月に黒猫 朱雀の華

幕外・十 エレベーター

 そのビルは街の中心からはずいぶん離れたところに建っていた。
 建築途中のまま現在放置されているそのビルはそれでもずいぶんと高い。最上階に立てば、街を一望できる程度の高さがある。
 そのビルの名はシュライン――神殿を意味する。
 かつてこのビルの最上階にてタタリが起動した。死徒タタリ――ワラキアの夜はシオン達によって倒され、タタリは消滅した。
 そのはずだった。
 しかし人々が集い、社会を形成する地には噂や伝承が必ず存在する。それらから自らを形成するタタリは既に不滅の存在なのかもしれない。
 例えその核となる人格を失っても、新たな人格が覚醒し、在り続ける。
 死徒が夢みる永遠を実現した唯一無二の死徒、それこそが「タタリ」なのかもしれない。

 シオン・エルトナム・アトラシア、アレックス、弓塚さつき、サキエル、レン、K´、そしてドノヴァン・バインとアニタの八人はシュラインの最上階へと向かうエレベーターに乗っていた。建築途中で放置されているため電気は止められていたのだが、シオンが管理システムをハックすることでビルに用意されていた自家発電装置を作動させ、エレベーターを稼働させたのである。
「……そういえばこのビル、今は遠野くんちのものなんだよね」
 小さなモーター音しか聞こえない、階が上がるに従って自然に高まる緊張感に耐えかねたか、不意にさつきが口を開いた。
「ここはタタリが展開した場所。この地域の人ならぬものの管轄役を自認する遠野家が放っておくわけはないでしょう」
「じゃあ、ここに来ること遠野くんに言っておいた方がよかったかなぁ……?」
 さつきは首を傾げるが、シオンは「いいえ」と首を振った。
「話せば志貴も秋葉もこの件に関わろうとするでしょう。
 彼らまで巻き込みたくはありません。先も言いましたがさつき、私はあなた達も巻き込みたくなかったのですよ」
 またそんなことを言う、と抗議するさつきと苦笑するシオン、二人の人ではない少女を眺めながらドノヴァンは先刻シオンと交わした会話を思い返していた。


 シュラインに向かう前、ドノヴァンとアニタ、そしてシオンの三人だけになった時間があった。
 偶然の産物のその一時、シオンはドノヴァンに言った。
「あなたのような方がいたのはありがたいと思っています」
と。
「どういう意味だ」
 ありがたい、という意外な言葉に怪訝なの色をドノヴァンは言葉に乗せた。
 シオンの言葉はドノヴァンを単純な戦力としてとらえたものではない。この程度のことをシオンがわざわざ口にするような者でないことぐらいは出会ってからの短い時間でもドノヴァンにも理解できている。
「あなたが部外者であることですよ。
 白レンと共にいるK´もそうですが、彼はあなたほどはこの件に乗り気ではないようですので」
「言いたいことがあるならはっきり言うがいい」
 促すドノヴァンに薄く、シオンは苦笑を浮かべた。あるいはそれは自嘲であったかもしれない。
「いくら「今」の私とは繋がらない、かつてのシオン・エルトナム・アトラシアの未来の可能性の一つとはいえ、「オシリスの砂」がシオン・エルトナム・アトラシアであることには変わりないのです。
 それでためらわない者が私達の中にいないとは言えません」
――確かに。
 ドノヴァンは心中で呟いた。真っ先に浮かぶのは弓塚さつきの顔。あの人のよい吸血鬼の少女はなんらかのためらいを持ってもおかしくはない。命を賭す戦いの中ではわずかな迷いも命取りとなる。シオンが懸念するのは当然のことだ。
――それに弓塚さつきだけではないだろう。
 例えば、アレックスという名の金髪の青年。ただの人間であり、シオンと近しい、おそらくは友人であろうあの青年もまた、迷い、ためらうやもしれない。
「勝手なことをと思われるでしょうが、オシリスの砂は必ず倒さねばならない存在です。あなたのような方がいれば不安要素をフォローし、勝利の確率を上げることができるのです」
 冷静な表情を向けるシオンにドノヴァンは何も答えなかった。
 ドノヴァンには答える必要も義務もない。
 それを理解しているのだろう、シオンもまた、それ以上言葉を重ねることはなかった。


 エレベーターは上へ上へと上昇していく。
 いつしかさつきとシオンも会話をやめ、口を閉ざす。何とはなしに一同が目を向けるのは、現在の階を示すプレートの数字。
――…………
 カウントアップしていくプレートの数字から、ドノヴァンは視線を動かした。
 動かした先には、金髪の青年。アレックス。
 アレックスはドノヴァンが自分に目を向けて持ちらとも表情を変えず、ひたとドノヴァンを見つめている。
 敵意の類はない。かといって好意の色があるわけでもない。
――敢えて言うならば……確認、か?
 アレックスはドノヴァンを見ることで、何かを確かめている。なにがなど、わかるものではない。あの家で会ってからのごく短い時間の中の自分の言動の中にアレックスが何を感じたのだろうと、ドノヴァンは推測するだけだ。
――…………どうでもいいことか。
 敵意がない、つまりこれからのことでアレックスが自分の邪魔にならないのであれば気にすることもない、そう判断してドノヴァンはプレートの数字に再び目を向け――それと同時に、カウントアップが止まる。
 数拍送れ、エレベーターも止まる。ほんの数瞬、かすかな浮遊感と共に体が重くなったような感覚が同居する。
 そして、扉が開いた。
 

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