月に黒猫 朱雀の華
十の十 夢の闇の奥
――好き、大好き――
重なった唇はあの時、初めて出会った時に頬に受けたのと同じやわらかさ、同じ熱を持っていた。
だがあの時よりも、唇から感じる想いは切なるもの――
――ごめんなさい――
――待て、レン……!
レンが何をしようとしているか直感的に察し、とどめねばならないと、嘉神は思った。
まだ自分は何もレンに言えていない。問えていない。
あの猫のこと、あの猫がレンとなったわけ、レンがどんな想いで自分の傍にいたのか――何も、話を聞いていない。
嘉神がやっとあの黒猫がレンとなったことを認識した時のあのレンの感情――肯定。懐旧と悲しみ。罪悪感、後悔、苦悩。そして、喜び――に嘉神は応えていない。
――レン……!
だが嘉神は知っていた。叫んでも無意味で間に合うはずがないものだったことを。
レンは決めていたのだ。
最初から、こうすることを。
――……く、うっ……
嘉神の持つ二つの記憶、その内の一方が消えていく。手にすくった砂が指の間からこぼれ落ちていくのとどこか似た感覚と共に。
苦痛の類はない、だが容赦なく、記憶は嘉神の内から消えていく。
忘れ去るのではない。文字通り「記憶が消える」のだ。二つの記憶があったという事実は嘉神の中から消えていかない。消えていく記憶の中であったことも消えない。だが、その記憶の中で嘉神慎之介が経験した五感の感覚、感じた想い、それらが消えていくのだ。
わかりやすくいうならば、情報だけが残っていくのだ。書物を通して知った誰か他人の人生の記録、その程度のものにこの嘉神慎之介とは似て異なる嘉神慎之介の人生の記憶は変質していく。
それは、あの黒猫との日々の記憶も例外ではなかった。
かつて小さな黒猫を拾い、共に過ごした異世界の嘉神慎之介の生活を嘉神は知っている。だが異世界の嘉神が黒猫を拾ったときに感じた、掌にすっぽり収まるほどに小さな体の震え、ぬくもり、黒猫と共に過ごした日々の穏やかな心地よさ、失ったときの悲しみ、怒り――そういったものは全て消えていく。もうそれらは、この世界の嘉神のものではない。
嘉神が常世に堕ちた理由に、黒猫は関わってなどいないのだ。
――……っ……
当然のことだと、嘉神は理解していた。
今の嘉神はこのMUGEN世界に生きる者だ。そうでない世界の記憶が消えていくのは当然のことだ。この世界ではない側の記憶が本来のもののように感じていたのは、そう錯覚させられていたのだろう。
それがジェダの意図か、レンの意図かは分からない。
だがそれも終わりだ。
本来嘉神が持つはずがなかったものが消え、正しき形、あるべき形になる。ただそれだけのことだ。
これで嘉神の力のずれも消える。封印の儀が為せる。地獄門を封ずることができる。喜ぶべきことなのだ。
だというのに。
――……この感情は……なんなのだ……
消えていく異世界の己の記憶の代わりのように、嘉神の胸に一つの感情が広がっていく。
寂寥感ほど諦念があるわけではなく、喪失感ほど無力でもない。切なくも狂おしい、形にならない感情。だがそこにある意志だけははっきりとわかる。
――……失いたくない……
それが感傷――現実に目を背けた愚かな想いであることは嘉神は分かっていた。
実際、自分がそのように思ったことに戸惑いもしている。
しかしそれが嘘偽りのない、嘉神慎之介本人の感情であることは否定しようがなかった。
「女の子だけじゃなくて、あなたは私達夢魔を甘く見た。
愛しいものを喰らい尽くすだけが夢魔じゃないわ。
一瞬に高まった想いに身を焦がし、自分自身を焼き尽くすことをもいとわない。私達はそういう存在……フフ、臆病者のあなたには分からないでしょうけどね」
「私が臆病者だと?」
「全てを思い通りにしないといられない。様々な異なるものがあることに耐えられず、救済の名を借りて一つにせずにいられない……
あなたは世界を救いたいんじゃないわ。あなたは自分の意にそぐわないこの世界が恐くって怯えているだけ。かわいそうな人」
「……フン、それは享楽主義の君の身勝手で愚かな考えだよ。君如きに私の理想は理解できない。
モリガン、君こそ哀れなものだ。君には素晴らしい力があるのに愚かさ故にそれを生かせない。
方向は違えど君の考えはベリオールと同じ、世界の破滅を傍観するだけのものだ。残念だよ。まったくもって残念だ」
――……モリガン……?
皮肉と嘲笑、冷笑を織り交ぜた上にたっぷり棘をばらまいたモリガンとジェダのやりとりが耳に響き、嘉神は幾度か瞬きをした。
目の前には、レンがいる。まだ嘉神の頬に触れてはいるが、唇は離れていた。
「…………」
そっと手を嘉神の頬から離してレンは嘉神に笑みかけた。右の頬に一筋、涙の痕を残しながらも「もう大丈夫」と語りかけるその笑みは、夏に舞い降りてしまった淡雪の如く儚いものに嘉神には見えた。
――大丈夫……か。
嘉神は左の掌に、小さく炎を踊らせる。
確かにもう力の層のずれは感じない。嘉神慎之介は今ようやく完全にこのMUGEN界のものになった――あるいは戻った――のだ。
無言で嘉神は炎を握りつぶす。あるべき状態となり、地獄門を封じるための道が開けたというのに、嘉神の気持ちは沈む。
かつて「嘉神慎之介」が飼っていた黒猫のことは今も嘉神は知っている。だがもう、知っているだけだ。その猫がレンとなっていたことに驚きはあったが、それ以上の感情は浮かばない。
このことが、嘉神の気持ちを沈ませる。記憶は正されたという理解の下に。
――……つまらぬ感傷だ。今は為すべきことを、為す。
沈む気持ちを奮い立たせ、嘉神は立ち上がった。僅かながらも時を経たおかげで、痛みは残るものの体は動く。
「……大丈夫だ」
心配そうに自分を見上げるレンに、嘉神は小さく頷いて見せた。手を、レンの頭に置く。
――小さいな。
初めて嘉神はそう思った。
嘉神の手にすっぽり収まるほどではないが、レンの頭は小さい。もちろん頭だけではない。体のつくり自体、レンは小さい。幼い少女の姿なのだから当然のことだが、そのことを今まで嘉神は意識しなかった。
――こんなに小さな体でレンはずっと、私についてきたのか。
様々な思いを秘め、何も言わぬまま、ずっと。
最初は戸惑い、しかしいつしか当然のように思っていたそれはかけがえのないことだったのだと、嘉神は触れたレンの小ささに思う。
――ならば私は守ろう。世界の理だけではなく、レンを。
それがもう一つの世界の記憶を無くした自分ができるレンへの応え、己のできるだと信じて。
力は正常に戻った。後はジェダを倒し、封印の儀を執り行えばいい。ジェダが強大な力を持っていることには変わりはないが、それへの恐れは不思議と無かった。
ゆっくりと手を動かし、嘉神はレンの頭を撫で、そして、離す。
「…………」
その嘉神の手を、レンは握った。
新たな決意が、その夕日色の目に宿っている。
「共に戦うと、言うのか」
こくりとレンは頷いた。
「それは」
ふる、と一つ首を振ったレンの手に、力がこもる。駄目だ、と言いかけた嘉神の言葉の続きをそれだけの仕草でレンは封じ込めてしまい、それだけの仕草で嘉神の言葉の続きは封じ込められてしまった。
「……わかった」
頷くまで、逡巡は間違いなくあった。迷わないはずがない。レンは使い魔としての限界を迎えつつある。ジェダの力、強さを己が身をもって嘉神は知っている。その強大な力の前に弱っているレンを立たせることは、嘉神でなくともためらうだろう。
それでも、ためらってなお、嘉神は頷いた。
レンを守るという決意があったからであり、レンの見せる意志、その強さにそれを無碍にはできないと思ったからであり、二つの記憶のあった時に応えられなかった分を、という思い故でもある。
しかし、嘉神がレンが共に戦うことに心強さを感じてしまっていたことも、理由の中にはあった。
「だが無理は」
嘉神が全てを言う前に、こくんとレンは頷いた。わかっているから、そう言っているかのようであり、嘉神の言葉の先を拒否するためのようでも、あった。
そのどちらもを察しながら嘉神は何も言わず、一度レンの手を握り替えし、離した。右の頬に残る涙の痕を拭ってやる。手袋が汚れていなくてよかった、と思いながら。
「決着をつけるぞ」
一歩、踏み出す。
嘉神が見据えるのは冥王、ジェダ=ドーマ。
剣を握り直し、嘉神は歩む。
ほんの少し遅れてレンが続く。嘉神と同じく、真っ直ぐに顔をあげ。
ちりん、ちりんと鈴が、その歩みに合わせて鳴った。
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