月に黒猫 朱雀の華

再びの幕間・六 縁側

 日差しはうららかで、穏やかな天気だった。
 よく晴れた空には白い雲が漂い、庭には雀などの小鳥が餌をついばんでいる。一見したところはのどかで平和な風景だ。
 嘉神は一人、縁側で書物を開いていた。刹那と久那妓は周辺の見回りへ、雪は慨世の墓参りに出かけている。一人で雪を行かせるのは心配ではあったが雪本人に怪我人についてこられても困ると断られ、嘉神以外の刹那達ではという提案にも今日は一人でいたいと強く雪は希望したのである。
 結局、一人になりたい雪の気持ちもわからなくはなく、慨世の墓の辺りまではなんとか結界の範囲内であることから嘉神は雪の言を飲んだのであった。それでも念のため、見張り兼一時でも防護になるようにと密かに式神をつけてある。
 かくして残された嘉神は少しでも有益なことをと書物に目を通すことにしたのである。嘉神の屋敷にあった地獄門に関する書物は失われたが、慨世の所にもいくらかはある。封印の儀をより適切にかつ完璧に遂行できればと考え、以前から雪に頼んで慨世の残した書物を嘉神は調べていた。
 玄武の翁の言葉によれば封印の儀が執り行われるのはずいぶんと久しぶりのことらしい。前回の儀は短く見ても数百年昔のことだという。その為に四神達でも詳細を知る者などいない。僅かに語り伝えられた知識と、四神としての本能が儀式を行う最低限の形は成立させるだろうがそれだけでは今は心許ない。
 天には依然として地獄門の姿があるのが嘉神には見える。そこから感じられる負の気配、常世の気配は強くもならず、弱くもならなずと不気味なほど変化がない。
――まだ慨世が保ってくれているのか……それとも……
 書物から天へと目を向けた嘉神の表情は険しい。封印の儀に向けて四神は動き始めたが急げばすぐ儀式にかかれるというわけでもない。儀式には適した時と場所が必要なのだ。
 場所は定められているが、問題は時だ。陰陽の釣り合いや星辰の並びを見極めねばならないのであるが、時を見定める役目を担う玄武の翁の言に寄れば簡単なことではないらしい。
――待つしかない、か。せめて慨世と連絡がつけばよいのだが……
 ジェダと対峙し、同時に地獄門を護らねばならない慨世とは未だに連絡がつかない。それもまた儀式に不安の影を落とす要素の一つであるが、焦ったところでどうにもならない。
 嘉神は地獄門から手にした書物へと視線を戻し、ページを繰った。

 ちりん、ちりん。

 まるでそれを待っていたかのように鈴の音が響く。
 視線を上げるが鈴の音の主の姿は見えない。どこだ、と嘉神が思うのと同時にまた一つ、ちりんと鈴の音が響き、背中にとんと触れる感触があった。
 肩越しに振り返ればレンが嘉神の背にもたれて座っていた。背中合わせの姿勢なだけに、レンの顔は見えない。
 こんな風にレンがするのは初めてだ――普段なら嘉神の膝の上に座ったり、そうでなくても隣にいるのに――と思いつつ、何故か今はこの状態が一番いい気がして嘉神は何もレンに問わずにまた書物へと目を向けた。

「…………」

――……む。
 背中に感じる重みが増した感覚に嘉神は手を止め、また振り返る。
 相変わらずレンの顔は見えない。きれいな青銀の髪と、それを飾る黒いリボンだけが見える。嘉神の角度から見ていると、なんとなくリボンは猫の耳のようにも見える。
 レンのもう一つの姿、黒い猫の姿が嘉神の頭にあるからだろうか。
――……今朝の夢のせいもあるやもか。
 夢の中ではどういう訳だかわからないが黒ではなく白い猫だった。だが色の違い以外の全ては確かにあったこと。
 猫を拾い、共に暮らし、ある日いきなり失った。
 言葉にするとただこれだけの、しかし嘉神にとっては大切だった時であり、一つのきっかけとなった出来事であった。
 どうしてそれを忘れていたのかが己で己が理解できないほどに大切な時であり、大きな事件。
 嘉神は前に向き直った。書物に視線を落とすが、その目は文字を追わない。追おうとしても集中できない。
 記憶の中の黒猫のぬくもり。背に感じるレンのぬくもり。それらが嘉神の中で不思議と重なる。

「猫を、飼っていた」

 ぽつりと嘉神は口にしていた。
「ずっと前のことだ。
 捨てられたか、親とはぐれたか、まだ自分でろくに歩くこともできない黒い仔猫を拾った。
 拾って、飼った」
 ぽつりぽつりと嘉神は話す。今朝の夢で見た光景を、懐かしくも胸の痛みを伴う過去の出来事を。
 レンは、何も言わない。いつもとなんら変わることなく。
 それでも嘉神の言葉は全て聞いている、そんな気配だけは感じられた。
「猫は勝手気ままに私の屋敷で暮らしていた。私も特にかまいはしなかった。猫に名をつけた覚えもない。
 だが、誰かが屋敷にいるというのは、悪くはなかった」
 誰かと共にあるのは悪くないだろう、そう言った示源を嘉神は思い出す。
――示源、私とてとっくに知っていたのだ。自覚するのは遅かったがな……
 それは失った時に初めて自覚したこと。
 それは緩やかな時の中で自覚したこと。
 それは忘れてしまっていたことを思い出し、確認したこと。
「何年か共に過ごしたその猫は、殺された。
 四神が宝を持っているなどという妄言を信じた愚かな人間……愚かな者どもが……」
 ふつりと嘉神は言葉を切った。
 書物を閉じ、目を上げる。
 空は青い。だが澄んだ青の中に、地獄門の陰はわだかまっている。
 己が犯した過ちの結果そのもののそれを見つめ、嘉神は再び口を開いた。
「あの時私は声を聞いた。
 何がこの結果を起こしたのかを見てみるがいいと。世が乱れるのは何が原因か見てみろと。
 私はその声に従い、それを見た。
 地獄門の向こうにあるものを」

 そして常世に蠢く人の負の念の集合体を見た嘉神は人に絶望し、怒り、憎み――堕ちた。

 今にして思えば心を乱した隙を常世に突かれたことは明白だった。あの者達が嘉神の屋敷に易々と押し入ったのも、常世が力を貸していたのかもしれない。
「これが全ての始まりだ。
 今の今に至る全て、これから決着をつけねばならぬことのな」
「………………」
 ことん、と嘉神の背に少し固いものが当たった。
 レンの頭だと理解したのは数瞬の後。背中だけでなく頭までもたれさせてきたのだ。
 それきり、レンは動かない。
 それでいいと嘉神は思った。黙って聞いてくれただけでいいと。
 己はただ聞いて欲しかったのだと嘉神は知っている。忘れていたことを思い出したこと、始まりを始まりと認識したことを。
 誰かに、であり誰でも良かった。だが、話せたのはレンだからかもしれないとも嘉神は思う。
 あの猫と同じ、黒い猫の姿を持つレンだからこそ。
 レンがもたれたのは嘉神の言葉を全て聞いたサインだと、嘉神は信じた。


――む……
 庭の向こうから聞こえてきた足音に嘉神は目を向けた。
 一人のものだから雪か、そう思ったところで嘉神の視界に入ったのはまさしく雪だった。
――……様子がおかしい。何かあったか?
 雪はずいぶんと気を沈ませているように嘉神には思える。
 嘉神の視線に気づいたのか、雪が顔を向けた。
 泣いていると、嘉神は感じた。目にも頬にも涙の跡すらも見えなかったが、確かに雪は泣いているとしか思えなかった。
 その泣き顔が、歪む。口の端を必死に上げようとしているのは笑もうとしているからだろうか。
 笑みにならない歪んだ泣き顔のまま、雪が口を開く。
「師匠のお墓で、守矢と楓に会ったわ」
 その言葉と表情が、何があったかを嘉神に理解させた。
 

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