月に黒猫 朱雀の華
十の八 最後の枷
最初は、微かな違和感だった。先に感じた嫌な予感が後を引いたような、違和感だった。
南には朱雀――嘉神慎之介。
北には玄武――玄武の翁。
西には白虎――直衛示源。
東には青龍――楓。
央には黄龍、そして二人の封印の巫女が立つ。
これこそが封印の儀を行うための陣。この陣に黄龍、白虎、玄武、青龍、朱雀と五気相生の理に従いて気を巡らせることから、封印の儀は始まる。
守矢、刹那、久那妓の見守る中、黄龍の手にした剣が弓へと変じた。
「土気、金気を生じ」
ひゅん、と一つ黄龍は弓の弦を鳴らす。
気が巡る。自然の、あるがままの形に気が巡る。だがその中に染みを落としたように違和感が存在を主張する。
「金気、水気を生じ」
示源が鋼と化した拳を天に掲げる。
ひゅん、とまた一つ黄龍の弓の弦が鳴る。
気が巡るにつれ違和感は膨れあがり、それは確信、そして不安へと転じていく。
「水気、木気を生じ」
翁が魚籠を抱えてくるりと回れば、水柱がそそり立つ。
ひゅん、と更に黄龍の弓の弦が鳴る。
だが理由がわからない。あり得ない事態に戸惑い、混乱する。
「木気、火気を生じ」
風をまとう楓の手の疾風丸に、ばちりと稲妻が走った。
ひゅん、と応じて黄龍の弓の弦が鳴る。
混乱の中でもわかるのは、己では成し得ないという事実。
嘉神は動かなかった。動けなかった。
一言も発せず、ただ立ち尽くす。
怪訝な、あるいは困惑した皆の気配を感じながらも、嘉神は動けない。
――どういうことだ。何故今まで気づかなかった。何故だ、何故私は……
嘉神は自分の左の手を見た。ゆらり、と炎がそこで弱く揺らめく。
――……異なっている……?
「……駄目だ」
言葉が、こぼれ落ちる。
嘉神の声に宿るのは焦燥、苦悩、戸惑い。
その意識の中をぐるぐる回るのは「何故」という言葉。
――何故だ、これでは成立しない。だが何故、何故私は?
「嘉神!?」
「どうした、慎之介」
楓や示源の声に、嘉神は弱々しく首を振る。
「駄目なのだ、示源、皆、今の私では……」
嘉神は左手を軽く持ち上げ、己が炎を示す。それを目にした他の四神、黄龍の表情が強張る。
一同は感じ取ったのだ。
嘉神の力が自分達のそれとは異質であることに。
大きな違いはない。だが確かにほんの僅か、嘉神の力は他の者の力と何かがずれている。敢えて言うならそれは、力の層とでもいうものだろうか。
しかしこのずれは他の四神の気と不協和音を起こし、五気相生の巡りを断ち切るには十分なものであった。
「何故このようなことが……」
示源の言葉は、その場の皆の代弁であった。
――どうする。このままでは封印の儀は行えない。だが地獄門は閉ざさねば……
嘉神は動揺でうまく働かない思考を必死で巡らせる。
地獄門は閉ざさねばならない。だが今のままでは封印の儀は行えない。ならば他の手段か。何がある、何が出来る……答えがたやすく得られるはずのない難問に、焦燥感と動揺だけがつのっていく。
ゆえに嘉神は、気づかなかった。
「慎之介、避けよ!」
ちりんっ!
師、玄武の翁の声が響き、聞き慣れた鈴の音と共に誰かが自分に体当たりをしてくるまで。
思考に囚われていたが為に嘉神はなすすべなく地に倒れていく。
その視界に、空を薙ぐ刃が見えた。嘉神が今の今まで立っていたそこを走った刃を振るったのは――
――馬鹿な……
目にしたその男の姿に、嘉神の思考は一層の混迷に落ちていく。
「黒猫め、余計なことを」
冷ややかに倒れた嘉神と、その上に覆い被さるレン――嘉神を突き飛ばしたのもレンだった――を見下ろし、男は言う。
「まあいい」
二人を見下ろしたまま、男は左手を掲げた。その手に宿る、青い炎。
そして男――黒衣をまとった『嘉神慎之介』は言った。
「火気、土気を生じ、ここに五気相生の円環を為す」
言葉と共に『嘉神』の足下から黒い霧が流れ出す。それは浸食するかの如く地に広がり、魔法陣を描き出す。
「反転せよ。
土は火を、火は木を、木は水を、水は金を、金は土を生め。
闇よ輝け、光よ飲み込め、そして封じるものは放つものとなれ!」
封印の儀が歪む、変質する――反転する。
未だ混乱治まらぬ思考の中で、それを嘉神は、四神は感じ取った。
「これは、一体……いかん……!」
「力が、抑えられない……っ」
「ぬ、う……」
翁、楓、示源が表情を歪め、苦痛の声と共に体を震わせる。
巡る気の流れが逆になる。自然の理に背き、四神の、黄龍の意志に背き、希望が絶望へと書き換えられていく。
「むぅ……っ」
苦しげに黄龍が唸る。その手が、ギリギリと弓を引く。黒く輝く矢が、いつの間にか弓につがえられている。
それもまた黄龍の意志によるものではないことは苦悶に歪んだその表情がはっきりと語っていた。
「無駄なことだ、足掻くな。既にこの陣、この儀は我が手にある」
冷ややかに『嘉神』が言うのと同時に、魔法陣から黒い霧が噴き上がり、四神に、黄龍に絡みつく。
「さあ矢を放て黄龍! 地獄門を開くために!」
「させません!」
光が、霧を薙いだ。淡い光をその身に宿した雪と扇奈がそれぞれの武器を『嘉神』に向ける。
「……っ」
同時に御名方守矢が、久那妓が、刹那が地を蹴った。抜刀し、青白い力を宿した腕を振り上げ、『嘉神』の背へと斬りつけようとしたまさに、その時――『赤』が出現した。
「……なっ!」
「きゃあっ!」
「これは!?」
にじみ出るように地に浮かび上がった赤から這い出た無数の『手』が守矢達を拘束する。
『余計なことはしないでくれたまえ。手荒なことはしたくないのだよ』
「馬鹿な!? あいつは俺達が……」
驚き、動揺を表す刹那と久那妓を嘲笑うかの如く宙に――丁度黄龍の真上に――赤い霧が渦巻く。
『言ったはずだ、君のいかずち程度では私は消せないと』
その言葉と共に霧が人の形を取る。赤は見る間に青黒く変わり――冥王、ジェダ=ドーマは再臨した。
――ジェダ……っ
もう一人の己との対峙、黄龍の解放があったとはいえ、失念していた己に嘉神は歯がみする。
「そういうことだ」
黒衣の『嘉神』は口元を歪めた。
「我が野望を、彼の者の悲願果たすまで、私は存在させられる」
僅かに苦いものをその青い目に、その声に宿しながらも『嘉神』は冷ややかに嘉神を見下ろした。
「封印の儀は反転された。地獄門は黄龍の矢によって開放される。全ては終わり、そして始まるのだ」
――反転……狙いは、これだったのか……
ジェダのもくろみを今、嘉神は理解した。
封印の儀をのっとり、その有り様を反転させることで封印ではなく開放の儀に変質させる。封印の儀を乗っ取ることなど本来はまず不可能だが、陣の内側からならば可能であることを『嘉神』が示して見せた。
その為の布石を、最初からジェダ=ドーマは用意していたのだ。
最初から、嘉神がこの世界で目覚めたあの日以前から、既に。
まだジェダが自分に仕掛けたものは残っている。その可能性には嘉神も気づいていた。だがそれを深くは考えなかった。考える余裕がなかったということもある。それもあるが、それすらもジェダが嘉神に掛けた枷だったかもしれない。
嘉神は己の左手を見る。ゆらり、と赤い炎が、他の四神の力から外れた炎が揺らめく。その揺らめきが今ほど弱々しく見えたことはない。
「だからといって……このままに、させる、ものか……っ」
動揺さめぬ己を叱咤し、嘉神は立ち上がった。他の者の動きが封じられた今、戦えるのは嘉神だけだ。
例え封印の儀を成せずとも、このまま陣を乗っ取られたままにはできない。黄龍はまだ耐えているが、さほどの猶予はない。
――地獄門は開かせん……っ
「無駄なことは止めたまえ」
優しく諭す口調でジェダが言う。嘉神達を見下ろすその眼差しに宿るのは慈悲。何の偽りもない慈悲はだが、狂気めいたものを嘉神に感じさせる。
「この状況で君に勝機があるとでも?
四神らは封じられ、君は孤軍だ」
ちらり、とジェダは天を僅かに見上げた。その視線の先には、羽ばたく四頭のドラゴンの姿がある。
「孤軍というのは言い過ぎかな。だが君達ではこの状況は覆せない。
仮に、だ。仮に私を倒せたとしよう。それでも封印の儀は成されないのだから。
そうだろう? 朱雀の守護神?」
「……っ」
嘉神はジェダを見据えたまま、知らず、両の拳を握りしめた。反論する言葉などない。
「ああ、もう理解しているのだね。さすがに賢明なことだ。
その通りだ、君は」
嘉神の様を目にし、慈悲深い眼差しに似合わぬ愉悦の笑みがジェダの顔に浮かび上がる。
そして、ジェダは告げた。
「この世界の者であって、この世界の者ではないのだから」
歪んだ哄笑と共に、高らかに、冥王はその事実を突きつけた。
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