月に黒猫 朱雀の華
再びの幕間・一 白い猫
か細い、弱々しい声がしている。
それでも精一杯、声は呼んでいる。探している。求めている。
自分を庇護するものを、自分にぬくもりを与えてくれるものを。
本来ならそれは、声のすぐ側にいるはずだった。離れることなどないはずであった。だがそれはいない。理由はおそらく、永遠にわからない。
声は呼ぶ。ひたすらに、ひたすらに。
――どこだ?
嘉神慎之介は草むらをかき分けながら声の主を捜している。
出先から屋敷に帰る途中に耳にした声、弱々しくも必死な声、それを見捨てられず。
慎重に草むらをかき分けることしばし、声の主を嘉神は見つけ出した。
「お前か」
草の根本に縮こまった、小さな猫。ようやく目が開いた頃だろうか、口をいっぱいに開き、精一杯声を張り上げている。
膝をつき、嘉神はそっと仔猫を抱き上げた。
片方の掌にすっぽり収まるほどに小さな、あたたかい、白い猫。
怯えているのか、空腹なのか、寂しいのか、寒いのか。小さな体が震えている。それでも仔猫は鳴き続ける。
「大丈夫だ。もう、心配することはない……」
囁き、嘉神は仔猫の頭を撫でた。下手に力を入れれば壊れてしまいそうな、小さな小さな猫であるだけに、優しく、やさしく。
嘉神の声が伝わったのか、それとも鳴き疲れてしまったか。次第に仔猫の体の震えと声は小さくなり、やがて、眠ってしまった。
その日から、嘉神の屋敷に新たな住人が増えたのである。
まだ小さい仔猫の世話は嘉神が思う以上に大変であった。なにせ食べるものからして難しい。牛の乳やおもゆを一刻半(三時間)ごとに与える日が続いた。
さらに嘉神の本来の役目は朱雀の守護神として現世を護ること、仔猫一匹にかまけているわけにもいかない。故に嘉神は役目に就いているときは自分で作った式神、普段は屋敷の管理を任せているそれに仔猫を任せた。それでなんの問題もないはずだったが、役目の最中でもふとした時に仔猫を気にかけている自分に嘉神は気づいていた。
――猫一匹のことだというのにな……
どうしたのだろうなと嘉神は自分に対して苦笑する。
その理由が、仔猫が初めて己の身近に置いた「庇護すべきもの」であったからだということに嘉神が気づいたのは、ずっと、ずっと後のことであった。
腕に抱いた白い猫が、嘉神を見上げて「にゃぁ」と鳴いた。
嘉神の胸元にすりすりと頭をすり寄せる。ここしばらく忙しくしていた嘉神が久しぶりにゆっくりしているのが嬉しいのかもしれない。
「毛がつくではないか」
そう言いつつも嘉神は猫を腕から下ろすこともない。
もうすっかり大きくなった猫と過ごす時は、嘉神の短い休息の時。気まぐれに甘えてくる猫との時間は、いつの間にか嘉神にとって大切な時になっていた。
猫にはぬるく温めた牛の乳を、嘉神自身には紅茶を淹れ、のんびりと過ごす。こうしている中には友や師と過ごす時とは違った穏やかさと心地よさがある。
――拾った時には、こうなるなど思いもしなかったがな……
白猫の首を指で軽くかくようにしてやれば、ごろごろと心地よさげに喉を鳴らす。
最近の忙しさ――世に広まる不穏の気配。日本に開国を迫る異国人達を受け入れようとする者、拒む者達の争い。それらに応じるように常世が力を増しているのが地獄門を通しても感じられ、嘉神達四神は対応に追われている――から離れられる、このひととき。
「お前のためにもこの現世の理、秩序は護らねばな?」
珍しく、少しおどけた口調でそう言ってやると、仔猫はまた嘉神の胸元に頭をすり寄せ、「にゃあ」と鳴いた。
「慎之介、この頃妙な噂がある。気をつけよ」
そう直衛示源から聞かされたのは数日前だったか。
噂自体はたわいもない。『四神と呼ばれる者達が、何やら宝を持っているらしい』というものだ。宝は時に金であったり、名刀であったり、もっと漠然とした『力』であったりと様々だが、嘉神からすれば実にくだらない噂が広がっているという。
「先の見えぬ世で、何かにすがろうとする思いの表れなのだろうか」
珍しく憂いの色を浮かべて示源は呟いた。
白猫は、二度と動かなかった。
不穏な空気をはらんだこの現世では、様々な人が様々な意図の元に動き、集い、争っている。
『時代』が動いているのだろう、と玄武の翁は言う。
そして動く『時代』の中で、人は大きな愚を犯すのだと。齢百を超える翁は、少し寂しげにそう言った。
酷く痛めつけられた、小さな体。
抱き上げても冷たく、固い。呼びかけても、応えない。
「人は弱い」
慨世は言う。
「時代のうねりを直視し、それに立ち向かえる、あるいは受け止められる者は少ない。だがそれが人なのだ。
今の時代、迷う者も多かろう。道を違える者も多かろう。
こんな今だからこそ我ら四神は、心を決めて常世から現世を護らねばならん。
新たな時代への光を絶やさぬために」
そう言った慨世の眼には、限りない慈しみと強い意志の色があった。
外出から戻ったとき、屋敷は妙に静かだった。嘉神を除けば式神と白猫しかいない屋敷だ。静かなのが当たり前だが、その日の静けさは違った。
屋敷に入った嘉神はすぐに理由を知った。
酷く荒らされた屋内、術式を壊された式神。
動かない猫。
誰が、こんなことをしたのか。
誰が、小さな命を踏みにじったのか。
猫を抱いた嘉神の肩が震える。
と、がたりと物音がしたのを嘉神は聞いた。
「…………」
ゆっくりと嘉神が視線を向けたそこには、数人の男の姿があった。なりからして侍、いや浪人だろう。一人、陰陽師らしい格好の者がいる。
「貴様らか」
静かな怒気に満ちた声を嘉神が発すると、ひぃ、と誰かが息を呑むのが聞こえた。
耳障りだ、と嘉神は思う。右手で猫を抱いたまま、左手を軽く挙げる。その手に宿る、赤い炎。
男達が何かを叫んでいる。まともな言葉になっていない声の中に、宝なんか無かった、騙された、という言葉が聞こえた。
嘉神は無言で炎を宿した左手を――
りりりん! りん、りん、りん――!
澄んだ鈴の音が警報のごとく鳴り響く。
――怒っている――
鈴の音が。
何故かそう、嘉神は感じた。
りん、りん、りん――!
鈴の音以外の音は全て消え、全ての動きが止まり、全ての色が消える。
全てが崩れる。屋敷も、男達も、嘉神もその腕の中の白い猫も――
――夢……か。
目を開いた嘉神は、自分が布団の中にいることを知覚し、理解した。
――だが、あれは……あったことだ。
夜闇の中、ぼんやりと天上を見つめて思う。
かつて共に暮らした猫がいたこと、その猫は屋敷を襲った男に殺されたこと。
過去と夢の違いはただ一つ。
――あの猫は、白ではなかった。黒だ。
なぜそんな違いが起きたのかはわからない。夢に筋道を求めること自体がおかしいことなのだろうが。
現に、夢に時間の連続性はなかった。飛び飛びに記憶は再現され、唐突に終わった。
――……あの時、私は奴らを殺しはしなかった。
中途半端に終わった夢の続き、過去の記憶を嘉神は思い返す。今まで振り返らなかったあの時のことを、鮮やかに。
嘉神は炎は放った。しかし炎は男達を焼き殺さなかった。朱雀の守護神、現世の守護者としての理性がかろうじて働いたのだ。
炎に追われるように恐怖に駆られた男達は逃げだし、そして――
――私は声を聞いた。
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