月に黒猫 朱雀の華
再びの幕間・七 消えない声
楓は呆然とした状態で歩いていた。
師の墓前を去り、玄武の翁の家への道をただ歩む。その手に握られたままの春の花。少し遅れて扇奈がついてきていることもわかっているかどうか。
――姉さんが封印の巫女だったなんて……
師の墓前で久しぶりに義兄と義姉再会した。だが楓とは違い、二人には再会の喜びよりも強い色が見えた。
驚きの去った義姉の表情には悲しく寂しげな色が。
無言の義兄の目には険しい怒りにも似た色が。
理由がわからず戸惑う楓にややあって、雪が口を開く。
とても優しく美しく、とても哀しい微笑みを浮かべて。
確か最初は、久しぶりに二人に会えて嬉しいとか、元気にしていたかと問うたりしていた。その辺りのことはもう楓はよく覚えていない。
はっきり覚えているのは、この言葉だけ。
『私が封印の巫女よ』
雪は真っ直ぐに顔を上げていた。守矢にも楓にもその時だけは目を向けず師の墓を見つめていた雪の顔も視線も真っ直ぐに上げられていた。
雪は凛として、本当に美しかった。姉は今までで一番美しい顔をしていたと楓は思い、無性に悲しかった。
――姉さんが、巫女。じゃあ僕は、姉さんを……
封印の巫女である女性を犠牲に、生け贄にして現世を救うことに、楓は今までも抵抗はあった。誰も犠牲にしたくない、その方法を探そうとしていたことも本気だ。翁の家にある難しい書物にも頑張って目を通したし、町の古い史跡や神社仏閣も回ってみた。今日とて墓参りの後には自分達がかつて暮らした家に向かい、先代青龍である慨世が封印の儀について何かわかるものを残していないか調べに行こうと思っていたほどである。
しかしそれでも、封印の巫女は見知らぬ誰かである、という仮定に自分が甘えていたことを楓は今思い知らされていた。
――姉さんとわかった途端に、こんなに嫌だって気分になるなんて……姉さんでも、他の人でも……犠牲にしてはいけないのは変わらないのに……
自分をなんとか叱咤しようとする楓の脳裏に浮かぶのは、少し後ろを歩いているはずの扇奈の顔。
封印の巫女に何かがあったときの為の複製である彼女。楓が失いたくないもう一人。
――誰も失わないためにはなんとかしなきゃ……でも、どうしたら……
手がかりはないに等しい。雪が何も言わなかったのだから師の家にも有効な書物があるかは怪しい。
時間は迫る。手段を探しだせる前にタイムリミットが来るかもしれない。雪も、そして扇奈も世界を護るためなら自分を犠牲にすることにためらいはない。
――……どうしたら……
『君の姉を、愛しい少女を、救いたいかね?』
響いた声に、はっと顔を楓は上げた。
――なんだ、ここは……っ!?
世界が一変していた。一面の赤に塗り込められた世界。赤は不動ではなく流れ、たゆたい、したたり落ちる。
赤の中に漂う、むせかえるような匂い。だが何故か懐かしく甘美ささえも感じるこの匂いは
――血臭……?
顔をしかめ、楓は刀に手を掛ける。手にしていた春の花が地へと落ちる。
何がどうなっているのかわからない。どうなっているかはわからないが、ここが危険な場所だということだけはわかる。この場所もあの声も危険で油断がならないものだと。
たった一つ救いかもしれないのは、扇奈の姿がないこと。扇奈の無事を祈りながら楓は声を上げた。
「あなたは誰だ。僕をここに連れてきたのはあなたか!?」
『あぁ、挨拶がまだだったね。失礼した』
声が答えたと同時に楓の目の前で赤が盛り上がった。かと思うとそれは溶けたように流れ落ちながら形を取っていく。
人のものと似た、しかし明らかに人ではない者の姿。青い肌、刃状の背の翼、そして何よりもその身にまとう異質な気。全てがこの者が人ではないと告げている。
「私はジェダ=ドーマ。青龍の守護神、お初にお目にかかる」
右手を胸の前に回し、優雅にジェダ=ドーマはお辞儀してみせるが楓の警戒は緩むことはなかった。どころか抜刀し、身構える。
「ジェダと言うことは……地獄門でお師さんと戦っている……っ!」
「あぁ、朱雀の守護神から聞いているのだね。
ふむ……それは事実だが、私は決して君たちの敵ではないのだよ」
顎に手を当て、少し困った口調でジェダは言った。余裕に満ちあふれたその様には、楓が抜刀していることを僅かも気にした風はない。
「何を!」
師が敵と認識しているのならば、自分にとっても敵でないはずがない。楓の刀を青い稲妻が走り、どこからか生まれた風がその服を、髪をなびかせる。
「落ち着きたまえ。私は君の望みを叶えられるのだ。話ぐらい聞いてくれても構わないのではないか?」
「望み……だと……?」
どきりと楓の鼓動が跳ねる。頭に浮かんだのは扇奈と雪の顔。どちらも死なせたくない、無くしたくない大切な存在であり、世界を護ることとの天秤に掛けられた存在――
「先も言ったが、君の姉や愛しい少女を私なら救える」
「っ……」
ジェダの眼差しは穏やかだというのに、楓の鼓動は早くなる。喉が渇き、ゴクリとつばを飲み込む。
敬愛する師、黄龍はジェダを敵と認識している。嘉神もジェダは地獄門を狙う危険な魔族だと言った。どちらも疑う余地はない。嘉神には師のことで遺恨はあるが、その言葉は信じられる。
そこまでわかっているというのに、楓は動揺を抑えることができないでいる。
「救うって……どう……」
「私に地獄門を開けさせてくれたまえ」
「そんなことをすれば常世の亡者達にこの現世は滅ぼされる!」
楓は刀の柄を握る手に力を入れ直した。やはりこのジェダは危険な、倒すべき存在。
それでもジェダの表情はまるで変わらなかった。楓を見る目は微笑ましい者――子供か小動物を見るかのようだ。
「滅ばされはしない。
私は現世の者も常世の者も異界の者も、皆等しく救済するのだよ」
ゆっくりとジェダは両手を広げた。親が子供を招くかのごとく。
「皆、一つになるのだ。
そして争いもなく生も死もない永劫の平穏の中に全ては溶ける……」
「……そんなこと、許せるものか!
皆一つになるなんて、お前が勝手にしていいことじゃない!」
叫ぶ楓の周囲に、その感情の高ぶりに抑えきれなくなった力が小さな稲妻と化し、走った。
「ふむ……」
再びジェダは顎に手を添える。
興味深げに自分を見るジェダの口元が、笑みの形につり上がったのに楓は気づいた。その笑みが何故か妙に楓は気に入らない。何かを見透かされた不安と苛立ちに、再び声を上げる。
「お前の好きになんかさせない! 僕は四神としてこの現世を護る!」
「だが」
すっとジェダは楓を指さした。
「君は先程、ためらった」
「……なっ……」
「フフ……ハハハハハハハッ、君はためらったのだよ、青龍の守護神! ハハハハハハハッ!!」
絶句した楓に、ジェダは笑う。先程までの穏やかさをかなぐり捨てた哄笑が、赤い世界に響き渡る。
と、唐突にジェダの哄笑が止まった。
「……なるほど」
得心した風に頷くジェダの周囲で世界が震える。世界を包む赤が震え、揺らめき、無数の波紋が生まれ広がり、互いにぶつかり合っては消えていく。
「これは……」
「君の巫女のようだね。複製であってもさすがは封印の巫女か」
世界の変化に気づき周囲を見回す楓に、何事も起きてないかのごとく穏やかにジェダは言う。
「扇奈が……?」
「おおかた君を助けようとしているのだろう。ここに気づいたことといい、素晴らしい巫女だ。彼女なら真の巫女の代わりも立派に務まるだろう」
「……っ」
扇奈が封印の巫女を務める、それを示唆されただけで楓の胸は苦しくなる。嫌だと強く思う。だがそうすれば姉は救えるとも、僅かに思ってしまう。
同時に、姉が巫女を務めれば扇奈は死なずにすむのだとも。
――僕は……
「君の巫女にあまり手間を掛けさせてもいけない。
では青龍、此度はこれにて。また会おう」
また右手を胸の前に回し、優雅にお辞儀するジェダの姿に、楓は我に返った。
「待て! またなんかない! 行けぇっ!」
楓は刃を振り下ろした。青い稲妻が地を走り、ジェダに襲いかかる。ジェダさえ倒せば、地獄門は閉じるのではないかという願望に逃げ込もうとして――が、稲妻がその身を捉えるより早く、ジェダの姿が赤く染まった。
『私を倒しても、地獄門は閉じないよ。
覚えておきたまえ。封印の儀を行わず、かつ君の大切な者を救うすべは、私の手にのみ在るということを――』
言葉が終わるか終わらないかのうちに赤いジェダは溶けるように崩れ、流れ落ちる。まるで世界に還っていくかのように。
ジェダが崩れていくのと共に、世界も溶け、流れるように消えていく。流れる赤の向こうに他の色が垣間見えたかと思うと、あっという間に単色の世界は元の、万色の世界へと戻っていた。
世界のあまりの変化に呆然と楓は立ち尽くす。
つかの間、いましがたのことは全て白昼夢かなにかだったのではないかと思うが楓の手には刀が握られたまま。春の花はない。それがジェダとあの世界が現実だったことを楓に突きつける。
――……あれが、ジェダ=ドーマ……
「楓さん!」
「……扇奈……」
不安と心配を一杯に表した扇奈の声と表情に、楓はなんとか声を絞り出した。
「無事、だったんだ」
「良かった、無事で」
同時に口にした言葉に、はは、と楓は力なく笑う。扇奈が無事だったこと、とりあえずはジェダは去ったのだという実感にほっと息をつく。
だが扇奈は心配の色はそのままに不機嫌そうに柳眉を寄せた。
「無事だったんだじゃないです! 笑い事じゃないです! 危なかったのは楓さんの方なんですよ!」
もう、と扇奈はこつんと楓の胸元に額をくっつけた。
「……ごめん」
扇奈が危険なところに来なくて良かった、そう思ったことは楓は口にしなかった。扇奈が心から自分を案じていてくれたことがわかるから。
そっと楓は扇奈を抱きしめた。刀を力強く振るう者とは思えないほど、扇奈の体は細く、やわらかだった。
楓は思う。やはり扇奈を失いたくはないと。
――でも、姉さんも失いたくない……
一度別れ別れになった家族。嘉神との戦いが終わり、もう一度、師はいなくても家族で暮らせる日が来るかもしれないという夢が消え去るのは耐え難い。
『覚えておきたまえ。封印の儀を行わず、かつ君の大切な者を救うすべは、私の手にのみ在るということを』
――……!
耳に残るジェダの声に、楓は小さく首を振った。
――あんな奴の声に耳を貸してはいけない……僕は、僕の力で二人を救わなくっちゃ……
自分を叱咤し、奮い立たせようとする。
だが声は消えない。
消えない声に揺れる心をどうにか抑えようと、楓は扇奈を抱く腕に力を込めた。
愛しい少女のぬくもりが自分を支えてくれることを信じて。
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