月に黒猫 朱雀の華
幕間・八 朝
真円を描いた月がその夜の役割を終えて西の空に身を隠すのと同時に、日輪が東の空に姿を現した。
夜の帳を払っていく朝の光は白く、まだやわらかで優しい。
その光が、アーンスランド邸の嘉神の部屋にも静かに差し込んだ。
「……ん……」
淡雪が溶けるように闇が消え、嘉神慎之介は目を覚ました。
――体が軽いな……
いつもの朝とは違う目覚めに、ぼんやりとベッドの天蓋を見ながら理由を考える。
――……あぁ、そうか……
視界に、レンの姿がない。
いつもならば胸の上に乗っているのに、今朝はなぜだかいない。
――どうしたのだろう……
なぜだか寂しいような気持ちで嘉神は体を起こした。
「ん?」
ベッドについた右手に触れた違和感に、嘉神は何気なく視線を向ける。
そこにはすやすやと穏やかな寝息を立てて眠っているレンの姿があった。
思考が、停止する。
嘉神の手に触れたのは、ベッドに流れたレンの青銀の髪。
ぎこちなく、嘉神は右手を持ち上げた。
宙に浮いた手がしばし逡巡し、レンの頭に触れる。確かな感触と体温が触れた手に伝わった。
幻でも見間違いでもない、間違いなくレンはそこにいた。
――いや待て……いつもレンは来ていたのだから今更驚くことはない……ないだろう?
嘉神は何を自分が動揺しているのかを自問自答する。
――……しかしあれは、レンが起きてから私の部屋に来たはずであって、今のこれは……つまり……
「…………」
ころん、と嘉神の方にレンが寝返りを打った。ちりん、と鈴の音がする。
慌てて手をレンの頭から離した嘉神の動きが、止まった。
――この鈴の音は……あの、黒猫の……
ベッドの上、そして部屋の中に視線を走らせるが、昨日いた黒猫の姿はない。
そしてベッドではレンがすやすやと眠っている。
その青銀の髪にも黒いリボン。
今は閉じられたレンの目の色も夕日の赤。
――……まさか……
猫が、鳴いている。
掌にすっぽり収まるほどに小さな、黒い猫。
怯えているのか、空腹なのか、寂しいのか、寒いのか。小さな体が震えている。
「大丈夫だ。もう、心配することはない……」
家路を急いでたどりながら、手の中の猫にそう声を掛けているのは――
「…………今、のは」
不意に浮かんだ光景に、呆然と嘉神は呟いた。
――あれは、私……か?
あの手もあの声も己のものだったような気がする。だが、猫を拾った覚えは嘉神にはない。
――いや……
一度断じて、嘉神は首を振った。微かに、先程の光景の欠片のような何かが脳裏をよぎる。
だがはっきりとは思い出せない。もやもやとしたその感覚に苛立ちと焦り、そして奇妙な切なさが嘉神の胸に去来する。
「思い出さなければ……ならない、気がする……」
自分の額に手を当てて嘉神は呟いた。
大切な何かを、己は忘れてしまっている。忘れた理由はわからない。ジェダがまだ自分に何かを仕掛けているのか、それとも他の要因があるのか。
しかし、忘れた理由がなんであろうと、思い出さなければならない。
それだけは、はっきりしていた。
――やっと、ここまで……
「……え?」
誰かの声が聞こえた気がして、嘉神は視線を向ける。
「っ!?」
向けたそこに、夕日の色。
いつ起きたのか、レンが嘉神の顔を覗き込んでいた。
「あ……おは、よう……」
「…………」
なんとか挨拶を口にした嘉神に、レンは頷く。
レンの赤い、夕日色の目に表情を決めかねている嘉神の顔が映っている。
「……」
レンが嘉神の両頬をふにっと摘んだ。
「ふぇん……?」
レンの目の中の嘉神も怪訝な顔をしている。
「…………」
ぐい、とレンが更に頬を引っ張った。
「ひ、ひはいではないは……ははへ……っ」
さすがに耐えかね、レンの手を離させる。
「……どういうつもりだ」
頬をさすりつつ問うても、レンは答えない。
「気まぐれに思いもかけぬことをする……まるで……」
苦笑しながら嘉神は言った。
「猫のようだ」
――あの猫が、レンであったりするやもな……
同時にそう思い、まさか、とすぐに否定する。あの黒猫はおそらく、レンが部屋に入ってきたときに入れ違いに出て行ったのだろう。
レンは、いつもと変わらぬ表情で小さく肩をすくめた。
幕間・終
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