれも、変わりはない」
 地獄門を見上げ、刹那は言う。常世は刹那の故郷とも言える場所だがその言葉にはなんの感慨もなく、表情にも変化はない。
「そうか」
 刹那の性格的に、言葉や表情の示す通りに地獄門にも常世にも特別な感情はないのだろうと久那妓は思う。そう思うが、気にはなっていた。
――刹那は、常世をどう思っているのだろう。
と。
 常世の好きにはさせない、という刹那の言葉を聞いたことはあり、それに偽りはないと久那妓は信じている。だが、刹那が常世をどう思っているのかという疑問は消えない。
 刹那が常世のことをなんとも思っていないのならばいいが、もし僅かなりとも常世との関わりがなんらかの重荷になっているのであれば力になりたい、そう思うから。
 決戦のその時にわずかな迷いも残さぬ為にも今日こそは刹那に聞いてみよう、そう心を決めた久那妓は口を開きかけたが、
「久那妓」
刹那に先を超されてしまった。
「なんだ?」
 ひとまず刹那の話を聞いてからだと久那妓は刹那の言葉の続きを待つ。
「朱雀だが……何故、あんなことをしたのだろう」
「あんなこと?」
「一人で向かったことだ」
 空から久那妓へと目を向け、刹那は言う。
「あぁ、あのことか。
 色々と事情があったみたいだが……」
 封印の巫女である雪と嘉神の間の会話の端々から、あの御名方守矢という名の剣士も含めた彼らの間になんらかの因縁があるのはうかがい知れた。もっともその点については自分は部外者であるからと久那妓は立ち入る気はない。
「だが一人で行けばどうなるかぐらいわかっていただろう?
 朱雀は己の役割をわきまえられるタイプの人間だと俺は見た。自らが今失われるわけにはいかないことぐらいわかっているはずだ。
 失われるどころか今の奴は傷を負って満足に働けなくなることすら許されない立場だろう」
「……そうだな」
 しかし自らの役割も立場もわかっているはずの嘉神慎之介は、久那妓達の目を欺くために身代わりの式神を残してまでして一人であの剣士と戦いに行った。
 もっとも家にいた嘉神が式神であることは早々に刹那が見抜き――刹那に言わせると、命の有り様が違うからすぐにわかったらしい――嘉神がいなくなったこととその理由はすぐにわかったのである。
 姿を消したのは嘉神だけではなく、レンもいなくなっていた。おそらく嘉神を追っていったのだろう、自分達はこの家で待ちましょうという雪の言葉に従い、久那妓達は動かなかったのだった。
「たぶん、私達に迷惑を掛けたくなかったんじゃないかな」
 嘉神がいなくなった時のことを思い返しつつ久那妓は言う。
「ああやって怪我される方が迷惑だ」
「そうだな」
 ばっさりと切り捨てる刹那に、久那妓は小さく苦笑した。
「何かおかしなことを言ったか?」
「いいや。刹那は正しい」
 一つ、久那妓は首を振る。
「正しいが、人は正しいことばかりをする者ではないんだ。例え、朱雀の守護神であっても」
「そういうものか」
 右手を顎の辺りに添えて呟く刹那はまだどこか納得していないようである。
「刹那」
「なんだ」
「お前なら、どうする?」
「俺なら?」
「そう。刹那が嘉神と同じ状態――刹那には重大な役目があるが刹那はある者に狙われていて、その場所をお前だけが知ったなら……どうする?」
「俺なら……」
 言いかけて刹那は言葉を切った。その顔には、困惑の色が浮かんでいる。
「刹那?」
 久那妓が声をかけても刹那は答えない。困惑の色を浮かべ、視線を伏せて考え込んでしまっている。
 そのまま暫く刹那は考え込んでいたが、やがて目を久那妓に向けるとぼそりと呟いた。
「……わからない」
 顎に添えていた手を自分の額に当てる刹那は、いささか途方に暮れているように見える。
「その仮定で黙って一人で行くのは己の成すべきことをわかっていない愚か者の行動だ。
 そうわかっているのに……俺は」
「そうできない?」
「久那妓、俺がお前に話せばお前は俺についてくるだろう。俺と共に戦おうとするだろう」
「当然だ」
 きっぱりと久那妓は断言する。どういう状況であろうと、刹那一人を黙って危険な戦いに赴かせる気はない。
「俺はそうさせたくない。俺の問題にお前を巻き込むのはおかしい。だから……だが、それは……」
「刹那」
 そっと久那妓は刹那の腰の辺りに触れた。ぽん、ぽんと一度、二度、落ち着かせるように軽く叩く。
「それでいいんだ。
 理にかなった通りにいつでも動ける者ばかりじゃない。嘉神もそうだし、刹那もそう。きっと私だってそうだ。
 だからもし、刹那が理にかなう通りに動けなかったとしてもそれは間違いじゃない」
「そう、なのか」
「あぁ。
 でも、そんなことがあったら怒りはするぞ」
 嘉神にレンや雪が怒りを見せたように、刹那の気持ちや考えを理解しても一人で行くことには腹が立つ。そう付け加えてやると、ようやく納得したように刹那は頷いた。
「通すべきはずの理が通せないのに、それは間違いではない、か。
 おかしなものだ」
「それが人だ」
「……やっかいなものだな」
 苦笑混じりに、刹那は言う。と、その顔に何かに気づいたような表情が浮かび、ふと真顔になった刹那の赤い目が真っ直ぐに久那妓を見つめた。
「俺も、人か」
「あぁ」
 久那妓は瞬きする間ほどすらためらわなかった。
 はっきりと頷いてみせる。
「……そうか」
「そうだ」
 呟く刹那に、もう一つ頷く。そうすることで刹那が確信できるのだと信じて。
 そして、そうすることが自分の抱いていた疑問――刹那が常世をどう思っているのか――への答えを見せてくれるのだと、信じて。

「そうか」

 もう一度呟いた刹那は、小さく微笑んでいた。
 少し戸惑ったような、同時に無垢な子供のような微笑みに確かに、久那妓は答えを見た。
 

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