月に黒猫 朱雀の華

十の六 夢の揺らぎ

 キィンと、澄んだ音を立てて勾玉が砕けた。
 氷の柱が消え、扇奈の術も解けたか、黄龍の上体が傾ぎ、倒れかかる。
「……っ……」
 その肩を支えたのは、御名方守矢。
「お師さん!」
「師匠!」
 声を上げ、楓も雪も黄龍に寄り添う。既に楓の金の髪も緋い目も、元の濃い藍色に戻っている。
「……守矢……楓……雪……」
 唇の端から血を流しつつも、黄龍――いや、慨世は懐かしげに我が子達に笑みを、向けた。


――うまくいったか。
 死によって分かたれていた師弟、親子の再会の様を見ながら一つ嘉神は息をついた。

 己の影を倒し、レンと共に屋敷の表に出た嘉神は黄龍を目にしてすぐに何がその心を縛っているかを見て取った。
 額の勾玉、嘉神を常世から現世に送り返した時の黄龍にはなかったそれからは、禍々しい常世の気と、覚えのあるジェダの気配が感じられた。
 そこまで分かったら考えている時間など無い。
 間合いを詰める楓と御名方守矢に対して、黄龍の高まる気が白虎のそれであると察知した嘉神は朱雀の炎を放った。炎が黄龍に払われ、しかし嘉神の狙い通りに白虎の気を打ち消す――火剋金の理――と叫ぶ。
「勾玉を壊せ!」と。
 そして楓達はその言葉に従い、全力を尽くして勾玉を破壊し、黄龍は解放された――

――だが、これからだ。
 嘉神は剣を手にする手に力を込める。
 まだジェダ=ドーマがいる。地獄門封印の儀もある。これからがはじまりだ。
 黄龍達の元へ嘉神は歩み寄ろうとし、
「……む」
剣を持つ手に触れられた感触に視線を向けた。
「…………」
 夕日色の目、レンの目が嘉神の視線を受け止める。黄昏の世界のようにとらえどころのないその目にはしかし、強い意志の光がある。
 覚悟と、決意と。
 嘉神にはその意志がそう感じ取れた。
 何を覚悟し、決意したのか。嘉神がそれを疑問とするより早く、嘉神の手に触れたレンの手に、力がこもる。意志をそのまま伝えんとするかのように。
「レン……?」
 問いかけた嘉神の表情が、その身が、はっと強張った。
「レン!?」
 触れられている感覚があやふやになる。自分を見上げるレンの姿が薄れる。
――レンが……消える……?
 脳裏をその言葉がよぎった瞬間、全ての音が消えたような感覚が嘉神を襲った。
 思考が働かない。体が動かない。目の前で薄れるレンの姿が、自ら形成した「レンが消える」という言葉が、嘉神からまともな思考も行動も奪っていた。
 春の日差しに溶ける淡雪のように薄れていくレンの姿を凝視する嘉神の思考に浮かぶのは
――消える……消える、な……消えるな……
ただ、その想い。
「…………」
 小さな手が、嘉神の手を撫でた。
 それは、とても優しく。子供をなだめるように。
「……レ、ン」
 言葉が嘉神の口からこぼれ落ちる。
 己の声が耳に届くと同時に、一気に全ては元に戻った。
「……?」
 レンが小首を傾げた。その姿ははっきりとして揺らぎもない。嘉神の手にレンの手が触れた感覚もしっかりとある。レンの手は小さく、あたたかい。
――……な……?
 じっとレンを見つめても、やはりその姿に問題はない。特に弱った様子も感じられない。
 周囲の様子を伺っても、取り立てて嘉神に注目した者はない。楓達は先と同じく黄龍の傍に在り、示源と翁はその様子を見守っている。
 レンが消えかける前と、何も変わっていない。
――声を上げたはずだが……聞こえなかったのか……?
 レンの姿が薄れた時に嘉神は声を上げたはずだというのに、誰も嘉神とレンに異変があったと思わなかったというのか。
 レンが消えかけたことも、嘉神がそれに酷く動揺したことも、全ては一瞬の白昼夢だったというのか。
 実は僅かも時間は流れていなかったのかと疑わざるを得ない状況であった。
――……ジェダか常世が、私を惑わせたか……?
 それが一番もっともな推測のはずだった。ジェダは地獄門の開放を目論んでいる。その為に封印の儀を是が非でも阻止しようとするだろう。
 そして儀を執り行う四神の一人である嘉神はジェダに枷をつけられたことがある。それ故に今も一番狙いやすいと判断されて何かを仕掛けられてもおかしくはない。
――だが。
 そう、だが、と嘉神は思う。
 レンの姿が薄らいだあの時、嘉神はジェダや常世の力を感じなかった。情けなくも酷く動揺したせいで気づけなかった、と見ることもできるだろうが、落ち着きを取り戻してからもその力の残滓さえも感じない。
――どういうことだ……?
 じっと自分を見上げるレンの夕日色の眼を見つめたまま、嘉神は怪訝に眉を寄せる。
「慎之介、どうかしたかの」
「…………。
 なんでもない」
 玄武の翁の声に嘉神は小さく首を振った。今は幻影の理由を考えている時ではない。
――あれは私を完全に封じようとしたものではない、後を引くものもない。ならば今は、為すべきことを為すのみ、だ。
 自分に強く言い聞かせる。
 ジェダを倒すことと、封印の儀を行うこと。それをやらねばならない。
 それが朱雀の守護神たる嘉神慎之介の役割であり、世界のためであり、レンのためでもある。今為すべき事を為せば、レンの主を探してやることも出来る。主を得ればレンに迫る命の危機は回避できる、今し方の幻影のように、レンが消えることはそれでなくなるのだ。
 嘉神は一歩踏み出した。
 再会できた喜びを確認し合っている四人の親子、いや黄龍と青龍、封印の巫女と一人の剣士の元へと向かう。
 するりと自然に、レンの手が離れた。
 嘉神は足を止め、肩越しにレンを振り返った。
「…………」
 たたずみ、動かないレンは夕日色のその目で、じっと嘉神を見つめている。先と同じ、決意と覚悟を宿した眼差しで。
「……レン」
 嘉神は声をかけた。
 かけた後で何故、と自問する。
 レンが嘉神についてくる必要はない。むしろ、安全なところにまで下がっているのがいい。それでもここまで来たのはレン本人の意志だが、嘉神が呼ぶ理由はない。現に嘉神は今までレンがついてくることを認めていない。
 だが今、嘉神はレンを呼んだ。
「…………」
 レンの目が、ほんの少しだけ見開かれた。次の行動まで一呼吸の間もなく、小さな体が軽やかに動く。
 ちりん、と鈴の音が響く。少女が嘉神に駆け寄る。
 青と赤の視線が、意志と意志が交錯する。
「…………」
 先に視線を逸らしたのは、嘉神だ。
――ここにいる以上、私達の傍にいるのが一番安全か……
 見つけ出した理由にひとまず納得し、歩みを再開する。黄龍達の元へ、己の役割を果たすために。
 レンはその後に従うように続いた。
 ちりん、ちりんと鈴を鳴らし、先を行く嘉神の背を真っ直ぐに見つめて。
 

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