月に黒猫 朱雀の華
幕外・七 優しい吸血鬼
「ドノヴァンさん、お茶……日本茶でいいですか?
アニタちゃんはミルクで大丈夫?」
キッチンから、かちゃかちゃと食器を出すものらしい音と共に、少女の声が聞こえてくる。
「サキエルさんはいつものコーヒーですよね」
「あぁ、お願いする」
青年は物柔らかな笑顔で頷いた。
客人を迎える、どこにでもありそうな光景。だがそれを演じるのは「天使」、そして「吸血鬼」だ。
――信じがたいが……
ドノヴァンはこの家を訪れてからずっと眉間にしわを寄せたままだ。
「ドノヴァン、お茶でいいのかい?」
サキエルと呼ばれた青年――「天使」――が問いかける。
「……どういうことだ」
「どういうこととは?」
「わかっているだろうが」
苛々とするドノヴァンにもサキエルはまるで動じない。
「わからないな。お茶は嫌いかい?」
「そうではないが」
「アニタ、君はミルクは?」
「貴様、人の話を……っ」
ドノヴァンが思わず声を荒げかける隣で、アニタはこくりと頷く。
「さつき君、お茶とミルクでいいようだよ」
キッチンに向かってサキエルが言えば、はーい、と明るい声が戻った。
「っ……」
苦虫を噛みつぶしたような顔でドノヴァンは押し黙る。
サキエルに案内されてこの家を訪れたドノヴァンとアニタを迎えた少女、弓塚さつき。彼女は吸血鬼なのだと家に向かう道中でサキエルは語った。元は人間であったが、ある吸血鬼に血を吸われたが為に、望まずして吸血鬼としての生を歩まなければならなくなったのだと。
『前もって言っておかないと、君はさつき君に襲いかかりそうだからね』
穏やかな口調だったが、サキエルの目はドノヴァンがそうする気配を見せるだけでもただではおかないと語っていた。
決してそれに気圧されたなどと言うことはないが、ドノヴァンはサキエルの言葉をとりあえず飲んだ。とりあえず、というのはサキエルの話を聞かねばならないからである。
が、この家を訪れたところでもう一つ理由が加わった。加わってしまった。
「お待たせしました!」
カップを4つ乗せたお盆を手に、少女がキッチンから姿を現す。
一見したところは、どこにでもいるような少女だ。
だが平静を装いつつも、ドノヴァンはダークハンターとしての、そして半魔としての血が少女の存在に反応し、昂ぶるのを自覚している。
少女から感じ取れる吸血鬼、ダークストーカーとしての気配、それは並の者をはるかに超えている。クラスAに匹敵するかもしれない。
それでいて、少女の振る舞いは普通の人間のそれだ。そのギャップがドノヴァンを戸惑わせる。
相当な力を、しかも闇の力を持っているというのに、何故こんなにも明るいのか、と。
「……さて」
戸惑うドノヴァンをよそにサキエルは一口コーヒーをすすり、カップを置いた。
「話を始めようか」
「うむ」
気を取り直し、ドノヴァンは鋭い眼光をサキエルに向けた。
「なんのお話ですか?」
「大事な話だよ。さつき君にも、きっと必要になる」
シオンはいい顔しないかもしれないがね、とサキエルが低く呟いたのがドノヴァンの耳に届く。しかしさつきには聞こえなかったようで、はい、と素直に答えて椅子に座った。
「君たちが気づいている通り、今この世界の天には、異界への門がある。
この世界自体がそもそも様々な異界が混ざりあって構築されているのだから、異界へ繋がる門や入り口や穴などはそう珍しいものでもないが、あれは良くないものだ。
あれの向こうにある世界は、決してこの世界とは混ざりあわない。あの門はそうならないように道を封じるためにある」
だが、とドノヴァンは異を唱えた。
「あの門には良からぬものを感じる。門の向こうのものの影響を考えても強い。封じているとは到底思えん」
「あぁ、あの門は開きかけているからね」
「今なんと言った?」
あまりにサキエルがさらりと答えたために、聞き間違えたかと思いドノヴァンは問い返す。
「あの門は開きかけていると。
完全に開いてはいないが、閉じてもいない。だから君のように存在に気づく者がいる。
本来なら、滅多な者には気づけないはずなのだよ」
気を悪くした風もなく、噛んで含めるようにサキエルは言った。
――開きかけた異界への門……もしあれが開けば、どうなる……?
想像しかけ、ドノヴァンは眉をひそめた。開きかけている今でさえ、良からぬ気配を感じるのだ。開いてしまえばろくなことにならないのはあまりにも明らかだ。
――やはり捨て置けぬものか。だが……
どうすれば、と考えを進めたドノヴァンの思考を遮るように、少女が口を開いた。
「……サキエルさん」
真剣そのものの目で、弓塚さつきはサキエルを見つめている。
「その門が開いたら、ダメなんですよね? きっととても悪いことが起きるんですよね?」
「あぁ、そうだろうね」
頷くサキエルは、さつきの視線を真っ向から受け止めている。先程と表情も口調も変わらないが、さつきの目から視線を逸らすことはない。
「あの門の向こうにあるのは、死者の世界。異界の集合体たるこのMUGEN界だが、ここは生者の世界だ。死者と生者は相容れない」
基本的には、とサキエルが付け加えたのはこの世界の特異性を考慮してのことか。死んだと認識されていた者が何事もなかったかのようにある日突然存在し始めたり、生と死の境界線が曖昧な者や、死者の世界になんらかの理由で関わる者達もまた存在するのがこのMUGEN界なのだ。
とは言っても、完全なる死者の世界がMUGEN界に取り込まれた前歴はないのであるが。
「じゃあ、なんとかしないといけないですね!?」
勢い込んでさつきは言う。その目に宿るのは強く真っ直ぐな意志。
あまりにも純粋で真っ直ぐなさつきの意志に、ドノヴァンの彼女への戸惑いは深くなる。
――何故この少女は、こんなにも真っ直ぐなのだ……?
人としての生を奪われ、ダークストーカーの運命を背負わされているはずだというのにこの少女は人の愚かなまでの無邪気な善性を何一つ失っていない。
目の前に突きつけられているというのにそれを信じ切れず、ただ呆然とドノヴァンはさつきを見ていた。
「そうだね。誰かがやらなければならないだろう」
「私、やります!」
ぐ、と両手を胸の前で握ってさつきは宣言する。
「この世界に何かあったら、いやだから。
サキエルさん、それにドノヴァンさん、手伝ってもらって良いですか?」
「あぁ、もちろんだよ」
一拍の間も開けずにサキエルは頷き、すっと視線をドノヴァンに向けた。
さつきも期待と不安の入り混じった目を向けてくる。
「…………」
「ダメ、ですか?」
「……いや」
不安の濃くなったさつきの眼差しに、そして、自分を見上げたアニタの視線に、ドノヴァンは首を振った。
「承知した」
「ありがとうございます!」
ドノヴァンの答えにたちまちさつきの表情は明るくなる、が。
「あ、でも……」
すぐに困った顔で首を捻った。
「何をどうすれば門をなんとかできるんでしょう……?」
――……やれやれ。
こういうところはやはりただの少女だ、とドノヴァンは呆れつつもさつきと同じ問いを己でも繰り返す。
あの影の正体はおおよそわかったが――サキエルの言葉が事実であるならば、ではあるが――対抗策を掴んだわけではない。
――やはりあの者達のいずれかを見つけ出すしかないのか?
銀の髪の青年、もしくは白い洋装の男。それを提案しようとドノヴァンが口を開きかけた時。
「手はあります」
「仕方ないわね、どうすればいいか教えてあげる」
少女の声が二つ、部屋に響いた。
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