月に黒猫 朱雀の華

終の一 こがねのくさはら

 西に傾いた日輪の光に草原は黄金に染め上げられていた。
 やわらかに風が駆け抜けるたびに、さぁ、と音を立てて草が揺れる様はまるで海のようだ。
 そんな黄金の草原に、青銀の髪を風になびかせた黒い服の少女がたたずみ、何かを待っている。
 少女は嘉神に背を向けていたけれど、なぜだかそれを嘉神は確信していた。
 黄金と、青銀と、黒と。
 草原と、少女と。
 その光景は見とれるほどに美しく、しかしとても寂しいと嘉神は思う。
 黄金色に染まった景色の中にあるのは、ただ一つ異なる色の少女だけ。
 何かを待っている少女だけ。
 もし彼女が何も待っていないのならば、ただそこに在るだけならば、寂しいものなど嘉神は感じなかったかもしれない。
 だが少女は何かを確かに待っていて、だからこの光景は寂しい。
 故に嘉神は、呼んだ。

「――――」

 なんと呼んだかは嘉神自身にも分からない。
 それでも声は届いたのだろう、少女は振り返った。
 夕日色の――しかし、この世界を染める黄金色とは違った赤い目が嘉神の姿を映す。


――わたしは貴方を知っていた。ずっと、会いたかった。


 落ちていく。落ちていく。
 決して交わってはならない二つの世界、常世と現世の境界が薄くなったあの時に生まれた時空の歪みに。
 落ちていく。黒猫の小さな骸が落ちていく。
 命の失せた体に、共に暮らした人間のぬくもりの記憶だけを残して。

 魔術師の血のひとしずく、幼い少女の魂、黒猫の骸。
 一人の魔術師が一体の使い魔を創るのに必要としたもの。
 魔術師と使い魔を結ぶための肉体のかけら。
 外の世界を知ることなく病で死んだ、無知にして無垢なる魂。
 この世のものであってこの世のものでない――異世界から流れ着いた器。

 そしてその使い魔である少女は生まれた。
 彼女が夢魔の特性を持ち得た理由は分からない。
 魔術師が意図したのか、偶然なのか。外の世界を夢見続けた少女の魂の影響か、それとも、器の特異性が作用したのか。
 魔術師が何も語らず、何も残さなかった故に、誰にも分からない。
 使い魔であり夢魔である彼女本人にさえも。

 名前と、使い魔としての在り方と。
 共に過ごした何十年という時の中で魔術師が使い魔に与えたのはそれらと――最期のただ一度だけの、ぬくもり。

――わたしはこのぬくもりと同じものを知っている。

 魔術師が与えたぬくもりが少女を真に目覚めさせ、自らの器に残っていた記憶を認識させる。

 それからの時、新たな主――契約は結ばなかった。新たな主は少女と契約できる存在ではなかったのだ――の元で眠りと目覚めを繰り返す中で、少女は自分の内に在った知らない記憶を見つめ続けてきた。
 小さな「あの子」を拾った人、共に過ごしたその人の姿、声、表情、ぬくもり――

――会いたい。「あの人」に、会いたい。

 いつの頃からか、少女が抱くようになった望み。
 最初の主が最後に与えたぬくもりと同じぬくもりをずっと昔にくれた人に、会いたい。
 それは叶うはずのない望み。
 異なる世界、異なる時に生きている「あの人」と少女の生が交錯するはずなどあるわけがなかった。

 いや、「あるわけがない」ことは既に起きていた。

 少女を構成した三つのもの。
 魔術師の血のひとしずく。
 幼い少女の魂。
 黒猫の骸――時と空間と次元を超えて流れ着いた、小さな「あの子」の骸。これこそがあるはずがない、ありえないもの。

 だから二度目の「あるわけがない」ことだって起きてもいいはずなのだ。

 新たな主の元で少女は様々な人と出会い、様々なことを見て、生きてきた。
 少女の周りはいつしかずいぶんとにぎやかになり――「もう一人の自分」が具現化したりもした――周囲の人々は少女に様々なぬくもりを与えてくれた。教えてくれた。少女が少女として生きて良いことも教えてくれた。
 それでも、あるいはだからこそ彼女は「あの人」に会いたかった。彼女のゼロの向こうでぬくもりをくれた「あの人」に。
 そして、《むげん》の扉の中でその時は訪れる。

――会いたかった。

 あの日、何かに呼び寄せられるように少女が向かった山の中で倒れていた「この人」。
 酷い傷を負っていたが記憶の中の「あの人」の姿通りの「この人」はしかし少女の記憶にある「あの人」と同一の存在でありながら「あの人」とは違っていた。
 嬉しさと落胆を同時に抱いた少女の前に降り立ったのが、冥王。
 冥王は少女に囁き、一つの夢を紡がせた。
 「この人」を「あの人」とつなげる偽りの夢を。

 偽りの夢の中でも「あの人」である「この人」と過ごす時は少女にとって幸福だった。
 うまく夢が繋がらなかったのか、「あの子」のことを「この人」はなかなか思い出してくれなかったけれども、それでも幸せだった。
 「この人」も「記憶」の中の「あの人」と同じで優しくあたたかい人だったから。
 でも「あの人」と違って――たぶん「あの子」が知らなかっただけなのだろうけれど――「この人」は不器用で少しばかり鈍感で、弱くて、強い人だった。
 なのに少女の「この人」と過ごす幸福は損なうことはなかった。むしろ少女は――

――わたしは「この人」が――

 「この人」も「あの人」も、偽りの夢など望まない、好まないと少女は知っていた。
 最初から、いつか終わらせるつもりだった。
 いつかは。

 いつかは、いつ来るか分からないものだ。しかし必ず訪れるものだ。
 その時、「この人」は「あの子」を思い出したけれども、傷だらけになって戦っていた。
 その姿に遅すぎたと少女は悔やんだ。終わらせれば「この人」に嫌われると恐れもした。
 けれど夢を終わらせることには少女は迷いもためらいも、なかった。
 何を失っても、自分の命が終わっても構わなかった。

――だってわたしは「この人」が好き。会いたかった、知らない、貴方が好き。


 風が、吹いた。
 草原をさやさやと静かな音が駆け抜けていく。

 風が行く末を、揺れる黄金の草原の様に嘉神は見る。
 それは遙か彼方。無限にして夢幻の可能性。

 その名は、未来。

 少女が笑んだ。待っていたものが来てくれた、その喜びに。
 少女は駆けだした。さわさわと揺れる黄金の草原を、青銀の髪をなびかせ、黒いコートの裾を踊らせ、嘉神に向かって真っ直ぐに駆ける。
「――――!」
 両手を一杯に広げ嘉神に飛びつく。

「レン」

 嘉神はその名を――しっかりと抱き留めた愛しい少女の名を、囁いた。


――…………
 意識が覚醒したとき、嘉神慎之介の碧い瞳が映したのは、どこをどう見てもどこかの屋敷の天井であった。
――いや。
 訂正。
 どこかの屋敷の寝台の天蓋であった。
――モリガンの、屋敷か……
 いつかとは違い、ここがどこかをすぐに嘉神は認識する。
 封印の儀を終えた後、傷の手当てもきちんとせねばならないこと、そうでなくとも皆休息を欲していたため、人数もあって嘉神達はアーンスランド邸へと引き上げた。そこまでは、嘉神は覚えている。が、玄関のドアをくぐったところでぱたりと記憶は途絶えていた。
 戦いや儀式で重ねた疲労でとっくに限界を迎えていた体を支えていた嘉神の精神力が、アーンスランド邸に着いた段階で力尽きてしまったらしい。その辺りのことがまったく思い出せないのだからよほど見事に気を失ったのだろう。
――……やれやれ、どれぐらい眠っていたのやら……
 よもや数ヶ月ということもあるまいが、と疲労も癒え、傷の痛みもほぼない体に嘉神は思う。
 少し視線を動かせばここが嘉神がずっと使っていた部屋であることはすぐにわかった。ここで嘉神が最後に休んだのはそれほど昔でもないというのに、ずいぶん久しぶりの気がする。
 更に視線を巡らせれば――
「…………」
寝台の傍らの椅子にちょこんと腰掛けた、黒ずくめの格好の少女と嘉神の視線が重なった。
 少女の身にまとったコートも、髪を飾るリボンも、黒い。コートの前紐だけが、真っ白なのが目についた。
 青銀の髪、夕日の赤の目の、嘉神の愛しい少女、レンが、あの最初の時と同じように、嘉神を見つめている。
 あの時と違うのは、レンの表情に安堵と心配の色があるのを嘉神が見て取っていること。
「おはよう、レン」
 今が何時なのかは分からなかったが、とりあえず嘉神はそう、声をかける。
「…………」
 目を細くして、こくんとレンは頷いた。ついで小さく首を傾げる。
「あぁ、大丈夫だ。体は楽になっている」
 一つ頷いて嘉神は答えた。
「…………」
 頭を真っ直ぐに戻し、レンは嘉神をじっと見つめる。その目にちらりと、奇妙な光が瞬いたのを嘉神は見たような気がした。

 とん

――……ん?
 耳にした音が、レンが椅子から降りた音だと嘉神が気づいたのは、レンの顔が間近に迫ったときだった。
「……っ」
 頬に、やわらかであたたかな、湿った感触。
 間近の赤い、夕焼け色の眼が、笑んだ。
 いたずらげに、楽しげに。嬉しげに。
 あの時もそうだったのかもしれない。そう思う嘉神は自分の口元が綻んでいることには、気づいていなかった。
 

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