月に黒猫 朱雀の華
終の二 いこいのざにて じょうぜつにたわむれ
嘉神が目を覚ましてから、三日が過ぎた。
さすがに傷はまだ完治していないが経過は良好だ。そろそろ寝台の上での生活も終わらせようかと嘉神が考えていたその日、思いもよらぬ客人が現れた。
「うーんー」
金の髪の女性が嘉神を見ている。赤い、血の色がそのまま顕れたような色の目には隠す気もない好奇心がありありと浮かんでいた。
体を右に傾けてじっと見て、今度は左に傾けてじっと見る。
かと思えば、ぐるりと嘉神の周りを――つまり寝台の周りを一周し、無遠慮なまでに眺めてくる。
――…………なんなのだ。
寝台の上で身を起こした状態の嘉神は憮然と女性を見る。
アルクェイド・ブリュンスタッドという名のこの金髪の女性と、遠野志貴という名の眼鏡をかけた学生らしい少年の二人組が突然に嘉神の元を訪れた客人である。時間を取ろうとした執事を振り切ってやってきた――何やらこの後に予定があるらしいが――ために嘉神は着替える間もなく、非常に不本意ながらも寝台の上で二人を迎えることになってしまった。
真祖とも呼ばれる吸血鬼のいわば上位種であるアルクェイドはレンの後見人のような立場で、今回嘉神がレンのマスターになったと言うことを知って顔を見に来たのだという。遠野志貴は――無遠慮なアルクェイドの振る舞いにはらはらとした様子だ――その付き添いできたらしい。
レンに後見人がいたということは嘉神は初耳であった。主がいない使い魔のレンを、モリガンが持ち前の気まぐれさと同じ夢魔であるよしみで屋敷においていた、ぐらいにしか思っていなかったのである。
――しかし……これは。
嘉神は僅かに眉を寄せた。
アルクェイドがレンの後見人であるということ、寝台の上にあって先に無礼を働いているのが自分であるということの二点から、アルクェイドの無遠慮な振る舞いを我慢していた嘉神だったが、いい加減不愉快さを抑えられなくなってきている。
それを見越したわけではないだろうが、
「いいんじゃないかな」
ようやくアルクェイドはうんと頷いた。
「魔力も十分だし、悪い人じゃなさそうだし。ちょっとおじさんだけど、見た目も良いし。
いいマスターを見つけたわね、レン」
「…………」
嘉神が表にした不愉快さに気を止めた様子などまるでない明るい笑顔を向けたアルクェイドに、レンはこくりと頷く。どこかレンの表情は誇らしげだ。
「これで安心。彼との約束も果たせたわ。
嘉神だっけ? レンをお願いね」
「……承知した」
やはり全く屈託のないアルクェイドに、毒気を抜かれた気分で嘉神も頷く。
――天真爛漫というか……奔放というか、そういう質なのであろう。
こういう手合いに腹を立てても仕方がない、と嘉神は気分を切り替えた。申し訳なさそうな顔の志貴の様子からして、仮に怒ったところで通じはしないだろうということも推察できる。
「よし、レンのマスターも確認できたし、志貴、帰ろっ」
「え、もう帰るのか?」
「だって見るべきものは見たんだもん。問題ない人だし、レンも満足してるし、言うことなしだよ?
それとも志貴は何かあるの?」
「いや、俺もないけど……」
「ならいいじゃない。これ以上お邪魔しても悪いし。時間もあんまりないし、ほら、嘉神もまだ養生中だしね?」
自分の具合は取って付けた理由のような気がすると思ったが、さすがに嘉神は口には出さなかった。
「じゃあねー」
眩しい笑顔を残し、アルクェイド・ブリュンスタッドはくるりと嘉神達に背を向けた。
「あ、こら、待てよ。
ああもう、レン、いつでもうちに遊びにおいで。琥珀さんや翡翠も待っているからね」
「…………」
こくん、とレンは志貴に頷いてみせる。
「嘉神さん、レンを、お願いします」
志貴は嘉神に一つ頭を下げた。
「あぁ。
今日はこのような格好で失礼した。後日、こちらから正式に挨拶させてもらいに行く」
こんな格好で、またこんな状態でレンの後見人達との話が全てついてしまうというのは、嘉神としては納得できないのである。
「分かりました。お待ちしています。
では、お大事に」
穏やかに笑んで頷くと志貴はもう一つ頭を下げて踵を返した。既にドアは開いており、アルクェイドの姿もない。
一つ溜息をつくともう一度嘉神達に軽く頭を下げて、志貴は部屋を出ていった。
「志貴ー、早くー! 映画に間に合わなくなっちゃうよ!」
部屋の外、少し遠くからアルクェイドの声がする。
「アルクェイド、こら、勝手に行くんじゃない! 待てったら」
閉められたドアの向こうから小さく、駆ける足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
――変わった者達であったな……
しばし、閉まったドアを嘉神は眺めやる。
嘉神の見る限りアルクェイドは吸血鬼の上位種というだけあって相当な力を持っている。昼日中にひょいひょい出歩いてきたことからもそれはうかがえる。その力は全力のジェダ=ドーマと同等、もしくはそれ以上かもしれない。遠野志貴の方は一見普通の少年に見えたが、彼もまた何かしら特異なものを持っているのだろうと嘉神は感じている。
二人とも感じられるものとはまるでそぐわない振る舞いであったが。
――何はともあれ、彼女達に認められはしたか。
突風のように突然に現れ奔放に振る舞ってまた突風のように去った者達とはいえ、レンの後見人であることは確からしい彼女達に認めてもらえたことに嘉神はほっとしているし、実を言えば嬉しいものもある。
――まだ気がかりはあるというのに心が浮き立っている……。そのような年でもないというのにな。
薄く苦笑し、しかし、と嘉神はレンに視線を向けた。
「もっと早く彼女らを知っていたら、色々と相談も出来たのだがな」
レンに聞かせるつもりで正直な思いを嘉神は口にする。
「…………」
「わたしなにも悪いことしていないわ」という顔をしながらも、つう、とレンの視線は宙へと踊っていた。
アルクェイド達ならレンのことをよく知っているだろうし、レンに誰かと早く契約するよう彼女たちから説得もしてもらえたはずなのだ。そうすればレンも苦しい思いはせずにすんだだろう。そう考えたところで「む」と嘉神は小さく唸った。
――……誰かと。
そこに引っかかるものを覚えている。
レンが助かるためであれば、契約するのは自分でなくても嘉神は良かったはずだ。アルクェイド達にもし相談することが出来ていれば彼女らも適切な相手を探してくれていただろうし、レンも説得に耳を貸したかもしれない。
それはよいことであるはずなのに、そうであったかもしれない可能性を考えること自体、嘉神は落ち着かない。
何故そんな気分になるのか、その理由もおおむね自分で分かっているだけになお一層落ち着かない。
――そのような年でもないというのにな。
先とは別の意味で、嘉神は思う。
「…………」
レンが、ちらりと嘉神に視線を向けた。
「過去の可能性を論じても、まあ、仕方のないことだな」
一つ咳払いをして、嘉神は言った。
嘉神に視線を戻し、こくん、とレンも頷く。
「そうね、大切なのはこれからを考えることだわ」
楽しげなクスクス笑いと共に声が響き、ふわり、とモリガンがコウモリ達の作るマットに乗って現れた。
「世話になってる身で言うのもなんだが、普通に出てこれないのか」
嘉神は顔をしかめた。もっぱら寝台の上で過ごしたこの三日だが、それでも嘉神が不在の内にモリガンが相当好き勝手に結界に道をつけて回っていたことは察している。
「必要な道は残しておいたというのに……」
自分の仕事を駄目にされたことが、嘉神は気にくわない。以前行った結界の修正と道の固定は美しくできたと自負していただけになおさらだ。
「決められた道を通ってばっかりじゃつまんないでしょ。この部屋への道も閉じられていたし」
「客の部屋に突然現れる主がどこにいる」
「ここに」
悪びれた様子は全くなく言ったモリガンに、嘉神は小さく溜息をついた。分かってはいたがモリガンにはこういう事は言ってもやはり無駄である。先のアルクェイドにもそういうところは見えたが、あちらはおそらく天然の振る舞いだろう。だがモリガンのこれは意図的なものだ。モリガンに仕える執事悪魔達の苦労を改めて思いやる嘉神であった。
――どうせ、アルクェイド達との話も聞いていたのだろうな。
そうは思っても、確認する気は起きない。
「まあそれはともかくとして」
さらりと話を流してモリガンは首を傾げた。
「あなた、これからどうするの?」
「これから?」
「昨日今日とで他の人達はもううちを出てるわ」
嘉神より傷も疲労も少なかった他の者は確かにもう回復し、いち早くそれぞれの生活や役目に戻っている。地獄門を封じても四神の役目は終わるものではなく、そうでなくてもそれぞれの生活、生きる道があるというのは四神も他の者も変わらない。
――それに、黄龍……慨世のこともある。
どういう訳か、本来ならば常世に戻るはずの黄龍が未だこの現世に留まっている。どうもそれは黄龍の意志によるものではなく、戻る方法も分からないという。
黄龍が現世にあっても幸いにも地獄門の封印が揺らぐということも今はなく、ならば原因や対策を調べつつしばし様子見としよう、と昨日嘉神達はとりあえずの話はつけた。その分、体が回復した者からそれぞれの役目に早く戻ることにしているのである。
――黄龍が現世に留まる原因と、その影響は調べていかねばな……
しかし黄龍が現世に留まると知った楓や雪は嬉しそうだったと、嘉神はあの時の話――皆が具合を考慮してくれたためこの部屋で、嘉神は寝台の上であったのだが――を思い返す。少なくともその一点において、この件は悪いことではないのかもしれない。
――……私も丸くなったものだ。これは理に反することのはずだというのにな。
「だから、あなたはどうするのかしらって。あなたは完治にはもう少しかかりそうだけれど」
モリガンが続けた言葉に、嘉神は浮かびかけた苦笑を収めて意識をそちらに向け直した。
「私も役目に戻る」
「そう。やっぱり、あの場所に?」
「朱雀の守護神として地獄門の封印を監視する役目は彼の地でなくば果たせん」
地獄門を封じた今、朱雀の守護神である嘉神の役目は地獄門を監視すること。その場は元々地獄門封印の要の地であり、地獄門との因縁が深く刻まれたあの地をおいて他にない。
「でも今はあそこでは暮らせないわよね? ジェダが作ったものは消えちゃったし」
「建て直す。式神を使えば……そうだな、一月もあれば住むに支障のないものが出来るはずだ」
もちろん、庭などが完全に戻るにはもっと長い時間がかかる。それでもひとまずあの地で暮らせるようになれば十分だ。
この件に関しては、後に錬金術師でもあるあの紫の髪の少女――シオン・エルトナム・アトラシアが屋敷の建て直しに協力を申し出たことが一つのトラブルの発端となったのだが、それはまた別の話である。
「一月か……長いわね。
それまでは?」
楽しげに問うモリガンの口調は、もう嘉神の答えを分かっている風だ。というより、話の流れ的にモリガンがそこへ誘導したがっているのをようやく嘉神は察し、渋い表情を浮かべて口ごもった。
当然のことながら屋敷ができるまでの間は嘉神は宿無しである。どこか住める場所を見つけなければならない。
「……屋敷が出来るまでの間、ここで世話になりたいのだが」
数拍の間の後、仕方がない、という色を明らかにしながらもそう言って、嘉神は一つモリガンに頭を下げた。
もちろんモリガン以外にも宿を貸してくれそうな者には嘉神も何人か心当たりはある。しかし彼ら――師である玄武の翁だとか、親友の直衛示源であるとか――のところには世話にはなりたくはなかった。本来気安さでいえば、むしろモリガンより彼らの方が上なだが、今は非常に敷居が高い。
「…………?」
向けられた嘉神からの視線に、レンがきょとんと小首を傾げる。
「いや」
なんでもない、と首を振る嘉神に、クスクスとモリガンが笑った。
――モリガンには見抜かれるか……見ていたのかもしれんが。
更に渋い顔で嘉神は「あの時」や昨日の話し合いの際、何気ないきっかけで嘉神に向けてきた皆の表情――この部屋での話であったため、レンも嘉神の側にいたからなのだが――を思い出す。優しく穏やかな視線と表情、だが、何か言いたげで面白がってもいるようなあの表情を、間近で何かにつけて向けられるのは少々耐え難い。
モリガンの自分への態度もそれはそれでうっとうしさのあるものだが、ある程度の慣れと諦めが既にある分ましなのだ。
「優しさが重荷になるなんて大変ね。
いいわよ。部屋は空いてるんだし、あなたがいると執事達もヴァルドールも喜ぶわ。
もちろん、レンも一緒ね」
ぱちりとウィンクをモリガンはレンに飛ばした。
こくん、と嬉しそうに大きく、レンは頷く。
「……貴様には世話になりっぱなしだな」
モリガンとレンの間で何かの確認が為された気配を感じつつも、真面目な感謝の言葉を嘉神は口にした。モリガンからの干渉を迷惑に思うこともあったが、常世から現世に戻された自分を屋敷においてくれたことや、図書室を使わせてもらったこと、ジェダとの戦いへの協力等々、モリガンから受けた恩は多いのだ。
――返していかねばならんな……
「あら、そんなこと気にしなくていいのよ」
あっさりと、本当になんでもなさそうにモリガンは言った。
「あなた達にはずいぶんと楽しませてもらったし、執事達も色々助かったみたいだし。
でも気にしているなら……そうね」
すっと、コウモリのマットが降下し、モリガンは嘉神に顔を寄せる。蠱惑的な光がその金緑石の色の瞳に走った。
「あなたの精気を……」
「…………!」
妖艶に笑むモリガンから嘉神が身を引くより早く、レンが嘉神の腰に抱きつく。
――レン?
モリガンの行動への不快もどこへやら、嘉神は戸惑いの表情を浮かべた。
――……なんだ?
レンは細い腕に力を込め、しっかりと嘉神に抱きつき、珍しくむっとした顔でモリガンを睨んでいる。
――「渡さない」……いや、「あげない」、か?
レンの険しい眼差しに浮かんだ感情を、嘉神はそう読んだ。その「渡さない」「あげない」対象が誰であることは考えるまでもない。
――つまりこれは、もしかして……妬いて……いるのか?
そう思うとなんだか嬉しいような面はゆいような気分で、嘉神はなんとなく咳払いをしてみたりする。
「冗談よ。
あなたの愛しい人を取ったりしないわ」
ね、とモリガンはレンの頭を撫でた。その手つきは優しい。モリガンの表情からも妖艶さは消え、慈しみの色が宿っていたがレンに気を取られていた嘉神は気づかなかった。
「…………」
警戒を残しつつもレンが表情が和らげると、すうっとモリガンを乗せたコウモリのマットが下がった。それをちゃんと見届けてから、レンも嘉神から体を離した。
「一応聞いておくけれど、屋敷が出来たらレンはどうするの?」
何もなかったかのような顔で、モリガンは問いを口にした。
「連れていく。
……レンは、私の使い魔なのだからな」
「使い魔?」
わざとらしくモリガンは首を傾げて見せる。
「あぁ」
冷静に事務的に嘉神は答えた。長く布団に入っていたせいか熱くなってきたな、などと思いつつ。
「……って、言ってるけどそれでいいの?」
モリガンに水を向けられたレンは微笑んでいた。その小さな手は嘉神の手に重ねられている。
「甘やかしちゃ駄目よ、男はすぐ調子に乗るのだから」
こくん、とレンは頷いた。
「妙なことをレンに吹き込むな。だいたい何故レンが私を甘やかすという話になる」
「やだ、自覚ないの?」
口元に手を添え、大げさにモリガンは驚いた顔をする。その目はからかいの色を宿して笑っているのだが。
「…………」
嘉神は沈黙をもって答えた。というより黙殺した。
――話せば話すほど深みにはまっていくだけだ……
しかし沈黙もまた、モリガンの想定に入っていたようで、
「レン、ようく見ておきなさい。これが男というものよ?」
もったいぶった口調でレンに教え聞かせる。
レンの笑みに、ほんの少し困ったような色が混じった。
「フフフ、レンはちゃんと分かっているのね。ならいいわ。
それにこれで十分満足しているようだし?」
楽しそうにふんふんとモリガンは頷く。
嘉神はアーンスランド邸に逗留することを選択したことを少しばかり後悔した。予測済み、覚悟済みのことではあるがこの分では、逗留している間もしっかりモリガンはからかってきたりちょっかいを出してくることだろう。
――思っていたより高い宿代となるか……
「…………」
レンがぽんぽん、と布団の上から嘉神の膝を叩いた。嘉神をなだめるように、あるいは慰めるように。
「むう……」
レンにこうされては嘉神は更に唸るしかなかった。甘やかされる、というのはこういう事なのかも知れない、と思いながら。
「あらあら、ごちそうさま♪」
ふわりとコウモリのマットが浮き上がる。
「これからのことは聞けたし、これ以上ここにいたら胸焼けしちゃうかもだし、失礼するわね」
じゃあね、と軽く手を振ってモリガンはコウモリ達共々姿を消した。
――やれやれ……なにが「ごちそうさま」だ。
モリガンの気配が消え去ったのを確認してから、嘉神は一つ、溜息をつく。
「…………?」
首を傾げるレンの動きに合わせ、ちりん、と鈴が鳴った。
嘉神はレンの頭に手を置いた。嘉神の手にすっぽり収まりそうな小さな頭から体温がじんわりと伝わる。手に触れる青銀の髪の感触も心地いい。
そっと撫でれば、気持ちよさそうにレンが目を細める。
――これから、か……
レンの様子にフッ、と嘉神は笑んだ。ほんの僅かに自嘲を交えつつも、青い目に映す少女への愛しさがその表情には表れている。
するりと嘉神はレンを撫でる手を滑らせた。髪の流れに沿って撫で下ろし、ひとすくい手にすくう。
さらさらとしたレンの髪は、少しでも手を傾ければこぼれ落ちそうだ。その危うさを、青銀の髪の輝きを楽しみながら嘉神は髪をすくった手に顔を寄せ、優しく口づけた。
――この為の代価であれば、高いものなどないかもしれん。
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