月に黒猫 朱雀の華

十の十四 そしてむげんの夢を繋ぐ

「やったのか……」
 呟いたのは、誰だったのか。
「そうね、ジェダ=ドーマに関してはもう大丈夫みたいよ」
 答えたのは、モリガン・アーンスランド。既に彼女を包んでいた光の柱も魔法陣も消え、一時周囲から消え去っていた地獄門、常世の気もまた色濃く感じられるようになっている。
――モリガンが陣を解いたということは、確かにジェダは消えたと見て良かろう。
 剣を鞘へ収め、嘉神はレンの様子を見ようと視線を落とし――ぎくりと体を強張らせた。
 不意にもたれかかってきた、あまりにも軽い感覚に。
 白いコートをぎゅっと握り、すがるようにレンは嘉神にもたれかかっている。
 うつむいていたレンは嘉神の視線に気づいたか、ゆっくりと顔をあげた。
「…………」
 感情の薄い、とらえどころのないレンの夕日色の目が、虚ろに視線を宙に彷徨わせる。肌にはまるで血の気がなく、元より小さなレンの体が更に小さく、弱々しく嘉神には見える。
 嫌が上でも、先刻見た白昼夢――溶ける淡雪の如く、レンが消えていく幻――が嘉神の脳裏をよぎった。
――……消える……
「レ、ン……?」
 急激に渇いていく喉から声を絞り出し、嘉神はレンの髪に触れた。確かめるように指を滑らせれば触れている感覚はある。だが手袋越しではうまくレンの体温が感じられず、それがもどかしい。手袋を外してしまおうと嘉神が一度レンの髪から手を離そうとした時、
「…………」
かけられた声に、触れた手に、ようやく嘉神の姿、顔を捕らえたか、レンの視線の動きが止まった。おぼろな赤が、なんとか焦点を結ぶ。
 嘉神を映した夕日色の眼が少し、細くなった。
 小さな唇が僅かに、弧を描く。
 寂しげに、儚く。しかし満足げに、幸せそうに。
 レンは、笑んでいた。
 嘉神のコートを掴むレンの手に、力がこもる。その手を支えに、レンは嘉神から体を離した。
 一歩、後ろに下がる。
 レンに握られたままの白いコートが、レンが下がった分だけ広がった。
「…………」
 嘉神のコートを握ったまま、嘉神を夕日色の目に映したまま、レンは嘉神を見上げた。更にその目が細くなる。
――……っ……
 ただただ静かに笑むレンの存在が薄れていくのを、嘉神はひしひしと感じる。心臓を何かの手に鷲掴みにされたような感覚と共に、冷たいものが背筋を伝う。
――消える……レンが、いなくなる……これも、夢か。夢なのか。
 そうであってくれ、と嘉神は願ったが、白昼夢ではないことは、痛みを訴える体が否が応でも突きつけてくる。
 これまでなんとかその生を繋いできたが、とうとうレンという使い魔、夢魔は存在の限界に達したのだ。
 そうなったものが消滅、死するのは当然のこと。
 それをレンは理解し、受け入れている。満足と幸福の色の中に、諦めの色を僅かに交えた少女の表情はそれを物語っている。
――それでも笑むのか、お前は。
 嘉神は知らず眉を寄せ、両の手を強く握りしめていた。何か無性に腹立たしくてならない。
――死にたくないだろう? 消えたくなどないだろう? 生きたいはずだ。ならばもっと悲しげな顔をすればいい。なのにそんな笑みを浮かべて私の前から消えようというのか。
「――――」
 レンの唇が、動いた。
 こんな時でも、レンの声は響かない。それでも明確に、忌々しいまでに明確に嘉神はレンの唇の動きを読み取っていた。
――サヨナラ、だと? 何を言っている……っ
 レンが、嘉神のコートから手を離した。更に一歩、下がる。離されたコートは自然の理の通りにふわりと元の位置に戻っていく。
 しかしコートが戻りきるより早く――

――嫌だ。

 嘉神はレンの腕を掴んだ。僅かに嘉神が力を込めただけで骨が折れてしまうのではないかと思うほどにその腕は細い。
「っ!?」
 レンの目が驚きにか見開かれた。戸惑った顔で嘉神を、自分の腕を掴んだその腕を交互に見比べる。
「駄目だ。許さん」
――消えるなど、いなくなるなど、許さない。
 レンを見据え、嘉神は言う。渇ききった喉から発せられる声は少々掠れはしていたものの低く静かに響いた。だがそれとは裏腹に嘉神の思考は腹立ちと焦り、動揺のただ中だ。
 レンはずっと傍にいた。いつしか当たり前になっていたこのことが失われるのが、自分でも驚くほどに嘉神には受け入れがたいことになっている。
――だが、どうすればいい?
 レンを死なせないため、消えさせないために自分は何をどうすればいいのか。答えを求めた嘉神の思考に、彼女の言葉が浮かんだ。

『どうして簡単な答えを選ばないの?』

 からかいの響きがありながら、しかし心底不思議そうだったモリガンの問い。
――それは、レンが……望まなかった……
 一度問うた時に、レンは嘉神の使い魔になることを拒んだ。最初はレンは嘉神からの申し出を受け入れるかのように見え、またレンが自分に好意を持っていることも今は嘉神も知っているだけに、拒まれたことは今もって不可解だ。だが理由がなんにしろレンは嘉神の使い魔になることを望んではいない。本来ならば、このレンの意思を尊重するのが筋だろう。
――だが、今は。
 腕を掴んでいるこの時も存在を薄れさせていくレンを自分の元にとどめたいのならば、と嘉神は思う。
――拒まれたからなんだというのだ? 私はレンを失いたくない……!
「どうすればお前と契約できる」
「……っ!?」
 はっ、とレンが息を呑む。よほど驚いたのだろう、ぴょこんと猫の耳がレンの頭から生えた。
「教えろ、早く」
 猫耳など気にかける余裕など嘉神にはない。問う間にもレンの生命はこぼれ落ちていく。それが酷く恐ろしい。己が感じていた腹立ちが、不安と恐れの裏返しであることを嘉神は自覚した。掴んだレンの腕が今にも消えてしまうのではないか、次の瞬間にはもうレンはここにいないのではないかという考えがちらついて離れない。
「……」
 微かに、レンの唇が開いた。だが言葉は出ない。初めて嘉神はレンが声を発しないことを歯がゆく思った。
「レン!」
 焦りに荒げられた嘉神の声に、びくっとレンが身を震わせる。怯えさせた、そのことでまた動揺する心を抑えつけ、嘉神は重ねて問う。
「頼む、教えてくれ、私はお前を……」

『血よ』

 知った声によく似ているのにまるで違う、玻璃の鈴を思わせる少女の声が嘉神の耳に響いた。
――誰だ?
『必要なのは、血。
 生命の結晶たる血潮が、使い魔と主を結ぶわ』
 嘉神の疑問など無視して一方的に声は語ると、ふつりと消える。声の正体は気にはなるが、今はそれよりも声の語った内容の方が嘉神には重要だった。
――……血か。そうか、そうだった……
 嘉神の使う式神の術でも、より強い式神を作るために術者である嘉神の体の一部――髪や血など――を式神に埋め込むことがある。そうすることで術者と式神の結びつきがより強固になり、それだけ術者の力が反映された強い式神となるのだ。
 その考えに基づけば使い魔と主が契約を結ぶのにも血液が必要なのは道理。そこに思い至らなかった己の愚かさを心中罵りながらも、嘉神は右手の手袋を外した。左手はレンの腕を掴んだままなので中指の先を咥えて乱暴に取り払う。優雅さも美学もない振る舞いだったが、気にしている場合ではない。
 露わにした手の親指の腹を噛み切る。鈍い痛みの後、口内に鉄さびにも似た赤い匂いが広がった。
「レン」
 傷から血をあふれさせる指を、嘉神はレンに突きつける。
「飲め。私の使い魔になって、命を繋げ」
「…………」
 レンは嘉神を見つめ、あふれた血がこぼれ落ちていく嘉神の指を見て、また嘉神の顔を見る。
――何故口にしない? 私の使い魔になるのがそこまで嫌なのか?
 レンに拒む様子は見られない。驚き、戸惑っているといった方がいいだろう。だがどういう訳にせよ、レンが嘉神の血をなかなか口にしようとしないことは嘉神の不安を煽り、焦りをつのらせる。
――ええいっ!
 嘉神は自分の親指を咥えて血を口に含んだ。先より濃く血の匂いが広がる。片膝をつき、レンの腕を掴む左手をその後頭部に回して抱き寄せる。
 そして唇を、重ねた。
「…………!?」
 更にレンの夕日色の目が大きく見開らかれた。頭に生えた猫の耳が、ふるふると震える。
 重なったレンの唇はひやりと冷たい。嘉神の記憶を戻した時はまだぬくもりがあったというのに今は雪のように冷たく、嘉神の体温で溶け消えてしまいそうな気さえする。
 それをとどめようと、逃すまいとレンを抱く嘉神の手に力がこもった。薄く開いたレンの唇に、含んだ血を流し込む。
――私の命で、力で、お前が救えるならいくらでもくれてやる。だからいくな、レン。ずっと私の傍にいてくれ……!
 驚いているのか、力がないのか、抵抗一つなくレンは、流し込まれた嘉神の血を飲んだ。
 こくん、とレンの喉が動いた気配を感じてから、ゆっくりと嘉神は唇を離す。
――……レン……
 祈るような想いで、嘉神はレンの顔を見つめる。
「…………」
 一つ、二つ。レンの目が瞬いた。
 カチリ、と何かが自分とレンの間で繋がった感覚を嘉神は覚えた。
 レンの頬に、ぽ、と赤みが差す。見る間に薄れつつあったレンの存在そのものが力を取り戻し、安定していくのが感じられる。
――助かった、か……
 その実感に不安と恐れが去り、自然にほっと息が嘉神の口から洩れた。
――……ひどい顔だ。
 レンの夕日色の目に映る自分の顔――レンの無事に表情は弛み、目尻に涙まで浮かんでいるみっともなさ――に苦笑する余裕までも嘉神に戻ってきていた。
 だが弛んでいたのは表情だけではなかったらしい。
 更に苦笑までしたみっともない顔の自分の姿が――レンの眼に映った姿が、つまりはレンそのものが近づいていることに、嘉神は一呼吸分気づかなかったのだから。
 あ、と思った時には、嘉神の視界にあるのはレンの笑み――幸せそうで満足げなものは同じながらも、先までとは異なる生命にあふれた笑み――だけになっていた。

――マスター!

 喜びいっぱいの、銀の鈴を震わせたような澄んだ声が嘉神の意識に響くのと同時に、小さな体が嘉神に飛びつくように抱きついた。細い腕が嘉神の首に回され、ぎゅうっと強く抱きしめてくる。
 抱きしめる腕の強さがレンの存在が確かであること、触れる肌のやわらかさやぬくもりがレンの生命の強さを、喜びに満ちた表情と弾む呼吸がレンが契約を受け入れたことを嘉神に全力で伝える。
 伝えられるそれらが呼び水となり、嘉神の胸を喜びで満たしていく。その中になお強い感情があることを、自分の胸を満たす感情が喜びだけではないことを嘉神は知った。
――……あぁ、そうか…
 それはいつの間にか嘉神の中に芽生え育っていた想い。喜びよりも強く熱い、意識しないままでも嘉神を突き動かしていた感情。
 腕の中にある小さな、だが確かな存在――レンがいつしか嘉神にとってかけがえのない大切なものになっていたこと。
――私は、レンが愛しいのだな……
「レン」
 嘉神もレンの背に腕を回し、優しく抱きしめた。



 こほん、と咳払いをしたのは、誰だったのか。

――!?
 レンを抱きしめたままの嘉神の肩がびくりと震えた。すっかり忘れ去っていた体のあちこちの痛みが、白々しくも主張し始める。
「そろそろよいかのう?」
 そう背から問いかけた声が、師であり四神の一人である玄武の翁のものであることを、すぐに嘉神は認識した。
 未熟な職人の作った機巧人形のようなぎこちない動きで、嘉神は周囲を見回す。
 玄武の翁、直衛示源、楓に黄龍、雪と扇奈。
 御名方守矢、刹那と久那妓。
 モリガン・アーンスランド。
 皆、嘉神とレンを見ていた。空の方からも視線を感じるような気がする。それらの大半が妙にあたたかな眼差しを嘉神達に向け、妙に優しい微笑みを浮かべている。例外は御名方守矢と刹那ぐらいのものだ。
 楽しそうなクスクス笑いを隠そうともしないモリガンのような例外もいたが。
――……みられていた、のか……ぜんぶ……
 ぎくしゃくとした動きで、嘉神はレンを抱く腕を解いた。続いてレンも腕を放してくれたので立ち上がる。
 立つ間にも自分の頬に、というか頭部全体に血が上っていくのを嫌になるほど嘉神は感じていた。隠れもせず、隠すものもないこの場でのことなのだから、見られるも何もない。しかしそう理解したところでこのいたたまれない思いが薄れるはずもない。
 正直なところ、この地でまだやらねばならないことを覚えていなければ嘉神は逃げ出していたところだ。為すべきことを忘れず、羞恥よりも役割を重んじて己を踏みとどまらせる、四神の一人としての自分の意識の高さ、朱雀の忠の精神を今は少しばかり嘉神は呪った。
「……?」
 ちりん、と鈴の音を立ててレンが小首を傾げる。「どうしたの?」と問いかけるかのような仕草だが、レンの頬も赤く染まっている。
「慎之介、これより再度封印の儀を始めるができるか?」
「大丈夫だ」
 そっぽを向く勢いでレンから黄龍へと視線を向け、嘉神は頷く。殊更に口調が素っ気なくなるのはどうにも抑えられない。
「でも傷の手当てぐらいはした方がいいんじゃないかな」
「うむ。慎之介、我らの内でお前が一番傷を負っておる。無理はいかん」
 優しい笑みを残しながらも心配した様子で楓や示源が言う。
「手当ては儀が終わってからでいい。
 封印を急ぐに越したことはない」
 この場から逃げ出すことは叶わずとも、この状態――皆に優しく温かく見られている状態――からは逃げたい一心で早口に嘉神は言う。が、玄武の翁が首を振った。
「お主の傷の手当てをするぐらいの余裕はある。慎之介、気持ちは分かるがはやってはならんぞい。儀式には出来る限り良い状態で当たらねばの?」
 ほっほっと翁は笑うが、嘉神は苦虫を噛みつぶしたような顔になっていた。気遣ってもらえるのはありがたい――本音を言えば確かに傷の手当てぐらいはしたい――が、いたたまれなさと居心地の悪さは最高潮だ。
「慎之介が傷の手当てをせねば、レン殿も心配であろう?」
「…………」
 こくこく、とレンが頷く。
 レンを持ち出すのは卑怯だ、と嘉神は思った。
 しかしそれを口に出して言うわけにはいかず、嘉神はあくまでも憮然とした顔で渋々頷くしかなかった。
 

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