月に黒猫 朱雀の華
幕外・十四 悪夢からの目醒め
柱の立ち並ぶ寒々とした光景が別の光景に塗りつぶされていく。
それは全てが真白い雪に閉ざされた雪原。
しかし大気は澄んでいながらも冬のものではない。夜であっても熱と湿気をはらんだこれは、夏の空気だ。天に輝く星の並びはサソリ、白鳥、大鷲――皆、夏のもの。
真夏の雪原、これはレンの世界、固有結界。
「いらない」
アニタの声は常と変わらぬ、幼い少女には似合わぬ昏い響きを宿す。
だがその中に、常にはない怒りの色があった。
怒りの先は、赤い刃を携えた少女。タタリが形取った、成長したアニタの姿。
「きえて」
アニタの小さな体から青白いオーラが立ちのぼった。同時に、不可視の力が赤い刃を携えたアニタを捉える。
「………………!」
声にならない悲鳴を上げ、赤い刃を携えた少女は消滅した。
「……ドノヴァン」
名を呼んでドノヴァンに、アニタは駆け寄った。ぎこちない動きでヘルメスが脚を上げ、ドノヴァンを解放する。
「アニタ……」
なんとか体を起こして膝をつくと、手を差し伸ばし、ドノヴァンは庇護すべき小さな少女の頬に触れた。
その頬は、涙に濡れている――
「ふふ、ここは既にわたしの舞台。優雅で無垢なわたしの世界。砂の悪夢は終わるのよ」
優雅に呟いたレンはふわりと宙に浮かんでいた。白銀の髪と白いコート姿の彼女は、この雪原の妖精のようだ。
「……っ、ならば、貴様を潰せばいいのだろう……!
どけ、クローン! テュホンレイジ!」
K´を放った衝撃波で吹き飛ばし、銀髪の青年が憎々しげに叫んだ。
「目障りなクローンを消し去る機会を、貴様のような小娘に邪魔されてたまるか!
見せてやる!」
炎がクリザリッドから吹き上がる。一瞬炎は、クリザリッドの背に広がった翼のように見えた。
「我が力を!」
憎悪の叫びと共にクリザリッドが駆ける。
「っ!」
固有結界の維持に力を割いているレンは、クリザリッドの攻撃を避けることはできなかった。一瞬居すくんでしまった彼女は、動くこともできない――
だが、炎の熱もなんらかの衝撃も、レンには及ばなかった。
「……てめぇはクローンどころか幻じゃねえか……そんなものがいつまでもいつまでも……」
「K´!」
レンとクリザリッドの間に割って入り、クリザリッドの炎を、攻撃を受け止めきったK´はいまいましげに吐き捨てる。
「うざってぇんだよ……っ!」
荒々しいその言葉とは逆に、滑るようにK´は前へと動く。攻撃を止められ、一瞬動きの止まったクリザリッドの背後へと周り――
「……黒だよ、真っ黒!」
轟音と共に上がった火柱がクリザリッドを飲み込む。
やがて炎が消えた後には、何も、残っていなかった。
――所詮は、幻影か……
炎の消えた後を一瞥すると、やや仕方なさげな風にK´はレンを見やった。
目の前で起こったことを把握しきってないのかまだ身をすくめているがレンには怪我はなさそうだ。
「……K´……」
K´を見上げ、か細い、いつもの彼女とは違う声をどうにかレンは洩らした。
「あの、ありが……」
「フン」
K´はレンから視線を外した。クリザリッドは片付けたが、ヘルメスとやらはまだ健在だ。
――めんどくせえ……
そう思っても帰るわけにはいかない。この場のことを片付けなければ、面倒はつきまとい続ける。
何無視してるのよ、人の話を聞きなさい、と顔を真っ赤にしてわめくレンに構うことなく、渋々K´はまずは行く手を阻むだろうキメラ達を片付けるかと一歩踏み出した。
だが、しかし――
「遠野志貴」のナイフがさつきを傷つけていく。
悪夢と理解し、悪夢であることに怒りながらもなお、さつきはためらっている。
――さつき君は、優しい。己の過去に対しても……
優しいからこそ、さつきは悪夢を悪夢と振り切れない。
――許せないな。
サキエルは眉を寄せた。不快の念がその胸に渦巻く。
さつきが悪夢を振り切れないことが、彼女に悪夢を突きつけるものが、サキエルには許せない。
「よそ見? ずいぶんと余裕ね!」
苛立った声でケイが雷を放つ。それを空間を転移してかわし、サキエルは冷ややかにケイを一瞥した。
不快の種は、ここにもある。「妹」の姿をしたそれは、微妙にサキエルの技を鈍らせる。
――血の繋がりとはやっかいなものだ……
現実のケイを何度かサキエルは消し去ろうとした。だがそのたびに己の内にある何か――この身に流れる血か、あるいは「シュウ・ナナサワ」の意思か――がサキエルの動きを封じ、ケイを排除する意志を薄れさせる。
――悪夢に対してまで主張するのは、勝手が過ぎる。それは横暴だ。
横暴には、報いねばなるまい。冷ややかにサキエルは口元をゆがめた。
悪夢には、悪夢を。
「さつき君! こちらへ!」
愛しい少女に声をかける。
「は、はい!」
ナイフからなんとか身をかわしつつ、どんと両の手を地に打ち付けた衝撃で志貴の動きを止め、素直にさつきはサキエルに駆け寄ってきた。サキエルなら、この場を切り抜ける力を見せてくれるに違いない、そんな無邪気な信頼が不安と悲しみに彩られたさつきの表情の中に垣間見える。
――信頼には応えねばなるまい。
ほんのわずか、サキエルの口元にあたたかなものが宿る。
サキエルは腕を掲げた。舞う三つの光の玉が腕の周囲でらせんを描く。
「裁きの、時だ」
光の洪水が空間を埋め尽くす。その光の中に舞うは無数の十字架。
光の中、ざぁっ、と音を立てて志貴が、ケイが、キメラ達が崩れていく――
――これは、白レンの固有結界!
何が起きたかを理解した時には、シオンは好機を把握し、実行していた。
――ハック。
先程までは神経網の掌握がせいぜいだったが、今はキメラの中枢を完全に乗っ取った。
――制御。モード変更。
――write。『自壊』せよ。
ここはもはやオシリスの砂の領域ではない。オシリスの砂の隙を突いて白レンがタタリの主導権を握ったのだ。
――故に。
完全にキメラが停止する。
光が溢れたるのと同じタイミングだった。
「あぁ、終わりだね」
赤と青の男は穏やかな口調で言った。その背後で、キメラ達が光の中に崩れていく。
「この身も程なく崩れよう。
だがただ消えゆくのも無念だ。つきあってもらうよ」
男の言葉からも仕草からも、余裕は消えない。自らが消えると言うことは、この男にはたいした問題ではないらしい。
「……勝手なことを」
そう言いつつもアレックスは身構えた。
男と、アレックスと、動いたのは、同時。
がっ、と肉と肉が激しくぶつかり合う。
拳を、蹴りを、あるいは手刀や頭突きを交わすこと数合。
決定的な機を掴んだのはアレックスだった。
わずかに体勢を崩した男に頭突きを叩き込む。叩き込む、叩き込む、叩き込む!
とどめに渾身のパンチをみぞおちにぶち込んだ。
「……見事、だ」
口の端から血を流しながら、男は、微笑んだ。
あの時と同じように。
笑んだまま、男は消えた。初めからいなかったかのように。
光の乱舞が、消えた。
「………………」
アレックスは振り切るように後ろを見やる。シオンが歩み寄ってくる。いや、歩んでゆく。
崩れたキメラ達の向こう、今だ傲然と立つ、ヘルメスの下へ。
アレックスは迷いなく、シオンと並んで進んだ。
シオンの力になる。その決意はいささかも揺るぐことはない。
――アレックス。
共に歩むアレックスの存在が、シオンには何よりも心強かった。
オシリスの砂が何であるかを知ってなお、シオンと共に歩んでくれる。人としての道を進んだ「シオン」ではなく、今あるこの「シオン」を受け入れてくれる。
さつきも、サキエルも、白レンもそうだが、アレックスが歩んでくれることがシオンには何よりも嬉しかった。そのことに友人達には幾ばくかの申し訳なさを覚えはするが、自分の心は偽れない。
――私は、私の道を全うしましょう。その為に。
シオンは足を止めた。
眼前には、巨大なヘルメスの姿。その掌にある「シオン」――オシリスの砂は、呆然としたかのごとく立ち尽くしている。
「終わりです。
オシリスの砂、冥界の鳥よ」
静かに、シオンは告げた。
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