月に黒猫 朱雀の華

再びの幕間・五 墓前

 慨世の家から少し離れたところに小さな墓場があった。
 二十にも満たない数の墓はどれもずいぶんと古い。風雪に晒され続けたせいだろう、書いてある字も良く読めないものもある。
 だがその中に一つ、比較的新しい墓があった。
 墓石には誰の名も書かれていない。
――……あの時は師匠の死を認めたくなくて老師にだだをこねてしまったけれど……書かなくて良かったかもしれない……
 墓前に花と火をつけた線香を供えながら雪は思う。
 ここに、師であり養父である慨世はいない。
 今はもう土に帰ってしまっただろうが、慨世の肉体はここに確かに埋葬された。しかし死した青龍は黄龍と転じ、常世より地獄門の封印を護るのが定められた理。
 かといって慨世の今の有り様は生きているわけでも生き返ったわけでもないのだが、師は死んではいないのだと雪は思ってしまう。
――老師がこのことを私達に明かさなかったのも、そのせいかしらね。
 玄武である翁は青龍の運命を知っていたはずだ。もっともあの時に慨世が黄龍になった、と言われても幼い雪達が理解し、状況を受け入れられたかは怪しい。故に翁は二人の望みを聞き入れて墓に何も刻まずにおくことにとどめ、何も話さなかったのだろう。
 雪は手を合わせ、目を閉じた。
 ここに、師であり養父である慨世はいない。
 それでもここが一番慨世に近い場所だと雪は思う。だからこそ今雪はここに来たのだ。
――師匠、もう少しです。封印の巫女として私は力を尽くします。
 地獄門で常世の者達と、そしてジェダ=ドーマという名の魔族と戦い続けているだろう師を思う。
 雪の望み通り巫女の素性は伏せたまま、嘉神は封印の儀の準備を進めてくれている。あと数日もすれば全ては整うだろう。
 封印の儀が果たされれば地獄門は閉じ、現世は護られる。
――……簡単にはいかないでしょうね……
 地獄門の開放を望む常世に加え、地獄門を利用しようとしているジェダ、そしてオシリスの砂の存在。おそらく彼らは儀式の妨害に出てくるだろう。
――でも。
 雪は目を開いた。澄んだ碧い目に浮かぶのは凛とした強い意志。覚悟を決めた者だけが持つ光がそこには宿る。
――私は必ず果たしてみせる。大切な皆を護るために……
 誓いを新たにする雪の表情が僅かに曇る。その心によぎったのは、大切な家族の姿。
――ごめんなさい、守矢……楓……
 封印の巫女として自分が身を捧げれば、きっと守矢や楓は悲しむだろう。雪とて二人を悲しませたくなどないが、これしか方法がない以上どうすることもできない。
――……何も知らせないままでいたいけれど……
 そう願うのは雪の優しさであり、我侭。
 ほんの僅かでも二人が悲しむ時を短くしたい、二人が悲しむ姿を見たくない――
 楓が封印の儀を行う四神の一人、青龍である以上それが難しいことをわかっていて、なお。
――……ごめんなさい……
 雪の手はいつしか、固く、固く握りあわされていた。


「お師匠様のお墓ですか?」
 出かけるという楓についてきた扇奈は、告げられた行き先を問い返した。
「うん」
 頷いた楓の手には、春の花。
 ちらりとそれに目をやり、師の墓へと赴くのは久しぶりだなと楓は思う。最後に訪れたのは数ヶ月前、嘉神を倒した――嘉神が地獄門へ身を投じるのを見届けた後のことだった。
 あの時は仇討ちが終わったこと、そして自分が青龍を継いだことを報告するための墓参りだった。
「お師匠様って、楓さんのお父さんで前の青龍だった方ですよね?」
「そうだよ。
 今は黄龍となって地獄門を護っていてくれる」
 頷き、楓は天を見上げた。
 日々力を増す天の影、地獄門。その向こうで師であり養父である黄龍は今も戦い続けているはずだ。
 その師を、そして現世を救うための封印の儀の準備が始まった。つまり、封印の巫女が見つかったのだ。
――老師は何故か詳しいことを教えてくれないけど……
 そのことが妙に楓には引っかかってならなかったが、巫女が見つかったこと自体は嬉しいことだった。
――これで、扇奈が巫女の代わりをしなくていい……でも……まだ、これからだ。
 楓の中にある、喜びと背中合わせの良心の呵責。
 封印の巫女が犠牲になるという現実は何も変わっていないのだ。
 扇奈だけではない。楓は巫女も犠牲にしたくはないと願う。それがあまりにも困難で、時間ももう無いことをわかっていながら。
――僕は最後まであがく。だから今……お師さんに会いたい……
 きっと師なら、同じことを思い、あがくだろうと楓は信じている。自分が尊敬し、憧れた師、父ならば。
 だから自分の思いを、覚悟を、師に聞いてもらいたかった。
 迫る時に折れそうになる心を、師に支えてもらいたかった。
 例えその手のぬくもりを感じることがなくても、例えその声を聞くことがなくても、大好きなお師さんの存在が感じられれば――楓はそう思い師の墓へと向かった。


 守矢の足は、師が埋葬された地へと向かっていた。
 師を、全てを失ったあの日から初めてのことだ。それが例え墓であっても師に合わせる顔など無いと思っていた。向かえるとすれば、仇――嘉神慎之介を討った後だと思い定めていた。
 しかし守矢は仇は討てなかった。仇を討ったのは義弟、楓だ。守矢は仇を討つどころか二度、嘉神と剣を交え、二度とも敗れた。
 己の未熟さと弱さをどれだけ守矢は呪ったことか。
 それだけではない。二度目に剣を交えた時の嘉神は、明らかにかつての、師を斬った時の嘉神とは変わっていた。異様なまでの憎悪と狂気の色は失せ、まとっていた負の気は欠片も感じられない。
 あの時の嘉神の眼に宿っていたのは静謐なる覚悟の光、まとうのは朱く猛る朱雀の力――
 守矢は気づいていた。仇を討つべき相手は既におらず、仇を討つべき理由は既にないのだと。守矢に在るのは、いや守矢が求めているのはただ、己の行き所のない感情――敬愛する師、養父を奪われた怒りと憎しみ、悲しみ、何も守れなかった己への自責の念――のはけ口なのだと。
 行き所がない感情の元は仇のことだけではない。知ってしまった事実――開いたままの地獄門を閉ざす方法である封印の儀と、必要な封印の巫女という名の生け贄が義妹の雪であること――に揺れ、うねる感情のはけ口、それを守矢は求めていた。
 だが守矢は己が何を求めているのかに気づいていながらも、気づかぬ振りをした。わかっていてなお、己の胸に渦巻く感情を叩きつけずにはいられなかった。
 ところが守矢が剣を振るう理由を嘉神慎之介は見抜いたのだ。
『全て終われば、貴様が満足するまでつきあってやろう』
 ともすれば傲慢とも取れる、二度目の戦いの折の嘉神の言葉。
 だがあの言葉は嘉神の変化と嘉神が守矢の心を見抜いたことを何よりも表していた。
 それは守矢にはこの上ない屈辱であったが、目を背けてきた己の真実を突きつけられたことでもあった。おそらく、嘉神にそんな意識はなかったであろうが。
 故に、守矢の足はこの地へと向かったのだろう。幼い頃からの目標であり、しるべであった師に今や一番近いこの場所に。
 答える者などいないことを知りながら、答えを得ようと。
――……師匠。私は。
 己の愚を知りつつ、守矢は歩みを止めることができなかった。


 楓はふと、足を止めた。
――姉さん?
 師の墓の前にいる一人の女性。白い衣をまとった金の髪の女性は間違いなく義姉、雪だ。
――兄さんも……
 楓とは反対側から、つまり楓の方に向かってくる形で歩む剣士は義兄、御名方守矢。
 大切な家族とここで巡り会うとは。ことに守矢と会うのはどれぐらいぶりか。そう思うと楓の表情は自然とゆるむ。
――お師さんが引き合わせてくれたのかな。
「兄さん、姉さん!」
 大きく声をかけ、手を振ると、二人は楓に目を向けた。
――え……?
 戸惑いに楓の手が止まる。
 楓に向けた雪の顔に浮かぶ酷く強張った表情が。
 楓に向けた守矢の目に浮かぶ射貫かんばかりの強い、殺気じみた感情が。
 楓を戸惑わせ、不安を抱かせた。
――兄さん……姉さん……?
 

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