月に黒猫 朱雀の華
幕間・五 楓と扇奈
翁の家があるのと同じ山中に、少し開けた場所がある。
広場と言うには狭いが、剣を振るうには十分な広さだ。
そこで楓は剣の鍛錬に励んでいた。
「やぁっ! ふっ! せいっ!」
気合いの声と共に、剣閃が月明かりに舞うように疾る。
「とりゃぁっ!」
上段から刃を振り下ろし、楓は動きを止めた。
「ふぅ……」
ゆっくりと体を起こし、大きく息をつく。
――こう、なんだよな……
月光を静かに弾く刃に目を向け、楓は思った。
――こう出来ていなければ駄目なのに……頭に血を上らせて……力を制御し損なって……
昼間の嘉神との対峙を思い出し、ため息をつく。
以前嘉神を倒した後、修行を積み、青龍の力と精神を自在に制御できるようになった楓は、もう姿を変える必要はない。金の髪の姿に変わるのは、今では最大限に力を放つ一瞬だけだ。
それなのに嘉神を目にして激昴してしまい、昔のように力の勢いのままに剣を振るってしまった。
『それでは、勝てぬ』
脳裏に響いた嘉神の言葉に、楓の表情が険しくなる。
――嘉神の言う通りだ……あの人は、僕が力を制御できるようになったことも知らないはずなのに……見抜かれた……
納刀し、もう一つ楓がため息をついたところに、手拭いが差し出された。
「お疲れ様でした♪」
「あ、うん。ありがとう」
笑顔の扇奈に礼を言って、楓は受け取った手拭いで汗を拭く。
「体は大丈夫ですか?」
「大丈夫。僕の治りの速さは扇奈も知ってるだろ?」
青龍となる以前から、楓は常人より治癒能力が高い。ちょっとしたかすり傷ならあっという間に、今日受けた程度の傷なら二日もあれば痕も残らず癒えてしまう。
「それと心配するのは話は別ですよ」
もう、と、楓の頬をつついて扇奈はむくれて見せた。
「嘉神さんとの立ち合いをけしかけた私が言えることじゃないですけど……」
「そのことなら、僕は扇奈に感謝しているよ。
ああするのが一番早かったと今なら思うし」
あの時は激昴していたが、落ち着いてから思い返せば、言葉で語るよりも嘉神の「今」をより強く感じられたのではないかと楓は思う。
「今」の嘉神には地獄門の前で対峙した時のような狂気も、そして狂気の奥に見えた絶望も悲嘆もなかった。今はただ、嵐が過ぎ去った後の湖面のような静かなものだけが嘉神の中にあるように楓には感じられた。
師のこともあって嘉神を簡単には受け入れられそうにはなかったが、嘉神の変化自体は認めざるを得ない。
「……だから、扇奈が気にすることはないよ」
そう言って、今度は楓が扇奈の頬をつついた。
「楓さんがそう言うなら、気にしないことにします♪」
楓がつついた自分の頬に指を添え、扇奈は微笑んだ。
「そうだ、楓さん、ここでお月見していきませんか?」
「月見? ここで?」
「はい。お菓子もお茶も、持ってきてるんです」
――……しっかりしてるなぁ
どこからともなく、水筒と小さなバスケットを取り出した扇奈に楓は苦笑する。
「月見なら家でも出来ると思うけど……」
「だって……家には翁さんと示源さんがいるじゃないですか」
「あ……」
「久しぶりに、二人きりになりたいなぁ……と、思ったんですけど……」
小首を傾げて斜めに楓を見上げる扇奈に、楓は視線を泳がせた。
「駄目ですか?」
「そ、そうだね」
顔を赤くしながらも、楓はこっくりと頷いたのだった。
「どうぞ♪」
手近な木の根元に腰を下ろした楓に、隣に座った扇奈が緑茶を注いだカップを渡す。
蓋を閉めたバスケットの上には、マカロンを盛った皿が置かれている。
「お月見にはお団子だと思うんですけど……さすがに用意する時間がなくって。
だから、明日のおやつから出しちゃいました♪
これも美味しいですよ♪」
「扇奈が買ってくるお菓子は、いつも美味しいから楽しみにしてるよ」
にっこりと笑んで言う楓は甘党である。好物は水ようかんであるが、こういう洋菓子もお気に入りであった。
「あ、じゃあ、今度一緒に買いに行きませんか?
楓さんがどんなお菓子を選ぶのか知りたいですし♪」
「そうだね。じゃあ、今度行こうか」
「はい♪」
嬉しそうに頷く扇奈をかわいく思いながら、楓はマカロンを一つ口にした。さっくりとした歯触りの後に口に広がる甘さに、自然と楓の顔がほころぶ。
「うん、おいしい」
――お菓子食べてる時の楓さんって、やっぱりかわいい♪
自分もマカロンを食べながら、こっそりと扇奈は楓の表情を見つめる。
戦っている時は一人の剣士の顔であり、頼りがいのある強い男の顔であるが、こうしている時の楓は優しげで可愛らしい。
女装させたら似合いそう……などとこっそり扇奈は思ってみる。
「ん? なんだい?」
扇奈の視線に気づいた楓が首を捻る。
「あ、いいえ……あ、楓さん、これ、何味かわかります?」
首を振って誤魔化しながら、扇奈は薄い茶色のマカロンを楓に渡した。
「これは……」
食べていい? と楓は扇奈に尋ねてから一口かじる。
香ばしい苦みを含んだ甘みに、あぁ、と楓は頷いた。
「キャラメルだね?」
「はい♪
楓さんが、私に初めてくれたお菓子の味です」
「そう、だったね……」
一口かじったマカロンを見て、楓は呟いた。
扇奈と楓が出会ったのは二月ほど前、嘉神が地獄門に身を投げて一月ほど経った頃のことだ。
まだ楓は地獄門が完全に閉じていないことを知らず、嘉神が起こした災厄の余波――現世に降り立った常世の者たち――を消し去るために各地を巡っていた。
その道中で、扇奈と出会ったのだった。
所属していた組織が何者かに壊滅させられ、一人で逃げ続けていた傷だらけの扇奈の体力はその時には限界で、楓の目の前で倒れたのである。
もちろんすぐに楓は扇奈を介抱した。安全なところに運んで傷の手当てをし、扇奈が気づくまで見守った。
そして、気づいた扇奈に持っていたキャラメルをあげたのだ。
疲れ切っていた扇奈は、キャラメルを口にして少し、ほっとしたように見えた。気がついても楓に警戒を向けていた扇奈が、ようやく僅かながらも表情を緩めたのが、その時だった。
「私、キャラメルを食べたのはあの時が初めてだったんですよ。
あんなに美味しいものを食べたの、初めてでした♪」
「そうだったんだ」
「はい。あれ以来、私、キャラメルが一番好きです♪」
微笑んで扇奈は湯気の立つカップに口をつける。
出会った頃は硬い表情でいることの方が多かったのに、今では良く笑むようになった。
――でも……
ほんわかとした表情で笑む扇奈は過酷な運命を背負っている。
封印の巫女の、複製。
生まれた瞬間から、彼女はその為だけに生きてきたという。その為だけに剣の腕を、巫女としての力を磨き、外の世界のことをろくに知らず日々を過ごしてきた。彼女をそう育てた組織とやらは今はもうないにしても、彼女の運命が変わったわけではない。
封印の巫女が見つからないままなら、扇奈を巫女として封印の儀を行い、地獄門を封じることになる。
それは、扇奈の命が終わることを意味する。
――僕は、それは……
嫌だ。
はっきりと浮かんだ思いに、楓は顔を伏せた。
扇奈を失いたくない。
しかし楓は四神の一人、青龍だ。世を守らなければならない。
――だから、封印の巫女を、早く……
そう思いかけて、楓は唇を噛んだ。
それでは、扇奈の代わりに真の巫女の命が失われる。真の巫女にも、彼女を大切に思う人はいるだろう。巫女の命が失われれば悲しむ人とているはずだ。
――僕は……どうすれば……
「……楓さん?」
「え、……わぁっ」
間近に見えた扇奈の顔に、楓は思わずのけぞった。手にしていたカップが大きく傾くが、幸い減っていた中身はこぼれることはなかった。
「どうしたんですか? 恐い顔をして?」
「う、ううん……なんでもない……」
「そうですか?」
「うん……」
首を傾げる扇奈に曖昧な笑みを向けた楓の脳裏に、ふと、嘉神の言葉が浮かぶ。
「……迷ってるのは、嘉神だけじゃなかったな、と思って」
「そうですね……」
妙に神妙な顔で、扇奈は月を見上げた。
「でも、答えは出さないといけませんから」
「そうだね」
――扇奈は、強いな……
凛とした扇奈の横顔に、楓はそう思う。
「扇奈」
「はい」
「……僕は、僕の出来ることを精一杯しようと思う。
でも、出来るならば僕は……」
ゆっくりと、楓も月を見上げた。
銀に輝く真円の月は、地獄門が間近にあってさえ、闇をやわらかく照らす。
道に迷う者を、少しでも手助けせんとするかのごとく。
「僕は、誰も悲しませない方法を、見つけられたらって、思う」
「そうですね。そうできれば……いいですね……」
そっと、扇奈は楓の肩に頭をもたれさせた。
――楓さんは、優しいな……
扇奈には、楓が何を思い悩んでいるのかがわかっていた。自分が封印の巫女の複製であり、封印の巫女が封印の儀でどんな役割を担うのかを告げた時から、楓がずっと悩んでいることを知っていた。
誰も悲しませない方法、そんな方法があればいいと扇奈も思う。でも、出来るはずがない。
真の巫女か、扇奈か。誰かが贄とならなければ封印の儀は成り立たない。
封印の儀は、なされなければならない。なされなければ、世界は滅ぶ。少なくとも、人の世は破滅する。巫女一人の消滅がもたらす悲しみより、もっと大きな悲劇が起きてしまう。
それを防ぐためなら、一人の命など軽いものだ。
巫女の命であっても、扇奈自身の命であっても。
扇奈はそう、思う。組織にそう教育されたから、だけではない。楓と共にすごすようになってからいっそう強く思うようになった。
――……楓さんには、生きていて欲しいから……
たとえ自分が死んでも。それでも。
そう、それでも。
――でも……
できることならば。
――楓さんと、ずっと、いたいな……
巫女が見つからなかった時、自分が複製としての役割を果たすことに扇奈は恐れも迷いもない。しかしその一方で、楓と共にいたいとも思う。
だから、真の巫女が見つかるといい、見つかって欲しいと扇奈は密かに願ってしまう。
――こんなこと思ってるって楓さんに知られたら、嫌われちゃうかもしれませんね……
それでも、扇奈はそう願わずにはいられなかった。
――誰も、悲しませない方法……
自分で口にしながらも、それがどれだけ難しいか、いや、ほとんどないに等しいものであることぐらい、楓にはわかっていた。
――でも、諦めたくない……
扇奈を失いたくない。
誰かを悲しませたくはない。
――もう、あんなことは、繰り返したくない。
六年前、師を失い、家族ばらばらになった時のようにはなりたくない。
あの頃は小さく無力だったが、今の自分は成長し、力も手に入れた。
――お師さん……あなたなら、諦めたりしませんよね……? だから、僕も諦めない。
大切なものを、今感じる扇奈のぬくもりを失わないために。
闇を照らす月の光があるように、きっと、何か方法はある。
必ずそれを見つけ出してみせると、楓は月に誓った。
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