月に黒猫 朱雀の華

幕外・十二 具現化する悪夢

 ずん、と地が揺れた。
 いや、揺れたのは地だけではない。大気が、空間そのものが揺れた。
 揺れ動く全ての中で、ふわりとオシリスの砂の体が浮き上がる。
――違う、あれは――
 シオンは、その場にいた者全ては見た。
 オシリスの砂の後ろに現れた金色の巨体。機神とでも言うべきか、それともわかりやすい言葉で言うならば巨大なロボットの一種に見えるそれは、自らの掌にオシリスの砂を乗せ、悠然とシオン達を見下ろしていた。
「……シオン、あれがヘルメスとやらか?」
 問うアレックスの口調は妙に棒読みだった。それ冷静さを装ってのものなのか、それともヘルメスを目にした驚き、あるいは恐怖、あるいは一種の呆れにより感情が麻痺してしまったからなのかはシオンには判断はつかない。
「そうです」
「私も一つ聞くが」
 光の玉を周囲に漂わせたまま、サキエルも問うた。こちらはいつもと特に変わった様子はない。
「シオン、君はヘルメスを『霊子演算器』と言ったがあのような形である理由はなんだい?」
 シオンは即答できなかった。ヘルメスを見つめたまま、高速思考を展開する。
――霊子演算器をあのような形にする理由? 私の方が聞きたいぐらいです。
――メイン部分は精緻な構成。防壁は固められるとはいえ衝撃には強くはないというのに何故?
――動力とて必要。無駄が多すぎる。
――だがそれがどうしても必要と。つまり……
「……妨害があることを見越し、自己防衛の機能を付加した結果。
 またオシリスの砂本人の戦闘力は私達に比して低いのでしょう」
 眉を寄せて答えたシオンに、なるほど、とサキエルは頷いた。
「それは吉報だ」

「甘い見通しですよ、「天使」」

 オシリスの砂の声の冷淡な響きの中にかすかな笑みが含まれていたように、シオンは思った。
 ヘルメスの掌の上で、すう、とオシリスの砂は右手を前へと伸ばす。

「レプリカント・コンポーザー」

 その言葉と共に、大気が渦巻く。渦巻く大気から、黒い霧のような何かがあふれ出す。
「これは……悪性情報!」
「彼女もタタリ……やってくれるじゃない……!」
 いまいましげな顔で吐き捨て、白レンは腕を広げる。
「K´、わたしを守ってよ! いいわね!」
「……俺に命令すんじゃねえ」
 こんな時に、と低く唸るようにK´は呟き、サングラスを外した。
 その視線の先では、ベルトが多くついたコートをまとった長身の男が黒い霧の中から現れていた。
「クローン風情が……」
――……人の嫌な記憶を反映し、具現化するのがタタリの力か……
 白レンに教えられたタタリの特性を思い返し、チッと舌打ちする。
「くだらねえ……。完全に焼き尽くしてやるぜ」
 赤いグローブをつけた掌に一瞬現れた炎を握りつぶし、K´は構えた。


「……ここは、どこだ……」
 その男はぼろぼろだった。身に纏うものもそうであったし、濃い疲労と厭世を帯びた表情から男の心もそうであることがうかがえた。
 だが男の目の奥には、一つの強烈な感情が存在していた。
 ドノヴァンはそれが何かを知っている。

 それは、渇望。

 己を満たすものを求め続ける乾いた感情。
 堕ちてしまったから、失ってしまったから、あれは、ただ求め続ける。
 己、ドノヴァン・バインと同じ顔をしたあの哀れな吸血鬼は。
「…………」
 アニタがドノヴァンの服の裾を掴む。ひどくしっかりと裾を握りしめる小さな手に、アニタが怯えていることをドノヴァンは感じた。
「案ずるな。下がっておいで」
 アニタの頭を一つ撫で、一歩、ドノヴァンは前に出た。様子を伺うように緩やかに回転していたダイレクがひゅんとドノヴァンの頭の高さまで舞い上がり、その剣先を男に向けて静止する。
「まだそうなるわけにはいかぬ。故に、悪夢に溺れるわけにもいかぬ……悪夢は速やかに滅するがいい!」


「っ!? ……何で、弓塚さんが!!」
「遠野、くん……? どうして……?」
 突如現れた学生服姿の眼鏡の少年に、さっとさつきの顔色が変わった。
 戸惑いの色を浮かべつつ、少年は短刀を構える。
「弓塚さんは死んだはずだ、お前……何者だ……?」
「そんな、遠野くん、私、私は……」
 いやいやとさつきは首を振るが、遠野と呼ばれる少年は構えを解かない。一層の警戒、そして敵意の色をさつきへと向けるのみだ。
 さつきは人であったときにある吸血鬼に襲われ、死んだ。しかしさつきは吸血鬼として甦る。高い適正を持っていたからだろうとはシオンの弁だが、さつきにとってそれはどうでもいい。
 甦った直後、現実を認識できないまま、力に振り回されるように暴走しかけていたさつきの前へ、さつきが淡い思いを抱いていたこの少年、遠野志貴が現れ――さつきは彼に倒された。その時、志貴はさつきが死んだと、滅んだと思っているはずなのである。
「遠野くん……」
――仕方ないかも、しれないけど……でも……
 いつしか涙を浮かべたさつきの背を、優しく叩く者があった。
「……あ……サキエル、さん……?」
 顔を向ければ、そこにいたのは今、さつきの側にいてくれる人、サキエル。
「さつき君、しっかりするんだ。それはタタリだ。君の知る遠野志貴ではない。
 さつき君ならわかるはずだ」
「タタリ……あ、そう、そうでした……!」
 はっと我に返ったさつきは、ぐいぐいと目をこすった。
「遠野くんを騙るなんて……許せない……っ。絶対、絶対許さないんだから……!」
 きっ、とさつきは遠野志貴の姿をしたタタリを睨み付ける。素直で真っ直ぐな少女は、かつて想いを寄せた者を騙るタタリに本気で怒っている。
――これでさつき君は心配ないだろう。しかし人の不安や弱さをつくタタリとは、なんとも面倒な存在だな。
 さつきから遠野志貴へ、そして、もう一人現れていた「それ」へ目を向け、不快そうにサキエルは眉を寄せた。
――私の弱さは、貴様か。
 サキエルの眼から虹彩が消え失せる。真白い眼が見据えるのは、オレンジの髪、体にぴったりとしたレザーのワンピースを纏った少女。
 サキエルは、正確には彼が内包する魂はこの少女が何者なのかを知っている。
 ケイ・ナナサワ。シュウ・ナナサワという青年の妹。
「兄さんを返してもらうわ!」
「それは無理だ」
 冷ややかにサキエルは言い放つ。シュウは、「天使」であるサキエルがこの地上で活動する為にその肉体を奪った青年。ケイは兄を取り戻す為に何度もサキエルに戦いを挑んできた。
「ケイ。君には無理だよ。少なくとも、幻影に過ぎない今の君にはね。
 まあいい」
 サキエルの姿がケイの前から消える。かと思えばその背後にサキエルは立っていた。
「長々と問答するのはごめんだ。後がつかえているのでね」
 肩越しにサキエルは後方を見やる。そこにはキメラとおぼしき化け物の姿が何体か在る。
――護衛は、霊子演算器そのものとタタリだけではないということか――


「ふうん、俺の相手はあいつか」
 着ていたジャケットを無造作に脱ぎ捨て、アレックスは自分の目の前に現れた、ギリシャ彫刻を思わせる筋骨逞しく、かつ美しい体躯の金髪の男――ただし体の右半身が赤く、左半身は青い――に向かって一歩踏み出した。
「パットやトムが出たらどうしようかと思ったが……」
 余裕とも本気とも取れないことを呟き、アレックスは一度シオンを肩越しに振り返った。
「お前には近づかせない。お前はあのデカブツを倒す算段をつけてくれ。
 こいつらは所詮前座だ。そうだろう?」
 アレックスが同意を求めたのは、赤と青の男。
「私達にとっては遺憾なことだがね。だからといって与えられた役割は果たさねばなるまい」
 わずかに苦笑を浮かべて、男は答えた。
「さぁ、はじめようか。せめて楽しませてくれたまえ」
「こっちはのんびりつきあいたくはないんだがな。
 ま、頼んだぜ、シオン」
「……わかりました、アレックス」
 戦い始めたアレックスと男――それはこの二人だけではない、他の皆も、それぞれの前に現れたタタリが見せる悪夢のような存在と戦っている――見据えてシオンは頷いた。
――タタリが具現化した者達、キメラ、そして霊子演算器そのもの――オシリスの砂を守る全てを、排除しなければならない。
――アレックスはその有効な対策手段を私に求めた。
――白レンは既になんらかの手を打とうとしている。タタリでもある彼女が打つ手は――
――私には何ができる?
――キメラが来る。チャンスは逃さないか。その程度の知能は――
――私の恐れはオシリスの砂には具現化できない。彼女こそが具現化された『私』の悪夢なのですから。
――『私』を止めるすべ。タタリであり錬金術師である、『私』――む?
――今、何か、感じた。誰かが見ている。
――何を? 何故?
――不明。気配も全て消失。キメラ隊の接近。
――……最優先事項の処理を……あれは。
――キメラもまた、悪性情報より生成されたもの――
 シオンは腕を振るう。ひゅんと空を切る音が走る。
 それだけの動きで、無数のエーテライトが宙を飛んだ。
 

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