月に黒猫 朱雀の華

幕外・十三 演じられる悪夢

 肉眼で確認するのは困難な細い糸、エーテライトは縦横無尽に宙を駆け、迫り来るキメラを捉える。もっとも、細くとも鋼のワイヤー並みの強度を持つエーテライトとはいえ、それだけで強靱なキメラを止めることはできない。肉体があるものならばその神経網をエーテライトを介して乗っ取る手段もあるが、タタリから生まれたキメラではそれも叶わない。
 キメラを止めるのは、
――あなた達はもう動かない!
そう、シオンの強い意志。意思は情報となり、悪性情報で構成されたキメラの行動を書き換える。
 しかしそれで終わりではない。キメラ達の本来の主がみすみすそれを許すはずがない。
 オシリスの砂を手に乗せた霊子演算器・ヘルメスが腕を広げていく。がしゃりと音を立てて、その肩のパーツが大きく展開していく。
 開いたそれは、鳥の翼のような形状をしていた。
――……現在の形状は人型だが、ヘルメスには鳥や獣をもした部分も見える……くっ
 キメラ達に新たな情報が流れ込んで来るのを感じ、シオンは眉を寄せた。キメラに侵入した情報はシオンが書き換えた行動を更に上書きしようとする。
――早い。ヘルメスの補助があるにしても……
――四番、六番、「彼女」の情報のブロック、三番、コードの複雑化。
――ヘルメスの形状が変わる……変わる……そうか!
 気づいたそれに、シオンはヘルメスを、オシリスの砂をはっとする思いで見た。
 腕を広げたヘルメスの掌の上にたたずむオシリスの砂は、変わらず目を閉じたままだ。だがそれでも、彼女が自分を、「もう一人の己」を見つめているとシオンは認識していた。
――ヘルメスのあの形は一形態に過ぎない。人型も取れると言うだけだ。
――可変。その場に合わせた最適化。物理的に変形することによって霊的回路の接続も変更され、その場においてもっとも最適な演算器と化す。
――全ては究極の形態――演算器から記録器へとなる為のシステム。
――それと同時に――これは!?
 翼を広げたヘルメスに、なんらかの力が凝縮、収縮していく。それがシオンには感じられる。
――他の皆はまだ気づいていない。目の前の相手だけで精一杯か。まずい。
 そう気づいても、シオンも下手には動けない。オシリスの砂は一歩も引かない。キメラのコントロールを取り戻し――いや、これすらもシオンの動きを抑える為の手段かもしれないとシオンは思った。
 そうだとしても、シオンは引くわけにはいかない。少なくとも、皆が眼前のタタリが具現化させた悪夢を打ち破るまでは。
――しかしおとなしくそれを待っているつもりもありません。
――五番――


――まずいな。
 目前の壊れた吸血鬼――己の悪夢、忌まわしき未来の姿の攻撃をかわし、あるいは精霊を放ちつつ、ドノヴァンは思った。
 悪夢の向こうのキメラの群れ、更にその向こうにある霊子演算器・ヘルメス。形を変えつつあるそれからは、嫌なものしか感じない。一刻も早く停止させるべきだとドノヴァンの勘は告げる。
 壊れた吸血鬼が真紅の刃を振るう。それをダイレクに受け止めさせ――ダイレクも苛立っている。彼にとってもこの悪夢は忌まわしいもののようだ――素早くドノヴァンは周囲の状況を確認した。
 戦っている者達は皆一様に苦戦している。あの「天使」さえもだ。タタリから生み出された悪夢がそれだけの力を持っているということでもあろうが、やはり悪夢故に心理的な枷を負わせてしまうのだろう。
 キメラ達はなんらかの手段によって足止めされているが、状況が膠着状態にある――いや、オシリスの砂とヘルメスはまだ自由に動けるだろう、つまりこちらが不利だということだ。
「…………はぁっ!」
 壊れた吸血鬼の操る狂える精霊を、同じ精霊の力で打ち消すと同時に、ドノヴァンは印を結んだ。
――やむをえん、か。
 巨大な足が時空を裂いて現れ、壊れた吸血鬼を踏みつぶす。これで倒れる相手ではあるまいが、僅かな時が得られる。それこそがドノヴァンの狙い。
「ダイレク、アニタを守れ!」
 地を蹴り、宙に舞いつつドノヴァンは叫んだ。心得た風でダイレクがアニタの元へ飛ぶ。
「おおおおっ!」
 ドノヴァンは叫んだ。己の内に抱え、抑え込み続けている「モノ」を解き放つ為に。苦痛と憎悪、しかし確固たる意思を宿した叫びが空を割く。
――埒を開けてくれよう。
 叫びと共に走った閃光に、戦っていたアレックス達でさえ動きを刹那、止めた。
 閃光が消えたそこには、一人の魔神。背にコウモリのものにも似た翼を広げ、魔神は飛翔する。
 ようやく立ち上がった壊れた吸血鬼の刃を振りきり、未だ動けぬキメラ達の上を翔け、真っ直ぐに行くは――霊子演算器の掌の上にある、オシリスの砂。
「ガァァァァァァッ!」
 魔神と化したドノヴァンは、鋭い爪をはやした手を振り上げる。驚愕しているのか、事態を認識していないのか、動かぬオシリスの砂の胸をその爪が貫こうとした、その時。
 突進。
 魔神ドノヴァンの手に映えた鋭い爪が、驚愕に固まるオシリスの砂の胸を貫こうとしたとき。

「ドノヴァン、やめて!」

 オシリスの砂の前に現れた少女の姿。
 美しく可憐な少女は、腕を広げてオシリスの砂をかばう。長い三つ編み、どこか愁いを含んだ青い眼。年の頃は十六、七のその少女は「今」の彼女とはまるで異なっているが間違いなく――
――アニタ!?
 確信と同時に、ドノヴァンはそれがタタリだと悟った。これもまたドノヴァンの恐れ。顕現される悪夢。庇護すべき少女に己が忌まわしき姿で襲いかかる、引き裂かんとする悪夢。
 そう知りつつ、魔神と化したドノヴァンの動きは止まっていた。
「ア、ニ……」
 低い声が魔神の口から洩れ――直後それは絶叫へと変わる。
 容赦なく振り下ろされたのは、ヘルメスの巨大な腕。地へと魔神ドノヴァンを叩き落としたヘルメスは更にその身を踏みにじった。丁度、ドノヴァンが壊れた吸血鬼を巨神に踏みつぶさせたのと同じように。
「ぐ、う……」
 かろうじて魔神――いや、人の姿に戻ったドノヴァンの頭部と右腕はヘルメスの足の下敷きになることから免れていた。なんとか体を足の下から引き出そうと、ドノヴァンは右腕に力をこめる。が、体はびくとも動かない。虚しく指は地を掻くのみだ。
 そのドノヴァンの上に、影が落ちた。
「……ドノヴァン」
 悲しい響きを宿した少女の声に、ドノヴァンは動きを止めてなんとか上を見上げた。
 成長したアニタがそこにいる。その手には可憐な姿には合わない巨大で真っ赤な刃。
「ドノヴァン、私が終わらせてあげる」
 アニタの顔にあるのは、深い、深い悲しみ。そして、慈悲。
 悪夢そのものだとドノヴァンは思った。庇護してきた、救ってやりたいと願った少女に刃を握らせ、悲しませ、その手を朱に染めさせる。
――……悪夢……だがこれは、終わりの悪夢……
 ドノヴァンは感じていた。己の胸の奥に、ひとかけらの安堵があることを。
 これが、悪夢を演じる悪夢だと、こうしていてはならぬのだとわかっていながらも、安堵は消えることはない。
「アニタ……」
 すまない、そう呟きかけたドノヴァンの声はしかし、声にならなかった。
 刃が振り下ろされたわけではない。

『させない』

――アニタ。
 それは、幼い声、「今」のアニタの声だった。


――五番、侵入開始。

「あなたの舞台は、ここまでよ!」
 

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