月に黒猫 朱雀の華

十の十二 氷炎は鮮血に舞う

 切り裂かれる空気が悲鳴にも似た甲高い音をいくつも上げた。
 一気に間合いを詰める嘉神とレンに刃の歯車、刃の車輪が一斉に襲いかかる。嘉神が一つを剣で弾き、一つを炎で焼き尽くす。だが回転する刃は休み無く二人を襲う。
「…………っ」
 無言の気合と共に、青白く輝く氷の刃が刃の歯車を貫いた。宙へと跳んだレンの手から続けざまに放たれる氷の刃が次々に刃の歯車を穿ち、打ち消していく。
「……」
 嘉神の青い目が、レンを見る。
「……」
 レンの赤い目が、嘉神を見る。

――まずは、一つ。

 大気が唸った。
 すさまじい早さでジェダ=ドーマが飛来する。刃の如き翼が覆われ弾丸にも似た姿となったジェダが狙うは、レン。
「レン!」
 思考より先に嘉神の体は動いていた。炎を宿した左腕を振り上げながら跳び、ジェダに下方から拳を打ち付ける。
 しかしジェダの刃の如き翼は打ち抜けず、逆にあえなく嘉神は吹っ飛ばされた。だがかろうじてジェダの軌道が変わったことでレンが身をかわせたのは幸いであった。
「フハハハハハッ!」
 くるりと旋回したジェダが、今度は嘉神めがけて飛来する。
 なんとか身を起こし、嘉神は剣を持った右手を上げる。
 ぎぃん、と鋼が鳴いた。
 最小限の動き、最小限の力で嘉神は剣でジェダを受け流す。
「……ほう」
 刃の翼の向こうで、感嘆の色――それは傲慢なる上位存在が下位の者を見下す色でもあり――をジェダが浮かべる。シュッ、と音がして翼が広がる。
 ジェダの手に、巨大な鎌が現れた。
 鋭く、己の身の丈ほどもある鎌を軽々とジェダは振るう。長さも重さもまるで意に介していない、一流の剣士にも匹敵する動きで鎌は振るわれ、嘉神を襲う。
 されどジェダは鎌だけで攻撃しているのではなかった。その翼も自在に動き、嘉神にも予測しきれない位置から襲いかかってくる。
「くっ」
「どうした朱雀の守護神、そんなものか?」
 ジェダの動き、鎌や翼が空を切る音からの読み、剣士としての勘、それらを総動員して嘉神は攻撃を時に受け流し、時に弾き、時にかわし、隙を伺う。それでも雨あられの如く襲い来る攻撃全てはさばけず、嘉神の身には傷が刻まれ、白い服に赤い染みがにじむ。
――遊んでいるか……っ
 致命傷にはほど遠いところばかり狙うジェダの攻撃――それ故にかわしきれないところもある――に、傷の痛みよりなお強い不快感を覚え、嘉神は眉を寄せる。
――獲物を弄ぶ、獣か。
 無論、それは弄ぶだけの余裕を持てる強さがジェダにあることの表れでもあった。
「君に考え直す時を与えているのだよ、朱雀の守護神。無駄な抵抗は止めよとね」
 嘉神の思考を読んだかのように、ジェダは言う。
「ぬかせ!」
 弾指より短い機を見切り、嘉神はジェダの身へと剣を繰り出した。しかしそれをジェダは嘲笑と共に鎌で受け止め、弾き返す。同時に翼もまた嘉神に襲いかかる。
「…………」
 嘉神と激しく斬り結ぶジェダへ向けて、淡い光が、放たれた。
 二人の様子をじっと見ていたレンの両手から生まれたその光は、緩やかに、しかし真っ直ぐにジェダへと飛ぶ。
「フン」
 ジェダはただ、鼻で笑った。
 嘉神を襲う翼を返し、光を切り裂く。
「……これは」
 光が、広がった。
 裂かれた光はふわふわとした糸のように薄く広がりジェダに絡みつく。
「目くらましか。くだらないことを」
 今度はジェダは鎌ではなく伸ばした爪を振るった。爪がまとう血しぶきが舞い、光を、呑み込んだ。
「だが……フッ、朱雀に一息つかせる程度の時は稼げたかな。
 健気なものだ、夢魔よ」
 仕切り直しと一端間合いを取った嘉神に目をやり、ジェダは爪を収めた手を地へとかざす。その先には、自らの影。
 黒雲に覆われた天の下に赤黒く存在するジェダの影が、伸びる。広がる。蠢く。無数の手が影――いや血だまりから這い出る。
 血だまりはそれ自体が一個の生き物の如く、レンと嘉神に向かっていく。

――二つ。

「ふっ!」
 下段から嘉神は剣を振り上げた。剣の軌跡を赤い炎が彩り、野火の如く地を走る。走る炎は血だまりを喰らい、更に走る。
「ふむ」
 音もなく手の内に現れた巨大な鎌を、無造作にジェダは振るった。それだけで、ジェダに襲いかからんとした炎は消え失せ――振り抜いた姿勢から手を反し、ジェダは宙を薙いだ。
 そこに在るは黒をまといし小さなレン。
「……っ」
 襲いかかる鎌を、レンは氷の刃で弾く。本来はジェダ自身に向かって放たれるはずだった刃だ。
「果敢なことだ」
 ヒハハ、と嗤うジェダの手から鎌が消える。嗤いながらジェダは腕を未だ宙にあるレンに突き出す。人ではあり得ない長さに伸びたその手は、容易にレンの喉を掴んだ。
「レンっ!」
 叫んで地を蹴ろうとし、しかし嘉神は前ではなく後ろへと飛んだ。嘉神を挟むようにその左右両側から血だまりが襲い来たのだ。
「残念だったねえ? 我が鮮血は君ごときの炎では焼き尽くすことなどできはせんよ!」
 血だまりから噴き上がる無数の手を切り払い、なんとか前に進もうとする嘉神を嘲笑ったジェダは、吊り上げたままのレンを見やった。
「弱ったその身で、実に健気だ。使い魔としての性が、はたまた彼を恋い慕う気持ち故か……
 だが愚かなことだと思わないのかね。私の意のままにしていれば、君は君の愛しい朱雀と救済の刻まで平穏な時を過ごせたのだよ?」
 いっそ優しく、ジェダはレンに問いかけた。
「…………っ」
 レンは、きっぱりと首を振った。喉を掴まれ、苦しそうにしながらもその夕日色の赤い目を懸命に見開き、レンはジェダを睨み据える。
「しょせん、愚かな獣か。分かっているのかね、彼のこの窮地は君が招いたものだ。今更彼についたとて、君は許されざる者だ」
 びくりとレンの体が震えた。ジェダを睨む目が、苦痛ではない理由で潤む。
「安心したまえ。我が救済は平等だ。罪深き君もまた、救われる。
 さあ……」
 ジェダの肩が不自然に膨らんだ。ジェダからレンへと何かを送り込むように、ふくらみはジェダの腕をレンへと走る。
「……!」
 声にならない悲鳴をレンが、上げた。
――レン……!
 心臓を鷲掴みにされたような感覚に、嘉神の動きが一瞬止まる。左手に炎が宿る。
「ほおっ!」
「爆ぜよ!」
 嘉神の手から炎が飛んだのと、より大きなふくらみがジェダの腕を走ったのは同時だった。
 一呼吸の間の後、ジェダの腕が中程で爆散した。黒い小さな少女があまりに軽く、とさりと地に落ちる。
「やるものだ。さすがは、朱雀の守護神」
 落ちたまま動かないレンから動けない嘉神に目を向け、片腕のジェダは優雅に賛辞の言葉を口にした。
「ぐ、ぅ……っ」
 ぎっ、と歯を食いしばり、嘉神は身じろいだ。その体は地に広がる血だまりから伸びた無数の赤い手によって拘束されている。レンに気を取られたが為に赤い手に嘉神は囚われ、レンを救う炎を放ったのが最後の自由だった。

――……三つ……

 不意に嘉神の足下から地の感覚が消えた。何が起きたと思う間すらなく何処かへと引きずり込まれ、嘉神の視界が真っ赤に染まる。
 そこは赤い液体に満たされていた。液体の中だが呼吸に支障はなく、赤く染まっていてもそれ以上の視覚の異常はなく、聴覚や他の感覚も生きている。ここが異世界か、異次元か、なんらかの結界の内かは分からない。嘉神に分かるのはこの場を作り出したのが、
「ククク……無様なものだ。君の本分は世界の理を守ることではなかったかね」
嗤うジェダ=ドーマだということ。
 千切れた腕へ赤い流れが引き寄せられるように集まり元通りに復元していく中、ジェダは言う。
「世界より、黒猫を取るかね?
 この状況を招いた一端はあの夢魔にあるということぐらい、君も理解しているだろう?」
 嘉神が二つの記憶を持ったのはレンの仕業だ。結果、その力がこの世界のものとずれた。もしそれがなければ封印の儀を『嘉神』に奪われることはなかった――
――やも、しれん。
 ぎりぎりと己の身を拘束する赤い手の力に耐えて左手を握りしめ、嘉神は思う。
――だがそれは一面に過ぎない。
 レン一人の意志で左右されることを、この冥王が手とするかどうか。例え強者の傲慢さによってそうだったとしても、あの時ジェダ=ドーマの目論みに必要だったのは封印の儀における嘉神の座を『嘉神』に奪わせることであり、他の手段をジェダが用意していなかったはずはないのだ。
――なにより、事実がなんであろうと我が為すことは既に決まっている。
 先の誓いが、レンと過ごした日々が、嘉神の胸をよぎる。それとまったく同時に、
「朱雀の守護神といえど人の子、夢魔に惑わされるか……その愚かさ、弱さもまた、私が救うべきもの」
大きくジェダが手を広げた。
「朱雀の守護神に紅き終焉を」
 その言葉と共に、目に見えぬ力が全方位から嘉神を襲う。
「が、ぁっ……!」
 全身を穿たんとする突きにも似た衝撃に、喉を逸らし、嘉神は声を上げた。攻撃の最中でも嘉神を拘束する手の力は弛まず、どころか体がみしりと軋まんばかりに、肉が潰れ骨が折れそうなほどの力が加わる。それでも嘉神の左の拳は開かず、右手の剣も手放さない。
 嘉神の心は屈さない。
――ここで……っ、私が屈すれば全てが終わる……!
 四神の一人、朱雀が欠ければ封印の儀は為せない。それではレンも世界の理も守れない。屈することなど出来ないのだ。
 苦痛を浮かべながらも、嘉神はその青い目に揺るがぬ意志を浮かべてジェダを見据える。
「あぁ、いい目だ。気高く誇り高い、強き意志ある者の目だ。そんな者の魂を一に迎え入れられて私は嬉しいよ!」
 甲高く嗤い、ジェダは腕を振るう。融けるように空間を満たした赤が消え、代わりのように現れるのは先にも出でた巨大な契約書。
 嘉神を捕らえた腕が、大きくしなった。失敗した先と同じく、契約書に嘉神を叩きつけようとしているのだ。
 最大限にしなった赤の腕の動きが、一瞬、止まる。次の動きへの溜めを取る、それは一時の隙。
――今だ。
 嘉神は目を閉じた。何度目か、その左手に炎が宿り、今度は大きく燃え上がる。
 轟、と音を立てた赤い炎が嘉神を包み込む。刹那、炎が朱の大鳥の形を取ったかと思うと嘉神を拘束する鮮血の手を全て焼き払った。
 解放された嘉神は、どうにか地に着地する。しかし己が身を支えきれず、膝をついた。
「諦めの悪いことだ。一時逃れを何度繰り返す?
 かつての潔い君はどこにいったのかね」
 契約書の前に立ってジェダは腕を組む。まるで主が聞き分けのないペットを見るようなジェダの目を見返しながら、嘉神は剣を地に突き立てる。

――……四つ。

「あいにく、あの時と今の私では色々と異なっているのでな」
 剣を支えに立ち上がった嘉神の体のあちこちが痛みを訴えている。足下もおぼつかない。十全に剣を振るえるかどうかはいささか以上に怪しい。
 それでも嘉神には戦う理由がある。朱雀の守護神として、一人の人として、レンを守り、世界の理も嘉神は守る。潔く身を投げている場合などではないのだ。
「人は変わるか。しかしその変化など、誤差の範囲だよ。どう変わろうとも救済されるべき愚かさ、弱さを超越はできぬ」
 残念だ、そう言うようにジェダは首を振る。憂いの色さえ、その面にはあった。
「それは貴様の見方に過ぎん。
 貴様がどれほどの高みにあるかは知らんが、高すぎて蟻と象の見分けもつかなくなっているやもしれぬぞ」
「フン……私と同じ高みに立つことのない者の杞憂だ」
「どうかな。
 では高みにある貴様がいかに地にある者が見えていないか一つ言っておこう」
 嘉神の目が、ジェダから逸れる。青い目に映すのは、未だ倒れたままのレン。苦痛にか、時折ほんの僅か震えるその身にまだレンに息があることを嘉神は知り、安堵する。
――……生きている……
 そう感じるだけで体の痛みすら薄れるようで、嘉神の戦う意志は強固になる。もちろん今のレンの状態が決して楽観できる状態のものではないだろうことは嘉神もわかっているが、今は生きている、それだけで十分だった。
――今少し、待っていてくれ……
「レンが私に見せてくれた夢は、良いものだった。
 私が諦め悪くなったのは、レンの夢のおかげだ」
 ジェダへと視線を戻し、きっぱりと嘉神は言った。
 レンが嘉神にもたらしたのは、この世界の嘉神のものではない記憶と、この世界で共に過ごした時。
 確かに厄介だと思うこともあった。今この時の危機の原因がレンにあるともジェダは言った。
 だがそれ以上に、今この場に嘉神が在って戦っているのはレンの存在、その為したことがあってこそだと嘉神は思う。
 レンが在ったからこそ得た出会いがあった。近づけた者があった。モリガンからしてそうであり、フェリシア、京堂扇奈、都古――レン無しでは、彼女らや彼女らと共に在る者――楓や示源――との関わりも変わっていただろう。
 レンがもたらした記憶が在ったことで理解できたことがあった。傍らに誰かがあることの幸福、心地よさ、人にはそのような存在が必要であることを認められたのは、あの黒猫と過ごした記憶があってこそ。記憶は今は失われてしまったが、誰かが傍にいることの心強さへの理解までは消えていない。
「私はレンに感謝している。責める気など毛頭ない。
 今の状況がレンのせいであるならば、我が手で打開するだけのことだ」
 嘉神が目覚めたあの日、外への扉を開く力をくれたのはレンだ。外へと導いてくれたのはレンだ。
 小さなレンの手が自分の手に重なった感覚を、今も嘉神は覚えている。やわらかであたたかく、優しいあの手が、世界に生きる者が皆その一面を持っていることを嘉神に示してくれた。
 嘉神が過去に、己の醜さに打ちのめされた時に、寄り添ってくれたのもレンだ。励ますでなく、慰めるでなく、ただ寄り添ってくれたぬくもりが、どれほど心強かったことか。

――故に、朱雀の守護神嘉神慎之介はここに在る。

「高みから他者を見下ろしているだけの貴様には分からぬだろうがな」
 そう言った嘉神の声は静かに澄んで響いた。迷いのない、どこか晴れ晴れとしたものでもあった。
「分かる必要もないことだ。いや、一つ分かったか」
 対するジェダはあきれ果てた口調であった。やれやれと首を振り、憐憫の目を嘉神に向ける。
「朱雀の守護神がこうも愚かであったとはな。見込み違いか」
「私には幸いだな。
 貴様に見込まれても、困る」
「それがいかに危うきことかも理解できないとはな……つくづく残念だ。
 せめてその魂の価値が落ちていないことを願うよ」
 憂いの溜息と共に、ぱちりとジェダは指を鳴らした。
――来る。
 一つ息を吸った嘉神の左手に炎が宿ったのと同時に、嘉神の周囲から一斉に赤い手が雲霞の如く嘉神に襲いかかった。その数はこれまでを遙かに上回る。
「この数だ、どこまで抵抗できるかな朱雀の守護神!」
 嘲笑うジェダ=ドーマの声はしかし、轟音と共に走った青と黒の閃光に阻まれた。
 

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