月に黒猫 朱雀の華
十の幕外・三 月は闇を照らす
天を覆う雲を割り、飛来する巨大な矛。
圧倒的な力をもっとも端的に具現化すれば、この形、この顕現となるのかもしれない。天を見上げる四神達はそのようなことを思う。
飛来する、落ちてくる矛の動きがあまりにゆっくりに見えるのは、それの巨大さのせいか。
だが、地にある者達は動けない。
巨大である、それだけで威は備わる。そこに実となる力までもが宿っていれば、見る者の身をすくませ、心を縛ることなどたやすい。
現世を守護する四神といえども人、あらゆる意味で強大な矛の前にして、楓も翁も示源も今が戦いの時であることも忘れ、呆然と天を見上げていた。
その巨大さは避けようがない。直撃を免れたとしても、矛が宿せし力ならば自分達に十分な致命傷を与えられることを彼らは理性ではなく本能で理解していた。
「お師、さん……」
緩慢に、矛から黄龍へと楓は視線を向けた。
袖が長い方の手を掲げ、黄龍は天を見上げている。先と変わらず黄龍の顔の半分は毛皮に隠され、その口元にもなんの感情も浮かんでいない。
淡々と、黄龍は楓達の命を奪う力を振るっている。
――お師さんが……僕達を、殺す……
迫る強大な力への恐怖より、それが苦しいのだと、楓は息詰まる力の圧迫感の中、悟った。
命のやりとりをする戦いの中でも、楓はどこかで信じていた。師の中にはまだ正気があると、自分達を殺すことはないと。
それが儚い希望であり、甘えだったことを楓は思い知らされた。敵は、師を、黄龍を完全に支配下に置いている。それだけの力を持った敵だった。
――……くそ……っ
刀を持つ手から力が抜けそうになるのだけは、懸命に楓は堪えた。刀を手放してはいけない。それは戦う意志の放棄だ。現世を護る四神として、護りたいのもがある人として、楓は戦いを放棄できないのだ。どんなに動揺しようと、どんな絶望を眼にしようと、その意志は揺るがない。揺るがせてはいけない。
――諦めるわけには、いかないんだ。僕はみんなを護ると決めたんだ。
震えそうになる体を意志で押さえつけ、楓は黄龍を睨み据える。
子供だったあの頃、無力さと幼い愚かさ故に楓は全ては義兄、御名方守矢の罪だと思い込んだ。しかし全てが明らかになった時、家族を結ぶ絆の糸を、その瞬間までかろうじて繋がっていた糸を切ってしまったのは自分であると楓は思っている。真実を知ることを、信じ切ることを諦めた自分が、糸を切ってしまったと。
だからもう、諦めない。そう楓は誓ったのだ。今度こそ、自分の大切な者を守り抜くのだと。もう何も壊すまいと。
――その為にはお師さんを取り戻さないと……
彼の巨大な矛自体を止めるすべはない。ならばそれを操る師、黄龍を倒すことで止めることに賭けるしかない。考えるまでもない、それがたった一つの方法だ。
ただ、矛が地を穿つまで、それまでに倒さなければならない。それはもう、あと幾ばくもない、僅かな時間。
「それでもやるしか、ないんだ……」
声を絞り出し、楓は刀を構える。体がひどく重く感じられる。矛の放つ力の威圧感と、迫る死の恐怖、そして未ださめやらぬ動揺が、楓の体を縛り付ける。
「やるしか……ない!」
己を縛る弱い心を振りきり、己を叱咤し、楓は叫んだ。
風が、清涼な風が楓の周囲で渦巻く。その風の中で楓の髪が金へ、眼の色が緋色へと変わっていく。
ぷつりと、楓の髪を結う紐が切れた。
「わしらも弱っておる場合ではないようじゃの」
「うむ」
翁が竿を、示源が鋼の拳を構え直す。
「……足掻クカ、四神ヨ。ナラバ付キ合オウ、裁キノ矛ガ終焉ヲ記スマデノ僅カナ時ヲ」
掲げた手を降ろし、黄龍が剣を構える。
「お師さん!」
かつての師の愛刀だった剣を構え、金の髪を風になびかせ、楓は、翔る。
「健気だ。だが、無駄だ」
また一輪、白い椿を手折ってジェダは笑む。
その声は、艶めかしく、実に楽しげに響いた。
『フフ……どうかしら?』
――……誰? 女の人……?
赤い手に囚われたままの雪は、声に周囲を見回す。だが声の主の姿は見えない。
「……お出ましか、夢魔の女王」
ぐしゃりとジェダは白い花を握りつぶした。笑みはその口元に残っているが、かりそめでも慈愛を宿していた先とは違う。忌々しげな、憎々しげな笑み。
「やはり君は抗うか! モリガン・アーンスランド! 出てきたまえ!」
『抗う? あなた、ずいぶん自分を高く買ってるのねぇ?
闇を照らす光があることにも気づかず、闇を弄ぶだけのあなたに抗う必要なんかないわよ?』
クスクスと声は笑う。
『ほらジェダ、光が来たわ』
――光……?
何故かはわからない。
わからないが雪は、飛来する巨大な矛へと目を向けていた。
黒雲に覆われた薄暗い世界で終焉を穿たんする矛を、止められる者などいない。
いないはずだった。
『夜の闇を照らすのは、月の光』
歌うように声が言うのと同時に、光が、走った。
天から矢のごとく翔る、銀の煌めき。
雪はその煌めきを知っていた。その煌めきがまとうのは紅であると確信していた。
――月の、光……
その言葉で思い起こす人を、雪は一人しか知らない。
光の軌道が、矛の軌道と交差する。
――…………!
風切る音すらさせず、青白い光を宿した鋼が閃く。
光はそのまま、地へと飛ぶ。
幾度、黄龍と斬り結んだか。
楓が青龍の力を完全に解放してなお、黄龍は難敵であった。
四神のうち三人がかりで、やっと互角と言ったところか。
時間はない。されど、黄龍は強い。
「楓、下がるのじゃ」
「……っ」
翁の指示に歯がみしながらもやむを得ず、楓は間合いを取る。
「楓、わしと示源が仕掛ける。黄龍に隙を作る」
「その隙を……」
翁の言葉に続けかけた示源が不意に、言葉を切った。
「力が、震えた……?」
楓は呟く。
震えるのは天から迫る矛の放つ力、その強大だったはずの力の圧迫感が、弱くなっていたことに気づいて。
「……馬鹿な」
信じられん、天を仰ぐジェダの表情がそう物語る。
光が、地に降り立った。
遙か上空から舞い降りたとは思えぬほど静かに降り立った光は、人の姿をしている。
身にまとうは白い着物、紅い袴に黒いコート。手にした刀の鍔は、金色の鉄輪。
飛来する矛は、静止していた。その刃に、線が浮かび上がる。
否、それは線ではなかった。
鮮やかな紅い髪の剣士はゆっくりと刀を後方に引き、身構える。
己を目にしても微塵の動揺も見せぬ黄龍を見据え。
「守矢……兄さん……」
驚きと、それを上回る喜び、心強さに、自然と楓の口からは声が上がる。
御名方守矢、楓の義兄であり、楓にとってはこの場において誰よりも心強い存在がそこにいた。
「……行く」
行くぞ、ではない。己の行動の、ただの宣言。
しかしそれが、楓にとってどれほどの鼓舞になったことか。
楓は知っている。義兄は、御名方守矢は、己の行動を宣言などしない。常に無言で動く。
その守矢が宣言した。それが何を意味するか、楓にははっきりとわかっている。
「あぁ、行くぜ、守矢!」
兄弟が地を蹴ったのは、全くの同時であった。
楓が、守矢が動いたのが合図であったかのように。
矛の刃の形が崩れた。
浮かび上がった線は、刃が両断された痕であったのだ。
ぴしり、と音がする。
線から無数のひび割れが矛の刃全体へ、柄へと広がり――砕け散った。
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