月に黒猫 朱雀の華
十の幕外・五 月華の剣士
白刃が閃く。
その閃きの中に、楓は兄の声を聞く。
『愚か者が』
師と斬り結ぶ兄の背に、その想いを楓は聞く。
『師匠が私達を殺すものか』
――……くそっ、わかってるぜ!
胸にあるのは心強さと、悔しさと。
兄の声なき声に楓の心は奮い立ち、剣を振るう楓の腕に、その身に力がみなぎっていく。
誤解からとはいえ恨み、憎んだこともあった。だがそれはそれだけ楓が守矢の力を信じていたことの裏返し――慨世を倒せる剣士など守矢ぐらいしかいない――であった。
誤解が解けた今、その力を信じているだけではない、心置きなく頼れる存在、それが楓にとっての御名方守矢という人なのだ。
しかしそうであっても、自分が気づけなかったこと、戦いの中で見失っていた簡単な真実――師が、黄龍が自分を殺すはずなどないということ――を守矢に指摘されたことが楓には悔しい。
――そうだ、わかっていたのに……俺は……!
「けどなぁっ!
もう見失なわねえ!」
その悔しさをも力に変え、楓は剣を振るう。兄を追い、兄と共に、黄龍と刃を交える。
――そうだ、僕にもお師さんの心が見える!
刃と刃がぶつかるたびに、黄龍の放つ技をかわし、返し、自らの技を叩き込むたびに今の楓にも感じられた。
黄龍の動きに僅かな、ほんの僅かな間のあることを。常世の気をまといし黄龍の放つ殺気に乱れのあることを。
四神の力を駆使して黄龍は何度も強力な技を楓達に向けて放った。それでも楓達が倒れなかったのは何故か。
――お師さんも戦っているんだ。苦しんでいるんだ。僕が、俺が、それに応えなくてどうする!
「お師さん!」
楓は叫び、決意を新たに剣を振るう。
黄龍を、師を、養父を救うために。
「本当に斬ってしまうとは……ふむ、たいした剣士よ」
戦う楓達のはるか上空、ドラゴンの背に佇んだ魔道師ヴァルドールは感心の体で呟いていた。
思い返すのはつい先程、ヴァルドールの騎乗するドラゴンの隣で羽ばたく黒いドラゴンの背にあった剣士、御名方守矢のこと。
ジェダと決着をつけると言ったモリガンの要請で共にこの島に向かう途中、同じく島へ小舟で向かっていた守矢を見つけたのがはじまりであった。
どういう訳か――夢魔の女王の気まぐれは今に始まったわけではないが――守矢を気にかけたモリガンに頼まれ、ヴァルドールは使い魔の黒いドラゴンに守矢を連れてこさせた。
最初は驚き、ヴァルドール達を警戒していた守矢であったが、ヴァルドール達が島を目指していることとその目的を知ると自ら同行を望んできた。小舟よりもドラゴンで行く方が早いと理解しての申し出をモリガンは快く、実にあっさりと聞き届けたのであった。
そしてこの地に彼らが到着したのは、天を割って巨大な矛が出現したまさにその時。
矛が地上で戦う四神達を狙ったもの、すなわち「敵」の生み出したものであることは、それがまとう、神々しいまでの禍々しさにあまりにも明らかであった。
様々なものを見てきたヴァルドールでさえ、その矛の巨大さと力、威容には心を震わせ、思わず見入るほど呑まれていた。周囲を顧みる余裕など無かったが、タバサのみならずモリガンも驚きの色を見せていたようだった。
だが、御名方守矢は違った。
最初に気づいたのはモリガンだった。
「何をしているの?」
モリガンの声にヴァルドールが目を向ければ、守矢は身を低くして構えている。その左手は剣の柄にかけられ、いましも抜刀しそうに見えた。
「……斬る」
守矢が答えたのはそれだけであったが、彼が見据えるのは巨大な矛であり、何を斬るつもりなのかは明白だった。
あの巨大な矛を斬る、それはこの青年がどんなに優れた剣士であろうとも到底不可能なこととしかヴァルドールには思えなかったが、モリガン・アーンスランドは違っていた。
「ヴァルドール、彼のサポートを」
口元を綻ばせ、目を輝かせる夢魔の女王が守矢の行動を楽しんでいるのもまた、明白。
しかし彼女の目にあるのは、守矢がそれを成し遂げることへの確信。
「……ふむ」
それでも、あるいはそれ故にヴァルドールは杖を掲げた。モリガン・アーンスランドの確信を信じると同時に、ヴァルドールもまた、あの剣士が矛を断てる可能性を信じられた。そこに至る論理は不明であったが。
「タバサ殿、そなたは手はず通りにの」
「承知しました」
「…………」
「…………」
モリガンと、そして守矢は無言だ。
モリガンは額に右の人差し指を押し当てて目を閉じており、守矢はじっと矛を見据えているままだ。
――やはり、そうか。
低く呪文を口にしながら、ヴァルドールは思う。
彼らがここに来たのは夢魔の女王の気まぐれによる物見遊山などではない。ジェダ=ドーマの野望を阻止するため、明確な目的があってきたのだ。
守矢を拾ったこと、今為さんとすることのサポートを決めたこと。それらはモリガンが自分の目的のための布石とするがためのことだろう。
――好奇心や戯れが皆無とは言わぬが。
その割合は五割、いやもっとかもしれない。額に指を当て、おそらくいずこかへと思念を飛ばしながら楽しげに笑むモリガンの姿にヴァルドールはそう思う。
モリガン・アーンスランドの場合、それで十分と思わねばならないだろうが。
「星よ、刃に全てを断つ鋭さを。主の意志そのままに」
ヴァルドールの力ある言葉と同時に、守矢の手の刀に淡い光が宿る。続いてヴァルドールは守矢の乗る黒いドラゴンに、守矢の意のままに動くように命じようと、した。
が。
守矢はドラゴンの背を蹴った。ほんの僅かのためらいもなく、弓から放たれた矢の如く、真っ直ぐに矛めがけて、跳んだ。
「なんじゃと……!?」
魔道師ヴァルドールとあろうものが、驚きの声を上げていた。こんな風に驚くなどどれぐらいぶりのことであろうか、だがそんなことを思い返す余裕などあるはずもない。
「あらあら」
楽しげな、しかしさすがに少し驚いたモリガンの声を聞きながらヴァルドールは跳んだ守矢の軌跡を計算する。
――我らの位置からすれば、矛までは届く。だがその後は……
あの剣士は腕は立つようであったが、それ以外はごく普通の人間のはず。この高さから跳んで――すなわち落ちて――無事で済むはずがない。
「風よ勇敢なる剣士の翼となれ、その意志を果たさんが為に!」
口早に呪文を詠唱し――こんなにも早口で呪文を唱えたのもまた、いつ以来のことであったか――ヴァルドールは力ある言葉を解き放つ。
風がヴァルドールの言葉に応え、駆ける。
駆けた風が守矢を包み込んだその時、白刃が閃いた――
「あの剣士、見抜いておったのか」
両断された矛が崩れるのを見つめ、ヴァルドールは呟く。
御名方守矢が斬ってようやくヴァルドールも明確に気づけた。あの矛を顕現させた力に乱れがあったことを。
守矢はその乱れを正確に狙って斬ったのであった。飛ぶ、というより落下しながらという不安定な状態で、一分の狂いもなく。
何故それに守矢が気づいたのかはヴァルドールにはわからない。様々な力の有り様に精通したヴァルドールでさえ、守矢が斬ってみせるまで、矛を顕現させていた力の乱れを意識できなかったのだ。魔道師でなくとも達人の域に達したものは気の流れを見るというから、それで気づいたのかも知れないが、何も語らずに守矢は動いたため定かではない。
「じゃが……矛を斬った後、己が身をどうするつもりだったのじゃろうな」
四神と共に黄龍と戦う守矢を見下ろし、ヴァルドールはいささか呆れた口調で独り言ちた。
「考えてるはずがないじゃない。考えてたら跳べないわ」
フフッとモリガンが笑む。心から楽しげに。
「人とは、興味深いものじゃ」
呆れはそのままに、しかし深い感慨も込めてヴァルドールは言った。
「ええ。彼らはほんと、私を退屈させないでくれるわ」
だから、と言ってモリガンはその艶やかな緑の髪をすうっと自分の細い指で梳き流す。その、金緑石の如く色合いを変える瞳にほんの一瞬、冷ややかな光が宿る。
「それを壊されるのは我慢ならないの。
二度と悪さできないように、あの化石を叩きのめしてあげるわ」
モリガンの梳き流した髪が、はらりと元の位置へと落ちる。
「ヴァルドール」
ヴァルドールに向けたモリガンの表情には冷ややかな光はかけらもない。艶然とした夢魔の女王がそこにいる。
「私も出るわ。ここはお願い。
大きな口を叩いておいて、苦労しているお馬鹿さんをからかってくるわ」
立ち上がったモリガンの背に、コウモリ達がジェットエンジンを形作る。ゴオッと音を立てて舞い上がると、弾丸の如くモリガンは飛んだ。
地獄門へと。
「ふむ……」
雲を引いて飛ぶモリガンを見送り、一つヴァルドールは頷く。
「あちらは二人に任せておけば問題なかろう。
地では彼らが役割を果たそう。
なればわしも為すべきことを果たすとしよう」
そう言ってヴァルドールは、タバサを見やる。静かに一人呪文を詠唱し続けていたタバサはヴァルドールの視線を受け、一つ頷いた。
ヴァルドールは両手を大きく広げ、天へと掲げる。
二つの呪文詠唱の声が、重なり合って紡がれる――
「出デヨ」
宙に舞った黄龍が長い袖を振るう。そこに収束するのは朱き朱雀の力。
「スザ……」
「させぬぞい」
ころりと転がり、無造作に翁が間合いを詰める。
「奥の手じゃ」
背の籠をひょいと前に回して持ち、自らを軸にぐるんと翁は回転した。
回転速度があっという間に増したかと思うと翁の姿は水竜巻に包まれ、ごおと唸って宙にある黄龍に襲いかかった。
「…………ッ」
黄龍は袖を返して水竜巻を払おうとするも、渦巻きそそり立つ水が朱雀の力を打ち消し、さらには黄龍をも飲み込まんとする。
「ヌウッ!」
水竜巻に剣を叩きつけ、その勢いでかろうじて黄龍は飲まれることから逃れたが、
「はぁっ!」
着地の隙を狙った守矢が斬りかかる。
「甘イ!
出デヨ」
下段から振り上げた黄龍の刃が、守矢の剣を跳ね上げた。
「青龍!」
地がばちりと放電する。青い稲妻が動きの止まった守矢を貫こうとした時、
「どおりゃあ!」
巨大な白い虎が、否、その形を為す気をまとった示源が、肩から黄龍に体当たりを食らわせた。
声を上げて黄龍は吹っ飛ばされたが、くるりと一回転して着地した時には光の矢をつがえた弓を構えており、追撃は許さない。
――今は互角、いやそれ以上……いける!
視線を交わすこともなく、しかし同時に守矢と楓は黄龍に斬りかかる。
「貫ケ」
続けざまに放たれる矢を紙一重でかわし、二人は一気に間合いを詰める。
「お師さん!」
「…………」
矢をかわし、踏み込んでくる二人に、黄龍は弓を剣に戻し、後方に腕を引く。
キィ……ン、と金属が震えるような、耳鳴りにも似た音が空を走る。
――これは、白虎の力……!
まずい、と楓は地を蹴った。黄龍へと駆ける。黄龍が力を放つ前に攻撃する、間に合わなければ兄の盾に自分がなる、その意志と共に。
「ほおぉっ!」
駆ける楓の脇を、熱が、飛んだ。
朱いそれが炎だと楓が認識した時には、黄龍は長い袖を振るって炎を打ち消していた。しかし炎と共に高まっていた白虎の気も消え失せる。
――白虎を制した……じゃあ、あの炎は……
僅かに楓は後ろを、炎の飛んできた方を振り返りかける。
「勾玉を壊せ!」
それを制する強い声に、楓ははっと前を、黄龍を見る。その顔を隠す赤と白の毛皮の額の部分には大きな勾玉が一つ、確かにある。
「あれが慨世の心を縛っているはずだ。やれ、青龍!」
――嘉神……!
声と共に、再び炎が飛んだ。朱い、朱雀の紅蓮の炎が黄龍に襲いかかる。
「ヌウン!」
今度も黄龍は長い袖で炎を払った。払った黄龍が、ふっと天を仰ぐ。そこに落ちる影、一つ。
「大雷、火雷、黒雷、裂雷、稚雷、土雷、鳴雷、伏雷!」
声と同時に次々に八本のナイフ、いや合口を彼女は――京堂扇奈は放った。
狙い過たず合口は黄龍の影に突き立つ。
「その者を地に縛しなさい、ヤクサノイカズチノカミ!」
「ヌ!?」
初めて、黄龍が僅かながらも動揺の声を上げた。動きが止まる。だがその身を震わせ、黄龍は術に抗う。みしりと地に突き立った合口が震える。
「……コレシキデコノ黄龍ヲ……」
黄龍から強烈な気が立ち登った。動かないはずの、長い袖の側の手、左手がぴくりと動く。
「霜華!」
振るわれた槍の軌跡に沿うように、氷の柱が生まれた。それは扇奈の戒めをふりほどかんとした黄龍の左手を捉える。
「楓、守矢、今よ!」
槍を構えて姉が、雪が叫ぶ。
「四神が揃ったか。影はしょせん、影か……」
動きを封じられた黄龍を見やり、ジェダは眉を寄せる。
眉を寄せたその顔が、苦痛の色に彩られたのは次の瞬間だった。
「ぐ……これ、は……」
「私達を前に、よそ見する余裕など無い!」
青白く光る久那妓の獣の腕が、背後からジェダの胸を貫いていた。
どろりと、傷口から赤い血が溢れ出す。
「刹那!」
腕を引き抜き、久那妓は飛び退る。
「死ねぇ!」
強大な漆黒の気をまとった刃を無造作なまでに刹那はジェダへと振り下ろした。
声を上げる余裕もなく、ジェダは両断される。
切断面からも赤い血が溢れ出す。ジェダの形が溶解していくかのように崩れていく。
「はぁぁぁぁぁっ!」
「消えろぉっ!」
神速の動きで久那妓が崩れるジェダの身を切り裂き、刹那の雷が舞い散る鮮血を蒸発させる。
やがて。
息を切らして久那妓が動きを止め、刹那が雷を収めた。
その場には赤の一滴も、微かな匂いすらも、残っていなかった。
「…………行くぞ」
低い声は、ただ一言。
「守矢」
守矢は楓の返事など待っていなかった。一声、それで十分であると言わんばかりにその姿が消える。
「小賢シイ!」
合口と氷の柱ではまだ足りなかったのか。
黄龍の剣を持った右腕が、振るわれた。その一振りで全ての戒めを打ち消さんと。
それを見越していたのか。
瞬息の動き、歩月で一気に間合いを詰めた守矢の刃が、閃く。
「十六夜月華!」
目にも止まらぬ剣閃に、黄龍は振るいかけた刃で己が身を守るしか無く。
――扇奈、姉さん、兄さん……
機会は、まさに今であった。。
最上段、天に刃を掲げるが如くに楓は刀を振り上げる。
「活心最終奥義!」
ブオン、と空が唸ると共に、青龍の力が楓の刀、疾風丸に巨大な刃として顕現する。
――僕の、俺の全力を! みんなの願いを!
「お師さん!」
渾身の力と、己の、皆の全ての想いを込めて楓は刃を振り下ろす。
刃が落ちるその瞬間、黄龍が、否、師であり養父であるその人が昔のように笑んだのを楓は見たように思った。
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