月に黒猫 朱雀の華

幕外・二 路地裏の仲間たち

――高速思考、展開。
 糸が、走る。
 視認が困難なほど細いその糸は彼女を中心として周囲100mに渡って張り巡らされている。
 街行く者はその糸に触れても気づくことはない。意識することはない。
 その糸が僅か数ミクロンの細さのモノフィラメントであるからだけではない。
――分割思考、起動。
 オープンカフェのとある席に座した彼女――シオン・エルトナム・アトラシアが人々が認識できないよう、仕向けているからだ。
――滅びの噂……相変わらず人はこのような戯言を好むものですね……
――他には目立った噂は……車が海を走った?
――しかし戯れに広がることはままありますが……今回はおかしい。
――……やはり思考への介入能力が落ちている……
――特に出典があるわけではないというのに、具体的だ。
――この噂の広がり方、引っかかります。まるでこれでは……
――海の上を自動車が走るとは……向かった先がかつて朱雀の館があった島というのも気になりますね。
――たいがいの場合、少々怪しくとも元になる書物なりなんなりあるはずですが……
――仕方がないとは言え昔ほどは鮮明に読み取れない……
――……出典が判然としないのに、表の世界の者が知るはずもない「地獄門」の名が出ている……
――数ヶ月前のあの変事の時でさえ、表にはその名は出なかったというのに。
――受け入れていたつもりですがこういう時には不便ですね。
――何者かが、意図的に噂を作り上げているとしか思えません。
 シオンはモノフィラメント――エーテライトを介して伝わる人々の思考を分析する。端目からはただ黙ってコーヒーを傾けているようにしか見えないのだが。
――この状況……これはまるで……

「シオン!」

 覚えのある声に、シオンは分割思考の一つをそちらに向けた。シオンの対面に座っていたアレックスもそちらを振り返っている。
「白レンではないですか」
 駆けてくる声の主が、見知った少女であることにシオンは口元に笑みを浮かべる。
「久しぶりですね」
「ええ、お久しぶり」
 空いていた椅子に座りながら少女――白レンは答える。その隣に仕方なさそうに腰を下ろす青年――K´に続いてシオンは目を向ける。
「こちらは、貴女の――」
「ええ、操り人形(マスター)よ。K´というの」
 どこか得意そうな白レンの「マスター」という響きにシオンは苦笑し、アレックスは訝しげな顔をする。サングラスをかけたままのK´は無言でそっぽを向いていた。
「おそらく、貴方の聞き間違えではありませんよ。アレックス。
 ひとまず、おめでとうと言っておきましょう。
 K´、私はシオン。白レンの友人です」
「白レン?」
「ありがとう、シオン。こちらは?」
 怪訝な顔をするK´を無視して満面の笑みを浮かべた白レンは、アレックスへと目を向けた。
「彼はアレックス。貴女が家を出てから私達と共に暮らすことになった人です」
「路地裏同盟の新メンバーね。よろしく、アレックス」
「ああ、こちらこそ」
「でも……ふうん……」
 小首を傾げて白レンはシオンとアレックスを見比べる。その口元に浮かぶ笑みは、つい先程までのそれとは色が違う。楽しげなのは変わりないが、何か言いたげにも見えるその笑みにまたアレックスは怪訝な顔をした。
「何が言いたい?」
「お邪魔しちゃったかしら、と思っただけよ」
「邪魔?」
 異口同音に問い返したシオンとアレックスにあら、と白レンはまた首を傾げる。
「違うの?」
「何がですか?」
「んー、自覚ないならいいわ。
 シオンには別の話があるし」
 すっと笑みの消えた白レンに、シオンも表情を改める。
「話とは、街に流れる噂のことですか?」
「シオンも気づいていたのね」
「噂自体はさつきから聞いていました。確認を取ったのはつい先程ですが」
 軽く指先を動かす。それだけで張り巡らされていたエーテライトはシオンの腕輪へと収まった。
「…………」
「なんでしょうか、K´?」
 サングラスの下のK´の視線が自分に向けられたのを感じ、シオンは問うた。
「……あの糸はアンタか」
「気づいたのですか」
「人の頭の中にちくちく介入しようとするうぜえ糸だと思っていたが……アンタ何者だ?」
――白レンのマスターだけあって、ただの人間ではないと……あぁ、なるほど……
 いくらかの驚嘆を覚えるシオンに、K´のデータを思考が記憶から引き出す。
「K´……ネスツの」
「聞いているのは俺だ」
 シオンに最後まで言わせなかったK´の声には、いささか剣呑な響きがある。
「私はただの錬金術師ですよ。意識介入は必要あってのことだったのですが失礼しました」
「……チッ。次はその糸を焼き切る」
 詫びるシオンに舌打ちして再びK´はそっぽを向く。通りがかったウェイターを捕まえ、何やら注文している。
――焼き切る、というのは冗談ではなさそうですね。
 刹那、向けられていたK´の不穏な視線に居住まいを正してシオンは頷いた。
「気をつけましょう。
 ……それで、白レン?」
 ずるい、と言いながら自分も注文している白レンに声をかけた。
「チョコレートケーキあるの? じゃあそれと、チーズケーキと、あ、ミルクもね。ぬるめのホットで……って、なに、シオン?」
「本題に入りましょうか」
「そ、そうね……」
 慌ててシオンに向き直り、白レンは真面目ぶった顔で頷いて見せた。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-