月に黒猫 朱雀の華

幕外・十五 3リットルの血

「終わりです」
 もう一度、シオンは言った。
 オシリスの砂は無言のままだ。無言のまま、シオンを見下ろすように、目を閉じたままの顔を向けた。
――目を閉じていれば何も見えない。
 ふとアレックスはそんなことを思った。当たり前のことだが、オシリスの砂は「何も見ない」ために目を閉じているのだと。
「…………」
「…………」
 シオンとオシリスの砂、元は同じ人間だったもの、言葉通り「道を違えた己」同士が睨み合う。
「終わりです」
 三度、シオンは言う。
「ヘルメスは私の支配下に。タタリは白レンの支配下に。
 あなたにはもう何もできない」
 勝ち誇った口調ではなかった。淡々と事実をシオンは突きつけるのみだ。
「……本気で」
 ようやくオシリスの砂が口を開いた。
「本気でそう言っているのですか? このヘルメスを支配下に置いたと」
 何かが振動する音を一同は聞いた。
 確かめるまでもない。音を放っているのは、ヘルメス。
「気づいているはずです。このヘルメスは可変であることに意味があると。
 あなたはヘルメスの中枢をハッキングし、支配下に置いたつもりなのでしょう。あの戦闘のさなか、巧妙にヘルメスに意志を以て侵入した手腕は見事。
 しかし」
「っ……!」
 がくん、とシオンが膝をつく。同時にひゅんひゅんと幾つもの空を切る音が舞う。
――私の介入が遮断された……!? ヘルメスは完全に支配したはず……
「ヘルメスに中枢はない。末端もない。
 全てが中枢であり、末端。
 これこそがヘルメスの可変システムの最大の意味」
 まだぎこちない動きながらも、がしゃ、がしゃと音を立ててヘルメスの形が変わっていく。
「……諦めの悪さはお前と同じだな」
 頭を掻きながらアレックスは呟いた。呆れた、しかし妙に落ち着いたアレックスの口調に、シオンは介入が遮断された驚きや動揺があっさりと消えるのを感じた。
――肝が太いとはこういう事を言うのでしょうね。
 他に無関心というわけでもなく、超越した精神の持ち主というわけでもない、また年も自分とさして変わらないというのに落ち着いたアレックスの言葉は、今までも緊迫した事態においてシオンの緊張をほぐしてくれた。
 アレックスの言うところによると「色々と慣れただけだ」と言うことらしいが。赤と青の二色の肌の男と戦ったことがあることなどから、そういうことにアレックスが慣れた理由は察せないこともない。
「彼女と私に共通項があるのは当然ですが、引っかかる物言いですね」
 立ち上がり、軽く膝を払う。
――再侵入を試みる。
――全てが末端であり中枢ならば、全てを支配すればいいだけのこと。
「引っかかるのは、あいつと同じが嫌だってお前が思ってるからだろう」
 軽く首を動かし、アレックスは肩を鳴らす。
「そういう解釈もありますか」
――オシリスの砂は私の別の可能性、否定する気はないつもりでしたが……
――やれやれ、私はよほど今の私を気に入っているようだ。
「なんにしろ、あいつが諦めるまで叩きのめし続けるだけさ」
 まるで子供の相手をするかのようにアレックスは言うが、その視線の先のヘルメスは子供というにはいささか以上に大きい。
「アレックスらしいね」
 シオンやさつきの代弁は、サキエルが果たした。
「まったくです。では皆、諦めの悪い私につきあってもらいましょう」
 シオンがそう言ったのと同時に、ヘルメスが変形を終えた。
 人の形から、四つ足の獣の形へ。
 オシリスの砂は獣の頭部に立っている。
「タタリを支配下にと言いましたね。
 シオン、それは適切ではない。
 私とヘルメスが健在である以上、夢魔がタタリの全てを制したわけではないのは明白。
 まだ私に終わりは来ていない。
 私が終わるのは、全ての人類が賢者の石に変換された後。
 私はオシリスの砂。最後に死する定めの人類――」
 右手を掲げ、オシリスの砂は宣誓するかのように言い――びくりと身を強張らせた。

「来る」

 その声がアニタのものだと気づいたのは、傍らのドノヴァンただ一人。
 だが声の主が誰であろうと、「何が」来たのかはその場全てのものがすぐに知ることになった。

「アァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」

 シオン達は見た。
 背後からオシリスの砂の胸を貫いた腕を。
 そして理解した。先の叫びがオシリスの砂のものであったことを。
「オシリスの砂、君の舞台は終わりだ。
 カーテンコールにしたまえ」
 現れた腕の主、青黒い色を宿した明らかに人ではないその――敢えて言うなら男、はずるりとオシリスの砂の胸から腕を抜いた。崩れかかるその首を掴み、軽々と持ち上げる。
「アッ……ジェ、ダァ……」
「……ふむ、カーテンコールは無理そうだね。では私が変わって挨拶するとしよう」
 掠れた声しか洩らせないオシリスの砂に、その原因を作ったのが自分であるにもかかわらず困ったように眉を寄せると、男はオシリスの首を掴んだままシオン達へと目を向けた。
「諸君、お初お目にかかる。
 私はジェダ=ドーマ。魔族だ。彼女の舞台を終わらせる為に参上した」
「……ジェダ=ドーマ。地獄門を狙う魔族。
 オシリスの砂とは仲間じゃなかったのかしら?」
 恭しい口調で、いっそ優雅な笑みを一同に向けたジェダに、冷ややかに声を放ったのはレン。
「あぁ、君は黒き夢魔の半身か。
 彼女から聞いていないかね? 私は彼女の仲間などではない。道がほんの一時交差しただけに過ぎない」
「アァッ!」
 ジェダの手に力がこもったのだろう。悲鳴を上げてオシリスの砂が背を逸らす。その体から滴り落ちる、赤い血。胸の傷口からだけではない。オシリスの砂の全身からにじみ出る赤いものが流れ、落ちていく。
「もったいないな」
 ジェダは落ちる赤い血に手を伸ばした。重力に逆らい、オシリスの砂の血がジェダの手に吸い込まれていく。
「あぁ……、実に甘美だ。人であることを頑なに守り続けた力在る血。思った通りだ。
 オシリスの砂よ、君は素晴らしい血液だ」
 歓喜の面持ちでそう告げたジェダであったが、ふっと視線をオシリスの砂から逸らした。腕を掲げ、飛来した魔剣、ダイレクを見えぬ障壁で食い止める。更に障壁に衝撃が走る。
「魔剣に……エーテライト、といったかな? 面白い玩具だ。使い手も興味深い」
 シオンやドノヴァンに目を向けてジェダは笑った。皮肉も嫌味もない、真に愉快そうな笑い。
――私達など眼中にないということですか。
 ジェダの笑いが意味するものを悟り、シオンは眉を寄せる。
――この魔族の目的はオシリスの砂、私達の存在などわずかも気にかけていないでしょう。
――しかし危険な存在であることには変わりない……白レンの話ではこの魔族も地獄門を利用しようとしているのだし。
――倒さねばならない。今、すぐに。
 意を決し、シオンはガンバレルレプリカを構える。エーテライトは弾かれたが、この銃なら打ち抜ける可能性はあるかもしれない。ドノヴァンも精霊を従え、サキエルが光の玉を一つ二つと周囲に舞わす。
 だが彼らが動こうとしたのを制するように、ジェダがオシリスの砂の首を掴む腕に力をこめた。
 みしり、と骨が軋む音を聞いた思いがしてさつきは身を震わせる。
「落ち着きたまえ、諸君。
 私はこの赤き蜜をいただけばすぐに去る」
 微笑んでジェダは、更に腕に力をこめる。
「わたし、は……」
 弱々しく、オシリスの砂が震える両手を天へと差し伸ばした。
「む?」
「わた…しは、……冥界、のとり……最後の……人類……」
「最後の人類……?」
 言葉を繰り返した直後、ジェダは高らかに哄笑した。それまでの紳士的な振る舞いをかなぐり捨てた、嘲りに満ちた笑いが響き渡る。
「最後の人類だと?
 君は「人」ではない。妄執と怨念に取り憑かれた3リットルの血液ではないか。
 君が救済を口にするなど、おこがましいも良いところだ」
 ぐちゃり、と耳障りな音。あらぬ方向にオシリスの砂の首が曲がり――その体が、崩れた。崩れた体は真紅に染まり、溶け落ちる。
 降り注ぐ、赤い血。
 それらは全て、狂ったように嗤うジェダへと吸収されていく――
 轟音と共に主を失ったヘルメスが崩れた。
 だが嗤うジェダの姿は宙にある。
 シオン達は聞いた。嗤うジェダの言葉を。

「オシリスの砂、その名のごとく乾いた何も生まぬ砂よ、ここが君の夢の終わりだ。
 だが一つだけ約束しよう。
 君の夢みた人類の救済は私が果たそう。
 だから安心して消えたまえ。アトラスの幻影よ!」
 

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