月に黒猫 朱雀の華
終の三 ともにのぞみ ともに、ゆく
嘉神は手を傾け、レンの髪をさらりと流した。
どこかぽーっとしているレンの頭に軽くぽんぽんと手を置くと、寝台から下りる。
「…………!」
レンが嘉神の腕を掴み、ぶんぶんと首を振った。ぽーっとしたものは瞬時に去ったようで、ただ心配そうに嘉神を見つめている。
「傷はもう大丈夫だ。
横になっているのも飽きた。このままでは体がなまる一方だからな、散歩ぐらいはしたい」
「…………」
じぃ、とレンは嘉神を見る。嘉神の顔や体に視線を走らせ、思案の体を見せる。
ややあって、レンは嘉神の寝衣の袖をまくった。露わになった腕には包帯が巻かれている。そこをレンはそっと撫で、嘉神に目を向ける。
――手当てをし直したい、ということか。
「分かった。やってくれるか?」
今日はまだ傷の具合の確認もしていないこともあり、レンがこれで納得するのならばいいだろうと嘉神は頷いた。
寝台に座り直し、嘉神は寝衣の上を脱いだ。その傍らにぺたんと座ったレンが、一つ一つ包帯や膏薬を外しては傷や打ち身の具合を確かめ、手当てし直していく。
その表情は真剣そのもので嘉神のことを想い、気遣っているのが伝わってくる。それが嘉神が自分の主であることに基づくものではないことは明らかだった。
――契約を結ぶことと……抱く感情は別……か……
「……一つ、聞いておきたいのだがな」
レンの手当てを眺めながら、嘉神は口を開いた。
「アルクェイドに認められ、モリガンにああも言った以上、今更なのは分かっているが……」
しかしそれらが、問いを今発するきっかけになったわけでもある。
「……?」
歯切れの悪い嘉神の口調に、レンは手を止めて首を傾げる。
いつもと変わらぬ模糊としていながら真っ直ぐなレンの目に、嘉神は一度口ごもった。
――本当に、今更なのだが……
だがずっと嘉神が気にしていたことであり、おそらくは今確認しておかねばならないことでもある。さもなくば問うきっかけは見失われ、この先すっきりしないものを抱え続けることになる。気を奮い立たせ、嘉神は口を開いた。
「レン……、お前は本当に、私と契約を結んでよかったのか?」
「…………………………………………?」
たっぷりと間を取り、ぱちぱちと瞬きをして、レンは首を反対側に傾げた。この人は一体何を言っているのだろう、という思いがありありとその顔に浮かんでいる。
その様子に自分は間違っている、と嘉神は気づいたが言葉は止まらない。
「前に私がお前の主になると言ったときに、お前は拒んだだろう? 故に、その……なんだ、私はお前の意に染まぬことを無理強いしたくはない」
嘉神が話す内にレンの目は半眼になっていく。そのじとっとした眼差しを前にすると今すぐ言葉を切ってこの話はやめるべきだという気分に駆られ、それでも聞かずにはおれず嘉神はどんどん早口になっていく。
「だからもし今お前がそれを望むならば私は……」
嘉神の言葉はそこで途切れた。
レンが唇に押し当ててきた人差し指に続けられなくなったのだ。
嘉神が黙るとレンは指を離し、嘉神の右手を取った。掌を上に向けさせ、親指に――噛み切った傷痕のまだ癒えぬ親指に唇を寄せる。
傷ついた親指に一つ口づけを落とし、レンはそれをやさしく口に含んだ。
「……っ」
嘉神の肩が、小さく震えた。鼓動が自分でも驚くほどに跳ね、体が勝手に熱を帯びる。
あの時吸わなかった分のように軽くレンが指を吸う。ちゅ、という音が妙に大きく嘉神の耳には響いた。
「…………」
上目に視線を向けてレンが、更にちろちろと舌を傷痕に這わせたのを嘉神は感じた。ぞくりとした何か――決して不快ではない、しかし心をざわめかせる何かが身を走るを覚え、知らず、眉を寄せる。そのざわめきがなんであるかは嘉神も知っている。だが今それを認め受け入れるわけにはいかないと、理性が知らない振りを強いてくる。それを受け入れれば多分、取り返しのつかないことになる、と。
「…………」
嘉神の表情を、その心中の葛藤を見取ったか、レンの眼が宿す夕日の赤に楽しげな色が踊った。「わかった?」とレンの表情が語りかけるてくる。
「わかった……わかったから、すまん……」
素直に嘉神は白旗を揚げた。取られているのはたかだか親指一つだというのに、勝てない、という絶対的確信があった。
「…………」
ちゅ、ともう一度親指を吸って、レンは嘉神を解放した。
ふぅ、と嘉神は息を吐く。どうやら呼吸するのも忘れるほどにレンの行為に意識を持って行かれていたらしい。
――やれやれ……
浮かんだ苦笑がレンに対してのものか、自分自身に対してか、嘉神には判別がつかなかった。だが心はすっかり軽く、喜びがこみ上げてくる。
――やはり杞憂だったのだな……
しかし端からどう見えようと憂いは憂いであり、その当人にとってはそれなりに思い惑うことではある、としみじみと嘉神は思った。
そんな嘉神をよそにレンはにこにこと、見るからに上機嫌で手当てを再開している。
「……そこはもういいのではないか?」
ほぼ完治した、と思う箇所にまた丁寧に包帯を巻かれて嘉神は言うが、レンはふるふると首を振って手を止めない。
――まあ、して悪いというものではなし……レンも私を気遣ってのことなのだから構わんか……
好きにさせてやろうと、嘉神は手当てを続けるレンを穏やかな気持ちで見守る。
刻まれる鼓動はまだ普段より少々速く、上がった熱もくすぶり残り、
――……しかし……結局のところ、何故レンはあの時拒んだのだ……?
その疑問は解消されないままではあったが。
傷の手当てが終わると、嘉神は衣を改めた。
前と同じものを新しく仕立てたらしい嘉神の服一式は、部屋のテーブルの上に置かれていた。おそらくは執事悪魔が用意してくれていたのだろう。
――相変わらず彼らはいい仕事をしてくれる。
アーンスランド邸に逗留する間は彼らを色々と手伝おうと思いながら、シャツに手を通す。
「…………」
向けられる視線を、そういえばそうだった、という嘆息と共に嘉神は追う。
「…………」
青と赤の視線が交錯する。
ぺたんと寝台の上に座ったままのレンが、以前と何も変わることなくじぃっと着替える嘉神を見ている。
――……むう……
嘉神はそそくさとレンの死角へと移動した。言っても無駄だということはよく分かっている。
「…………」
レンは後を追うことはなく、小さな笑みを口元に浮かべてただ、肩をすくめた。
タイを締め、コートに袖を通す。
寝衣から着替える、それだけで気持ちがしゃんとしてくる。色々と落ち着かない気分も治まったと嘉神は思う。
――やはり寝てばかりはよくないな。
コートの襟元を整え、嘉神はテーブルの上の手袋を手に取った。はめようとして、思い直す。
――……今日は、いいか。剣を握ることなどないだろうし……
嘉神はレンを見た。
「……?」
「いや」
首を傾げるレンに首を振って見せ、嘉神はテーブルに手袋を戻した。
「出かけるが、一緒に行くか?」
答えの分かっている問いをレンにかける。間髪入れずレンは頷き、寝台から滑り降りて嘉神に駆け寄った。
嘉神の左手を取り、きゅっと握る。その手は小さく、あたたかい。
あ、と小さくレンの口が開いた。夕日色の目が嘉神の手を見て、嘉神の顔を見る。
嘉神は頷いて見せた。そうだ、とレンの問いかけを肯定する。
「…………」
こくんと頷き返し、レンは嘉神の手を握る手に力を込めた。くい、と嘉神の腕を引っ張って扉の方へ歩いていく。
この状態、その感覚を懐かしく、また愛しく思いながら嘉神はレンに手を引かれるままに部屋を出た。
レンは嘉神の手を引いて、嘉神はレンに手を引かれ、アーンスランド邸の廊下を行く。
廊下の窓から見える外はうららかないい天気と見えた。散歩日和と言って良いだろう。
あの日、常世から現世に戻された嘉神が最初に目覚めた日は春は訪れたばかりだったが、今見える庭の光景はまさに春真っ盛りだ。若緑の輝きはより増し、天から落ちた日輪のかけらのような花々が咲き乱れている。
――時は移りゆくもの。その流れの中で人は己の道を見出し、進むもの……私も、レンも。
嘉神の手を引いてゆくレンの歩みは、嘉神が普通に歩くものより遅い。身長が全く違うのだから当然だ。自然、嘉神がレンの歩調に合わせることになる。
普段の歩みより遅らせているのに、苛立ちやまどろっこしさといったものは感じることなく嘉神はレンと共に歩く。
いつしかこの速さはすっかり嘉神の身に馴染んでいる。
――……だがこれが当たり前になったのは、いつからだったかな……
最初にレンに手を引かれてアーンスランド邸を歩いたときも嘉神はレンの歩みに合わせていた。あの時は当面の状況を受け入れるのに精一杯であったから、レンに手を引かれるままに歩くだけだったからなのだろうが。
「あぁ、そうだ」
もう一つ、嘉神は思い出した。
「レン、言っておきたいことがあった」
足を止め、レンが嘉神を振り返る。「なぁに?」と首を傾げるレンに嘉神は言葉を続けた。
「「マスター」と呼ぶのはやめてくれないか。契約を結んだのだから私がお前の主ではあることは間違いないのだが……どうもしっくり来ないのだ」
――よそよそしい……いや、違うな、そうではない。そうではないのだが……
契約を結んだあの時、レンが自分を「マスター」と呼んでくれたことは嘉神は心の底から嬉しかった。それは間違いない。しかしずっとそう呼ばれると思うと、違和感にも似たものを感じる。これをいつの間にかの「当たり前」にしたくはないと思っているのだ。
「…………」
一呼吸の間、レンは嘉神を凝視した。それはどうやら嘉神の言葉を理解するための間だったらしく、すぐに唇が動く。
滑らかにレンの唇の動きはその名を形取った。
「――――」
いつもと同じくそこから声は発せられることはない。だが窓から差し込む明るい春の日差しの中、嘉神はしっかりとレンの言葉を読み取った。
【慎之介】
確かにレンはそう言った。
「――――、――――」
目を伏せたレンの唇が嬉しそうに一度、二度と、同じ動きを繰り返す。その様子にレンも「マスター」ではなく名で呼びたがっていたのだと、嘉神は知った。
「――――」
嘉神を見上げ、もう一度レンが唇を動かす。
「あぁ、その方がいい」
声は響かなくともレンが名を呼んでくれるのが嘉神もまた嬉しく、自然と口の端に笑みが浮かんだ。
笑んだ嘉神にレンも小さく微笑み、くるりと前を向いた。
「…………」
かと思うと、ふぃっと嘉神に向き直る。何か思いついた顔で、何か言いたげに嘉神を見る。
「なんだ?」
嘉神が問うと、レンは少し考えるそぶりを見せた後、くい、と手を引いた。
それきり特に何か伝えようとする様子は見せず、どんどん歩いていく。
――ふむ……?
怪訝に思いつつも嘉神は黙ってレンと共に進んだ。
廊下を歩いて角をいくつも曲がり、階段をいくつか下り――やはり邸内の結界がまた滅茶苦茶になっているのを嘉神は実感する――玄関ホールに着いた。
外への扉のノブに嘉神は右手を掛ける。
その手に、レンが手を重ねた。首を振る。待って、という制止の意がそこにある。
「レン?」
さっき言おうとしたことだろうか、と思いながら問うた嘉神に、レンは唇を動かして見せた。
【好きって、言って】
「…………なに?」
ぽかんとして嘉神は声を洩らす。読み違えたか、と思うが、レンはもう一度ゆっくりと唇を動かし、同じ言葉を繰り返す。
【聞きたいの】
そう最後に付け加え、夕日の色の眼が嘉神を見つめた。重ねられた、繋がれたレンの手に力がこもり、嘉神がそう言うまで離さない、逃がさないと強く切実に想いを訴えかけてくる。緊張の色さえ帯びたその表情が、レンの問いが決して戯れではないことを示している。
『外』へ進む前に聞かせて、と。扉の前で訴えかけてくる。
「あー……」
なんとも間抜けな声を上げている、と思いつつも嘉神は続くべき言葉を形に出来ないでいた。
レンへの好意、レンの望む言葉を自分が抱いていることは嘉神も自覚している。自分で戸惑うほどにその想いが深く強いものであることまで分かっている。しかしそこまで分かっていても面と向かって言うのはどうにも気恥ずかしいのだ。そもそも他者への好意を明確に示すということに嘉神は不慣れなのである。
――不慣れ、で逃れられるものではないが……いや、逃れる逃れないの話にしてはならんか……
真っ直ぐに嘉神の言葉を待っているレンを裏切ってはならない、と嘉神は思う。嘉神とて繋いだこの手を離したくはない。
一つ、嘉神は息を吸った。繋いだ手、重なった手はそのままに片膝をつく。レンと目線を合わせると同時に、自分の声が確実にレンに届くようにと。
「レン」
頬が熱くなる。年甲斐もない、と思うがどうにも抑えられないというか、そちらに割く気持ちの余力がない。
自分自身を逃さぬために、レンの想いに真っ直ぐに応えるために、レンの夕日色の眼をひたと見据える。
そして、嘉神はその三音を口にした。
「好きだ」
客観的に言えばその声は少々低く、小さかった。しかしその分声には嘉神の本心が宿っていたし、レンの耳にもしっかりと届いたのだろう。硬くなっていたレンの表情がふうっと和らぐ。嘉神の言葉を噛みしめるように頷くレンの唇がまた、動く。
【私も】と。
「あぁ」
繋いだレンの手をほんの少し強く嘉神は握った。この手が熱く感じるのは、自分とレンのどちらのせいだろうかとふと思う。この熱は自分のものだけではない、そう思うと気恥ずかしさも和らぐ気がする。
「……行くか」
先刻よりも激しい鼓動をなんとか収めようとしながら、嘉神は立ち上がった。
こくん、とレンが頷く。ちりん、と鈴が鳴る。
二人は、一緒にノブを回し、扉を開いた。
開いた扉からやわらかであたたかい春の光が差し込む。みずみずしい生の息吹を含んだ風が二人を誘うように頬を撫でていく。
扉をくぐる前に一度、嘉神はレンを見た。それを知っていた、待っていたかのようにレンも嘉神を見上げている。
ほんのりと浮かべた笑みは幸せと嬉しさを含み、夕日色の眼には嘉神への想いが表れている。
――守って、いかねばな。
愛しいこの少女を、この少女と共に在る「これから」の日々を。
――それが人である私の望みだ。
己の想いを露わにすることの気恥ずかしさも、レンの行動に戸惑い己でも思わぬ反応を示してしまうのも、受け入れるに躊躇うものが己の心の奥にあることを知るのも全て嘉神慎之介が人であり、レンを想うからこそだ。
時としてそれは認めがたく、醜く感じるものとなるかもしれない。レンを想うが故に過ちを犯してしまうかもしれない。
――それでも私はこの想いを抱いて進みゆくのだろう。
誰かが傍にいること、その人を想うことの心地よさ、心強さを知り、失いたくないと嘉神は望んだのだから。
「…………」
見上げたまま、レンが嘉神に寄り添った。ことん、と頭を嘉神にもたれさせる。
――慎之介、わたしも、いっしょ。
銀の鈴を振る音にも似た澄んだ声を嘉神は聞いた。
「あぁ」
幸福な気分で嘉神は頷く。こんな気持ちを抱くのは初めてだと思う。
「行こう」
もう一度嘉神はレンを促す。もう一度レンは嘉神に頷きを返す。
嘉神はレンの手を引いて、扉をくぐった。
それから二人は、ただ歩いた。
屋敷の庭を、近くの森を。互いに無言で、日が沈み始めるまで。
ずっと、嘉神はレンの手を引いていた。
共に望み、共に行く、愛しい少女の手を。
「月に黒猫 朱雀の華」 終幕
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