月に黒猫 朱雀の華
十の幕外・二 心の弱さは罪ではなく
確かにその声は黄龍、すなわち先代青龍であった慨世の声でありながら、慨世の声にはない無機質な響きで大気を震わせた。
「出デヨ」
無機質な、しかし『力』ある声に応じて黄龍の掲げた手に収束するは四神の力。
「憂キ世ノ穢レ浄化ス水柱、玄武」
轟音と共に出現した水竜巻は天を衝き、容赦なく呑み込み舞い上げる。
「空ヲ裂ス猛虎ノ狂爪、白虎」
甲高い悲鳴を空があげると同時に、目に見えぬ鋭き爪が引き裂く。
「高尚タル灼熱ノ火炎、朱雀」
天より来たる紅蓮の炎は、一切の慈悲なく焼き尽くす。
「天地共鳴ス怒号ノ雷鳴、青龍」
蒼き雷は疾風を伴い、龍のごとく地から駆け上って貫く。
「黄龍が司る「土」は五行の一角にして央……四神全ての力をかように使うとはさすがじゃのう」
感心の体で――眼光には険しいものを宿しつつも――玄武の翁は自らの白い美髯を撫でた。もっとも黄龍の放つ力をしのぎはしたもものの、小さな体に無数の傷を負っている。自慢の美髯も血や埃で汚れてしまっている。
「そんなことを言ってる場合じゃない!」
片膝を立てた状態から立ち上がり、楓が叫ぶ。
「お師さん、僕です、楓です! お師さん!」
敬愛と懐旧の想いを動揺と混乱に揺らしながらも、楓は必死に黄龍――養父であり、師であった人に向かって呼びかける。
「…………」
黄龍は無言で手にした剣をかざした。剣は瞬時に弓へと姿を変える。大きな角と勾玉のついた赤と白の毛皮に目元を隠され、黄龍の表情はしかとはわからない。少なくとも、見える口元からはなんの感情も感じられない。
「……お師さん……」
悲痛な声を洩らす楓の前で、黄龍は弓に光の矢をつがえた。
「お師さん!」
絶叫と共に、楓は駆けた。剣を振りかざし、真っ直ぐに、まさに弓から放たれた矢のごとく。
「楓、駄目!」
楓を引き留めようと雪もまた駆け出す。
――楓、駄目よ、楓!
必死に後を追う雪の脳裏に浮かぶのは、六年前のあの日、嘉神に慨世が斬られ、家族が崩壊した日のこと。前を駆ける楓の姿に、あの日、守矢に斬りかかった楓の姿が雪には重なって見えていた。
だが――
「駄目です、雪お姉さん!」
雪の腕を掴んで引き留めたのは、扇奈だった。
「扇奈さん……?」
「楓さんなら大丈夫です。ほら」
扇奈が示す先、そこでは、離れた光の矢を紙一重でかわした楓が、黄龍に斬りかかっていた。その動きは冷静な剣士のもの、一時の感情に突き動かされた者の動きではない。
「お師さん、お師さん、正気に戻ってください!」
「慨世、目を覚まさぬか!」
「慨世殿!」
弓をまた剣へと戻した黄龍と切り結ぶ楓の元へ、玄武の翁と示源も駆けつける。
「楓……」
「嘉神さんから黄龍さんが一人で戦ってるって聞いたとき、楓さんは言っていました。お師さんの力になりたいって。
そして、お師さんに何かがあったら、自分が助けるとも」
雪の腕を掴んだまま、扇奈は呟く。
「そう……」
一つ、雪は息を吐いた。
――楓も成長している……そして、理解してくれる人が傍にいる……
「扇奈さん、楓を信じてくれてありがとう。
私も、もっと楓を信じないと」
「い、いいえ! 出しゃばっちゃってすみませんっ」
ぱ、と雪の手を離し、扇奈は慌てて首を振った。
「出しゃばりなんかじゃないわ。大切な人を想ってのことだもの」
師を失ってから、楓は玄武の翁の元で修行に励んだ。その年月が、そして師の仇を討つための戦いが楓を確かに成長させていたのだろう。
――それを私は見ていたのに、いつまでも楓を子供扱いしてしまっていたのね……
楓への申し訳なさと、弟が成長したのだという喜びと僅かながらの寂しさを覚えながらも、それを払うように雪は手にした槍、師から授かった愛槍「牡丹」を握り直した。今は感傷にふける余裕などない。
守りたい大切な者達を守るための力を望んだ雪に、師であり養父である慨世はこの槍を扱うすべを教えてくれた。それに応えてみせるのはまさに今をおいて他にない。
「扇奈さん、師匠は楓達に任せましょう。
私達は、私達にできることを」
――師匠を、救わなければ。
「はいっ」
新たな決意を宿した雪に、しっかりと扇奈は頷いて答えた。
「お師さん!」
もう何度目か、師を呼びながら楓は下段から切り上げる。
「テヤッ」
その一撃を黄龍の振り下ろした刃が制し、更にそこから突きに転じる。
「させぬぞっ」
翁の釣り竿から放たれた糸がしゅるりと黄龍の剣に絡み、ぐいと引っ張る。
しかし黄龍が軽く足を踏ん張れば、逆に糸を引かれ、翁の体勢が崩れる。
「ほっ?」
「烈!」
翁が黄龍に引きずり寄せられるより早く、示源の鋼と化した腕が黄龍の胸を突いた。たたらを踏んだ黄龍に、続けざまに連撃が叩き込まれる。
「絶! 滅!」
「ヌォッ」
白虎の力のこもった拳の連撃に、たまらず黄龍が吹き飛んだ隙に翁が体勢を立て直す。
「すまぬの、示源」
「いや。しかし慨世殿には我らの声は聞こえていない様子」
苦痛を感じていないのか、表情一つ変えずに立ち上がる黄龍を見据えつつ、翁と示源は言葉を交わす。
「……ジェダか常世に操られているんだ。どうにかして正気に戻さないと……」
「そうじゃの。このままでは封印の儀も行えぬ。それに」
操られた師であり養父であるものと戦い続けるのは楓達が不憫、その言葉を翁は口にしなかった。
師が操られ、自分達に刃を向ける。この状況に未だ動揺を残しつつも、それでも真っ直ぐに黄龍を見つめる楓の姿に、それは言うべきではないと察して。
楓は手にした疾風丸――かつては師の愛刀だった――を構え直す。
――どんな形にしろ、せっかく会えたのに……お師さんと話もできないままなんて、嫌だ!
「まずは、慨世殿の動きを止めるところからだな。
たやすいことではないが」
「でも、やるしか……ないんだ」
「やれるだけ、やってみるかの。何、間もなく慎之介も来よう」
ぱんぱんと膝の辺りを払い、翁は竿を肩に担ぎ直した。
「来るぞ」
立ち上がった黄龍が、刃を構える。滑るように、三人に迫る。
「行くよ、お師さん!」
怯むことなく楓が地を蹴り、示源と翁も後に続いた。
「健気なことだ」
ククッと喉を鳴らして呟き、ジェダは花を一輪、手折った。
丹念に手入れされた庭の、白い椿の花を。
「既に声は届かぬと知りつつも、必死に呼びかける。愚かしくも健気な人の情。曲げる事なき信念は価値ある魂の証」
そっとジェダは椿に口づける。口づけられた椿はたちまち崩れ、黒い霧と化して消えた。
「朱雀の庭の趣味は良いな。そう思わないかい?」
そう言ってジェダは振り返った。振り返ったそこには、ジェダに斬りかかる二人の娘――雪と扇奈の姿。
「私を倒し、黄龍を取り戻そうというのだね。実に健気だ」
そう言葉を続けるジェダの顔に浮かぶのは、歪んだ狂気の笑み――人に似た姿形をしていながら人のものではない笑み。
「そうされては、困る」
言ってジェダは、自らの手首を、切った。
噴水のように鮮血が、雪と扇奈に向けて飛び散る。
「!?」
ジェダの行動に戸惑いながらも本能的な嫌悪感から、二人は地を蹴ってジェダへと斬りかかっていた動きの軌道を変え、降りかかる血から逃れる。
「……っ!?」
雪と扇奈は今度ははっきりと驚きの色を露わにした。
逃れたはずの血しぶきが、生き物のごとく二人を追ってきたのだ。うねりながら飛来する血はいつしか姿を変え、無数の手となって二人を掴もうとする。
「はっ」
「たぁっ!」
雪の槍が、扇奈の刀が一閃し、赤い手を切り払う。しかし手は怯むことなく二人に襲い来る。
「健気だ。実に。
だが」
再びそう言って、ぱちりとジェダは指を鳴らした。
「何っ!?」
「きゃあっ」
悲鳴を上げた雪と扇奈の両足を、赤い手が掴んでいた。いつの間にか二人の足下には血だまりが広がり、そこから生えた無数の手が次々に二人に絡みつく。
それぞれの武器で切り払おうとするも、素早く赤い手は二人の腕をも拘束する。
「おとなしくしていてもらおう。封印の巫女達よ。
何、しばらくの間だよ。彼らが諦めてくれるまでのね」
狂気を収め、優雅に、恭しく拘束した二人にお辞儀して見せてジェダは笑んだ。慈悲深く、王の威と共に。
「楓達は諦めたりしない! 私達だって、諦めない!」
「そうです! 私達は黄龍さんを正気にして、地獄門を閉ざすんです!」
「ふむ……」
ジェダはあごに手を当て、怪訝な目で二人を見る。
「何故君達はそんなに必死になる?
自分の命を捧げても構わないという意志は崇高だが、何が君達にそう思わせるのかな」
「決まってるわ。大切な者を守りたい、それだけよ!」
「大切な人に生きて欲しい……っ、そう思うからです!」
もがきながらも、きっぱりと雪と扇奈は言い切った。
「私は別に君達を滅ぼそうというわけではないのだがね。
全ての魂を一つにすることで、争うことも憎しみ合うこともない、平穏で穏やかな世界を創りたいだけだよ。
君達とて、大切な者達と一つになれるのだ。抗い苦しむ必要などないのだよ」
聞き分けのない子供を諭す口調でそう言ったジェダは、反論しようとする二人を制するように軽く手を振った。
「よいかね、黒髪の創られし巫女よ。
君を創った者達が何故滅んだかを知っているかい?」
「……誰かに、襲われたんです。まさか、あなたが!?」
「いいや」
ゆっくりと、殊更に意味ありげにジェダは首を振った。
「知らないのなら教えてあげよう。
創られし巫女よ、君を創った者達はね、互いに殺し合ったのだよ。
これまでの自分達の行いを否定する者が現れ、それを認めない者との間で争いが起こってね」
「……嘘、嘘です……っ」
「嘘ではない。よく思いだしてみるといい。君は誰と戦った?」
「それは……っ」
扇奈は唇を噛んだ。
扇奈を襲ったのは鬼の仮面をつけた娘達。あれは、扇奈と同じ境遇の「封印の巫女」として創られた娘達だった。扇奈に逃げろといった組織の研究員が「巫女のコントロールを奪われた」というようなことを言っていたことから、扇奈はそれが襲撃者達の仕業だと今まで思っていた。
――でも、ジェダの言う通りなら……でも、そんな……
動揺し、もがくことも忘れた扇奈に憂いに満ちた目を向け、ジェダは静かに言葉を続ける。
「人が「人」を、それも超常の力を持った、しかも生贄として捧げるためだけの存在を作り続ける……創り出すそのことも自然の摂理に逆らった所業。反発を覚える者が現れるのも道理。故に内部崩壊は当然の結末だ。
だがその様は実に哀れだ。人の愚かさがこのような喜劇にして悲劇を招く。私はそのようなことを繰り返したくないのだよ。価値ある魂を、そのようなことで無為に失いたくはない」
「……そんな……」
「扇奈さん、耳を貸してはいけない。
この人の言うことは詭弁にすぎないわ」
肩を落とす扇奈に、赤い手に囚われたまま精一杯寄り添って雪は言った。
「詭弁……? 事実ではないかね」
「確かに人は過ちを犯す。でも、それとあなたが人に対して勝手を為すこととは繋がらない。
人の意志を無視する者に、魂の価値など語る資格はないわ!」
「フフッ、真の巫女はずいぶんと気の強い。
だが巫女よ、人とは弱きものだ。その弱さを昇華するために、私は救済の手を差し伸べるのだよ。
見るがいい、親と子が、かつての同胞が共に戦うあの悲劇を」
視線を動かし、ジェダは戦い続ける楓達と黄龍を示す。力の差に加え黄龍――慨世を殺す気が無いこともあって、三人がかりで楓達はなんとか互角――いや、まだ僅かに不利なようであった。
「あなたが師匠の心を奪ったからでしょう。他人事のように言わないで!」
怒りの色を露わにする雪に視線を戻すと、ジェダは心底楽しそうな、狂った笑い声を上げた。
「巫女よ、巫女よ、聞きたまえ。何故黄龍が我が手に堕ちたか教えてあげよう。
私は彼に言ったのだよ。
『守護神の役目に囚われるのは愚かなことだ。今なら地獄門から出ることは容易。さすれば君は愛しい子供達と再会できるのだよ』とね。
それまで崇高な使命感を抱き、揺らぐことの無かった黄龍の心はその瞬間揺れた!
ささやかな、だが私に見せるにはあまりにも致命的な隙を見せるほどにね!」
大きく両腕を、翼を開き、ジェダは哄笑する。
「あぁ、人よ、人よ! 罪深きものよ! なんと愚かなるか、弱きかな! 情はたやすく己が使命さえ揺るがせる!
だが安堵せよ、私は君達を救おう。私の元で一つになることにより、君達は永劫の平穏を手にした完成されしものとなるのだよ!」
「……愚かなのはあなたよ」
雪は、言った。
そこには怒りがあった。
純粋なまでの怒りがあった。しかし、雪の声はあくまでも静かに響いていた。
――雪お姉さん……
傍にいる扇奈が肌で感じるほどに雪の怒りは深い。だが雪の青い目は冷静にジェダを見つめている。
「私が愚か、だと?」
スイッチが切り替わったかのように落ち着いた顔に戻り、僅かにジェダは眉を寄せた。
「人は弱いわ。その弱さが時として罪の原因にもなる……」
一度、雪は目を伏せた。その心をよぎるのは師を失ったあの日のこと――
「でも」
再びジェダに向けられた雪の眼にあるのは、強い意志の光。決意ある者の覚悟の光。
「心の弱さは罪ではないわ。その弱さにつけこむことこそが罪。
人の心は弱く、儚いもの。でもその弱さを受けいれることで人はどこまでも強くなれる。
私はそう信じている」
「素晴らしい」
一つ、二つ、ぱんぱんとジェダは手を打った。
「封印の巫女だけのことはある。揺るぎないその意志、気高いその心。価値ある魂とはまさに君のことだ」
ジェダの言葉に、表情にあるのは紛れもない称賛の色。しかし同時にその目には、雪を一段見下す色が宿っている。それを雪も扇奈も、見て取っていた。
――この人には、他者の、少なくとも人間の言葉など届かない……
人ではない、人の心の在り方を理解はしても、共感することのない「異なるもの」――ジェダ=ドーマがそういった存在であることを雪は理解し、おぞましさを感じた。
――……倒すしか、ないのね。大切な者を守るためには。
雪は愛槍を握る手に力を込める。一振り、たった一振り振るうことができれば、自分達を捉える赤い手を切り払える。赤い手の力は強いが、なんとしても自由を取り戻さねばならない。
「巫女よ、無駄なあがきは止めたまえ。
天をご覧。君がどれほど強い意志を持ったとしても、運命には逆らえないのだよ」
天を指差し、なだめるようにジェダは言う。同時に、ふっと周囲が暗くなった。
「四神ノ力集イテ」
――何……?
「雲が……」
天を見上げた扇奈が呟く。その言葉通り、いつ現れたのか天は渦巻く黒い雲に覆われていた。厚い雲は日の光を遮り、夕暮れ時のような薄闇で世界を覆い尽くす。
「君達は皆、価値ある魂の持ち主だ。しかし私へ協力する意志はない。
残念だが消えてもらうしかない。
安心したまえ、肉体は滅んでも魂は不滅。その魂は私の元で永遠の安寧を得るのだよ」
クックッと実に楽しげに、狂気と共にジェダは笑う。その上空、渦巻く雲の中心部で、何かが光った。
「是ナル驕レシ者」
光と共に雲の中から現れたのは、巨大な矛。
「あれは天沼矛、国産みの矛。君達を一掃し、私の創る新たなる世界の幕開けを告げる矛だ」
ばさりとジェダは翼を広げた。
「さぁ、四神よ、巫女よ、お別れだ。そしてようこそ、我が元へ――」
「黄泉国ヘト誘ワン」
天より顕れた巨大な矛は、地へと、飛んだ。
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