月に黒猫 朱雀の華
幕間・六 嘉神慎之介
「…………」
夕食後、アーンスランド邸の図書室のドアを開けた嘉神は異様な光景に眉をひそめた。
図書室の空間一杯に光る術式や数式が描かれ、浮かんでいる。ヴァルドールとタバサが何やら議論しているのが聞こえたから、術式や数式を描いたのも二人なのだろう。
その入って行きがたい雰囲気に嘉神はすぐにドアを閉めた。
図書室で地獄門のことを調べたり、色々考えてみたいことがあったのだがこれでは無理だろう。
諦めて嘉神は自室へと戻ることにした。
――ん?
月明かりが差し込む廊下に、小さな黒い何かがいる。
ゆっくりと近づいてみれば、それは首に黒いリボンをつけた、黒猫だ。
廊下の真ん中にちょこんと座り、真っ直ぐに嘉神を見上げている。
その眼が夕日の色であることが、青白い月光の中でも見て取れる。
――レンと同じ色だな……
嘉神は更に猫に歩み寄ってみるが、猫は逃げるそぶりも見せない。どころか、嘉神の足に身をすり寄せた。
リボンに鈴でもついているのか、ちりり、と澄んだ音がする。
――……この鈴の音……聞き覚えがある……
やわらかであたたかな猫の体の感触を感じつつ、嘉神は猫を見下ろす。
その胸には、奇妙な感慨とも感傷ともつかないものが広がっていた。
切ないまでの懐かしさ、愛おしさ――
「お前はどこからこの屋敷に迷い込んだ?」
そっと、嘉神は猫を抱き上げた。猫の顔を自分の顔に近づける。
鳴きもせず、抵抗もせずに猫は自分からも嘉神に顔を寄せると、さり、とその頬を舐める。
「フ……。ずいぶん人懐こいな」
笑んだ嘉神の顔が、猫の赤い眼に映る。
皮肉でも嘲笑でもなく、自嘲でもない、素直な笑み。
――こんな顔で、私は笑うのか……
己の笑顔に、嘉神は我がことながら戸惑う。
こんな笑みを自分が浮かべられるなど、思いもしなかった。
――人の醜さに絶望し、憎悪し、その果てに自らの命を絶とうとした己が、あんな風に笑んだとは――
「…………っ」
いたたまれない思いに嘉神が猫から眼を背けようとした瞬間、さり、とまた猫は嘉神の頬を舐めた。
「……?」
動きを止めた嘉神の頬を、二回、三回と舐める。
「こら、くすぐったいではないか」
嘉神が制しようと声を掛けてもやめない。爪を嘉神のタイに引っかけて、顔を寄せたままだ。
嘉神は何とか、せめてタイから爪を外させようとするが、猫ももがいてそれには抵抗する。
「こら、やめないか」
猫を自分から離そうと、嘉神は猫を抱いた腕を伸ばし、上体を反らす。猫も負けじとタイに爪を引っかけた前足に力を入れるが――
「やめろ、レ……っ」
嘉神が言いかけた瞬間、猫の爪がタイから外れた。途端、嘉神の上体が大きく傾く。何とかバランスを取ろうとするが間に合わない。
「っ、わ……っ」
どん、とやや鈍い音と共に嘉神は廊下にひっくり返った。
「…………」
「…………」
自分の胸の上に乗った黒猫と、嘉神はしばし、見つめ合う。
さり、と猫が嘉神の鼻先を舐めた。心なしか申し訳なさそうに見える。
その表情が、何故か嘉神には切なく感じられた。
自分の中のどこかにある、懐かしい何かが震えたようで――
しかしその感覚はあまりにも淡く、しかと掴むことは出来ない。
「私は、心配ない」
ひっくり返ったまま、嘉神は黒猫の頭を撫でた。切ない気持ちが、少し和らぐ。
「おまえのほうこそ怪我はないか」
「…………」
黒猫は無言で嘉神の頬に頭をすり寄せる。
「そうか、よかった」
頷くと嘉神は体を起こし、立ち上がった。猫は腕に抱いたままだ。
「そろそろ帰るがいい。外まで連れて行ってやろう」
「…………」
「……っ」
ちくりとした痛みに視線を落とすと、嘉神の腕に、猫が爪を立てていた。
嘉神の視線に気づいたか、ぷいと猫はそっぽを向く。
「……帰りたくないとでも言うのか」
そう問えば、猫は爪を引っ込める。
「…………」
やれやれ、と嘉神はため息をつくと、猫を抱いて自室へと向かった。
黒猫は機嫌を直したのか、心地よさそうに嘉神の腕に頭を凭れさせていた
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