月に黒猫 朱雀の華

十の十一 王手

「……彼らの準備は出来たみたいね」
 肩越しに後ろを見やり、クスリ、と楽しげにモリガン・アーンスランドは笑った。
「なるほどモリガン・アーンスランド、君は時間を稼いでいたのか。無駄なことを。
 あの二人に例え君が加わろうと、今の私には勝てない。分からぬ君ではないだろう?」
 音もなく、巨大な鎌がジェダの手に現れた。
「……あがき続ける彼らの愚かさは残念だが、だからこそ我が救済の手が必要。
 本音を言えばこれ以上余計な手間はかけさせて欲しくはないがね」
「借り物の力で救済、ね……」
 呟くモリガンの隣で、嘉神とレンが足を止めた。そこがジェダとのギリギリの間合い。ここから一歩踏み出せば、戦いが始まるだろう。故にモリガンもまたこの間合いを保っている。
「ジェダ、時間稼ぎといった貴方は間違ってはいないわ」
 モリガンが翼を広げ、ふわりと宙に舞った。
「もちろん時間稼ぎだけじゃなくて、お馬鹿さんに一言言いたくもあったのだけれど……フフ、ジェダ、私が嘉神とレンのためだけに時間を稼いでいたと思うの?」
「……何?」
 怪訝に眉を寄せかけ、はっ、とジェダは天を仰いだ。
 天高く、羽ばたく四頭のドラゴン、そして地獄門がある。
「救済を騙り、価値ある魂を讃えながら、あなたは他者をろくに見ていない。前もそれで失敗した。そして今回も。未来永劫、あなたの救世なんて成功しない。
 それをよく覚えておきなさい」
 ジェダを見下ろし、冷然とした口調で言ったモリガンの視線が、ふと他所へと逸れる。
「……ほんと、恨みを買いすぎてるわね。救世主が聞いて呆れるわ」
 腕を組んだモリガンが呟いたのを嘉神は聞いた。
――どういうことだ?
 モリガンの視線を追いかけた嘉神の左の袖を、レンが軽く引く。
「…………」
 自分を見た嘉神に、レンは頷いてみせる。
――……気にするな、ということか。
 小さく頷き返し、嘉神はジェダに視線を戻す。踏み込む機を見極める。ジェダの力は強大だ。見誤れば先と同じ轍を踏むことになる。
 モリガンが視線を天へ向けた。すうっと左手を天へと差し伸ばす。
「ヴァルドール、デミトリ、やって」
 まるで「紅茶を淹れて」程度の軽い願いであるかのように、モリガンは言った。

 モリガンの声に応えたのは、天から降ってきた光の柱。

 モリガンを中心に巨大な円を――嘉神の屋敷の敷地を丸々内に収めるだけの巨大さ――描く位置に無数の柱が天から振り、地にそびえ立つ。地に立った柱からは光が走り、互いを結び、見る間に精緻な魔法陣を描き出していく。
「これは……。
 させん!」
 ジェダが自らの背の翼を引きちぎった。血を滴らせながら、翼をモリガンに向かって投げる。回転するそれは刃と化してモリガンに襲いかかる。
「ふっ!」
 ぎいん、と鈍い音が響き、回転する刃が弾かれる。弾いたのは、宙へと飛んだ嘉神の一閃。
「ぬ……っ」
 ジェダは戻る刃を翼へと戻し、嘉神は地に着地し、互いに睨み合う。
 その間にも魔法陣は完成へと向かい、最後に一際巨大な光の柱が、モリガンを飲み込むように地に降り立った。

『天にあるものは天に』
『地にあるものは地に』
『在るべきものは在るべき場所に』
『奪う事なかれ、盗む事なかれ』
『理を乱す事なかれ』

 老人と女性――ヴァルドールとタバサの唱える声が交互に響く。その声と共に魔法陣の光が強くなっていく。
「結界……私と地獄門を切り離す気かっ!」
『地獄門もまた「扉」。「扉」の力の制御は、私の方が貴様より長けていたということだ』
 怒りに声を震わせるジェダに諭すように、しかし明確な嘲笑の意を宿した男の声が響く。
「デミトリ・マキシモフ! モリガンに力を貸すとは君も甘くなったものだな!」
 天を――黒雲の中心にある地獄門を見上げ、ジェダが吐き捨てる。
『力を貸したわけではない。排除したいものがたまたま同じだっただけだ』
 デミトリの声にはいかにも不本意そうな響きがあったが、そこには敵を追い詰める愉悦の響きもまた、あった。
『王手(チェック)だ、ジェダ=ドーマ』
 男の言葉と共に光の強さが最高に達した瞬間、咆吼――力を奪われる怒りに満ちた声――が大気を震わせた。
――常世の力がジェダから消えた……いや、この場が一時的に地獄門の力と隔離されたと見るべきか。
 常世の負の気独特の重苦しい気配が一掃された周囲を見回し、嘉神は状況を理解する。
 結界を張り、常世の力の及ばぬ空間を作り出す。言うだけなら簡単だが、決してたやすいことではない。
 この地は地獄門の直下に当たる地である上に、ジェダがかつての嘉神のように常世と繋がり、常世に堕ちていた頃の『嘉神』を具現化している等、強力に常世と結びついたものがある。その状態で常世の影響を断ち切る結界を展開したヴァルドール達の術がどれだけ高度で、強い術であったのかは容易にうかがい知れる。
――決して楽な術ではなかったようだが。
 光の柱の中のモリガンを嘉神はちらりと見やる。
 この結界の要はおそらくあの柱、そしてその中のモリガンだろう。モリガンが結界の最終的な制御をしているのか、結界を維持する力の供給源になっているのか、詳細は分からない。だがモリガンがその身を張って結界を展開しているのは間違いない。
「王手(チェック)にはほど遠い!」
 ジェダが手をモリガンのいる光の柱にかざした。その手を央として赤い魔法陣が展開する。怪しく光る魔法陣に力が収束していく。
「女王(クイーン)を取れば王手(チェック)を宣言するのは私となる!」
――やらせはせん……っ
 僅かに身を低くし、ジェダが仕掛けるのを阻もうと、嘉神が地を蹴ろうとしたその瞬間、

「貴様の手番はまだだ。ジェダ=ドーマ」

別の男の――嘉神が誰よりも知っている――声が響いた。
「貴様……っ」
 そのようなことを言うはずもない男の声であった。故に冥王でさえ、その男へと視線を向けていた。
 封印の儀を奪い取り、制御下においているはずの黒衣の『嘉神慎之介』へと。
 口元を歪めて笑みを、忌々しげでありながらもいっそどこか楽しげですらある笑みを、『嘉神』はジェダへと向けている。
 その体は、黒い霧へと崩れ始めていた。
「王手(チェック)だ」
「解析完了。白レン、そこです」
 崩れながらも言う『嘉神』の声に若い女性の声が重なる。

 雪が、舞った。

 どこからとも無く舞い散る雪はジェダの周囲を取り囲み、見る間に無数の巨大な結晶と化す。
「アハハハッ……鏡の中はいかが?」
 無邪気で幼い残酷さを宿した声が響く中、無数の結晶に無数の白い少女の姿が浮かび上がった。
 白銀の髪に白いリボンが揺れる、白い服の少女。
――レン?
 まとう色こそ正反対ながらも傍らの少女にそっくりな少女の姿に嘉神が眉を寄せたのと同じくして、結晶は一斉に砕けた。
 砕けた結晶の傷をそのまま映されたかの如く、ジェダの体に無数の傷が浮かび上がり、鮮血がほとばしる。
「ガァァァァッ!」
 絶叫するジェダの前で、舞う雪が渦巻いた。
「……夢から醒めまして?」
 ジェダに背を向け、嘉神達の方へと向き直って微笑んだのは結晶に映ったのと同じ、白い服をまとった少女。軽く挙げたその右手の上には、赤黒い霧が球体の形となったような物がふわりと浮かんでいる。
――やはりレンに似ている……何者だ?
 そういえばさっきの女性の声は「白レン」と言っていたか、と思い返しながらちらりと嘉神が見やれば、レンは僅かに小首を傾げた。その顔に、少し曖昧で少し困った風な笑みがちらりと顔を覗かせる。
「さあ、貴女は白い悪夢にお還り。大丈夫、悪夢でも夢は優しいわ」
 掌の球体に白い少女は囁く。
「そうは……」
 血みどろのジェダがその手を振りかざす。長く伸びる爪が刃と化し、白い少女に振り下ろされようとしたその時、
「シュート!」
銃声と共に刃は根本で砕かれた。砕かれた刃は一瞬高く舞い上がり、くるくると回って地に突き刺さる。

「冥王……常世の力、タタリの力を奪われてなお、その力は強大なようですね……」
 銃を撃った少女――シオン・エルトナム・アトラシアは刃を折られて苦悶の表情を浮かべる冥王を見据えた。バレルレプリカの一撃はジェダの刃をへし折っただけには留まらず、その存在にもダメージを与えたはずだ。
――もっともそれは微々たるもの。バレルレプリカでも冥王という概念は揺るがすまでは至らない。
――彼の中のタタリに介入し取り戻せたことだけでも重畳とするべきですが。
――これもジェダから一つの力が奪われ、『彼』が見過ごしてくれたからこそ成し得たことですが……
 シオンは『彼』の方に目を向けた。霧――タタリへと戻っていく黒衣の男。冥王が作り出した物のうち、この場でただ二つの動的なタタリのうちの一つ。
 奪われたタタリを取り戻すためシオンと白レンは冥王の目的を探り、この地へと来た。
 タタリを取り戻すには冥王の中のタタリの構成を解析する必要がある。それには動的な存在である個体を解析するのが一番だとシオンは判断していた。
 この場の屋敷も庭もタタリで構成されているがそれらは静的に固定されており、ここからタタリの根本――ジェダ=ドーマへのアクセスは困難。
 故にシオンは黒衣の男へとアクセスした。もう一つの動的なタタリ――天に存在する巨大な邪悪な何か、タタリだけではなく冥王の力あって出現したと思われるもの――へのアクセスはシオンの手に余る。
 意志ある存在であるあの男へのアクセスは、男本人にも男を通してジェダにも気づかれる危険性が高いことは承知の上、手段を選んだり時間をかけている場合ではなかった。
 実際、あの男は気づいた。だがジェダには報せなかった。
――ジェダ=ドーマに創られたタタリであるというのに何故、彼は私の介入を見過ごした?
――それどころか、彼は私のアクセスをジェダから隠そうとした気配すらあった……
――何故?
 それだけがシオンには分からない。介入に気づいただけではなく、あの黒衣の男はシオンの場所まで察知していた。視線さえ向けたのだ。
――あの時彼は楽しげに、笑んだ。
 消えゆく今と同じように。
――元となった人物の人格が、タタリとしての本能、ジェダの支配をも上回ったと言うことでしょうか……
――いえ、今はそれを気にしている場合ではない。
――彼はもう、消えゆくのみ。
 ジェダからタタリが奪われたことで形を維持しきれなくなり、足下から崩れ始めた黒衣の男を見やり、シオンは思う。
 解析は完了している。その情報はエーテライトを通して白レンへと渡し、それを元に彼女はタタリを奪い返した。
 あとは――

「おやすみなさい」
 白い少女が球体に口づけた。
 日差しに解ける雪の如く、赤黒い霧は球体としての形を崩し、消えた。
 同時に、その場の風景が崩れ出す。天でもまた、何かが崩れるような鳴動が起きているのが、結界を通しても嘉神達は感じた。
「つまらない舞台は、これで終わり」
 くるりと身を翻し、白い少女の姿が消える。「後は任せるわ」、消える寸前にそう少女は呟いた。その赤い目、血のような色の目が見ていたのは、レン。
「これは……」
 見回す嘉神の視界で、屋敷が、庭が、黒い霧へと変わり、消えていく。霧の消えた後には、以前嘉神がレンと共に訪れた時そのままの廃墟が姿を現す。
――地獄門の気配も変わっていく……「あの」地獄門の異様さも、ジェダが仕掛けたものだったということか……
 嘉神によって開きつつあった時と同じく力に満ちていた地獄門は、開いたままだがずっとおとなしいものに――数刻前嘉神達が異変を感じる前の状態に――戻っている。
「舞台の主が変わった。主は我らを不要と見なした。ならば役者も舞台装置も皆消えるしかない。何もかも、元通り、だ」
 クク、と喉を鳴らして笑ったのは『嘉神』だ。その体は胸の辺りまで消えている。下半身が無くても倒れたりしないのは『嘉神』の存在を構成していたのが霧状の物だったせいだろうか。
「貴様、タタリの娘達に気づいていたな。何故黙っていた」
 傷がもうほとんどふさがったジェダの声は、冷静さを取り戻していた。しかしその身からは常世の力、タタリの力を奪われたジェダの怒りを示すかの如く、強大にして純然たる魔族の力が放たれている。
「これは異な事を。貴様が私に命じたは「封印の儀を奪い、術式を反転させて地獄門を開放せよ」ということのみではないか。
 それ以外の指示はなく、また私が貴様に状況を逐一報告する義務もなければ、四神どもの抵抗が強くそんな余裕もない。
 それがこの事態を招いたのは認めるし、私もうかつであったがな」
 己の非を認めつつも、『嘉神』は心底愉快そうであった。ジェダの怒りなどまるで意に介した様子はない。
「ジェダ=ドーマ、他者を侮ると足をすくわれるものだ。よく覚えておかねば、な」
 フッと笑んだ『嘉神』は、嘉神を見た。
「今度こそ、さらばだ。現世に残る『私』よ。
 ここまで舞台は整ったのだ。貴様の信念、せいぜい貫いてもらうぞ……」
「…………」
 嘉神は無言でただ、頷いた。既に一度己とは決着をつけた。言うことなどもはやない。
「フン……いらぬことを言ったか」
 嘉神の様子に一つ肩をすくめつつも満足げな色をその青い目に浮かべ、黒衣の『嘉神慎之介』は黒い霧と化して完全に消え失せた。
 その瞬間、一角を成す朱雀が欠けたことで反転していた封印の儀が消滅する。解放された四神が、黄龍が膝をつき、あるいはへたりこむ。
――疲労はあるようだが、皆無事か……
 特に異常のあるようには見えない黄龍達の様子に、一つ嘉神は安堵する。
――あとは……
「まさか、これで私を詰み(チェックメイト)に追い込んだなどと思ってはいないだろうね?」
「……冥王をそこまで侮る気はない」
 一歩、嘉神は踏み出した。
 常世の力、もう一つの力を失ってなお、ジェダの力はすさまじい。これでやっと五分になったと言っても過言ではないだろう。
 四神も黄龍も解放されたばかりで満足に戦えまい。封印の巫女や御名方守矢達は未だジェダの赤い血の手に囚われている。モリガンは結界の要、ジェダから力を奪った白い少女達は健在で敵ではなさそうだが、不確定要素だ。
――ジェダと戦えるのは、私と……
 視線を向けずとも、傍らを行く小さな気配を確かに嘉神は意識する。
――レンだけだ。
 単純に戦力で言えば心許ないことは否めない。嘉神は傷を負っており、レンはその力、存在そのものに限界が来ている。
 それでも、十分だ、と嘉神は思った。
 少しずつ早まる嘉神の歩みに、遅れずにレンはついてくる。
 その存在を意識するだけで、不思議と嘉神の身には力がみなぎる。ジェダを倒し、地獄門を封じること――為すべきことを為すのだという意志と共に、為したいことがあるのだという実感がある。

『我が朱雀の示す『忠』は盲目的に尽くすことを意味していない。
 護るべきもの、廃すべきもの、それぞれを見極めた上で己が意志を以て為すべきことを貫く、それが『忠』であり……私が行く道だ!』

 先刻、もう一人の己、黒衣の『嘉神』に自ら言ったことがふと、嘉神の脳裏をよぎった。
――……フッ、あの言葉、実を得たのは今やもしれんな……
 役目だからではなく、理であるからではなく、嘉神が望んだ為すべき、為したいこと。
――レンと共に戦い、レンを守り、地獄門も封ず。これが、我が為す事。
 笑みが幽かに、嘉神の口の端に浮かぶ。
「あくまでも刃向かうか……いや、君達にしてみればこれは好機だ。それは否定すまい」
 音もなく、ジェダの背の翼が開き――刃に似たそれが、真っ赤な血の塊へと変貌する。赤い翼は自らの一部を宙に放ち――放つそばから翼は再生し、また己の一部をちぎり取るかのように宙へと投げる――舞った鮮血は高速回転する歯車の如き刃へとまた変じる。
 宙に出現した刃の数、ざっと十数個。それら全てが、嘉神とレンを狙っている。
 嘉神の左手に、ぼっと赤い炎が宿った。
「…………」
「…………」
 言葉など必要ない。
 白と黒は同時に、駆けた。
 

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