月に黒猫 朱雀の華

十の五 見守る意志

――慨世……っ
 背に感じる気配――いつの間にか閉じた扉越しでも強烈に感じるその気配、黄龍の気配――に、嘉神は片膝をついて黒衣の己を見据えたまま、ぎり、と奥歯を噛んだ。
 この状態からでもはっきりとわかる。黄龍の存在はジェダの力に絡め取られている。間違いなく黄龍は今、ジェダの傀儡と化している。
「ジェダが慨世、黄龍を伴って降臨したか。フン、外の連中も終わりだな。それでもあがくか、影よ」
 ふわりと宙に浮かんだ黒衣の『嘉神』が嘉神を見下ろし、嗤う。
「愚問だ」
 立ち上がりながら嘉神は言う。あちこちの傷が痛むが戦うのには問題ない。
「私は己が為すと決めたことをやる。『私』ならばわかっていよう」
「地獄門の封印、この世界を護ることか。
 だがそれは真に『私』の望むことではない。四神が責務と人の愚かな情を混同し、目を曇らせているだけにすぎん」
「………………」
「忘れてはいないはずだ。常世に見た、人の醜き様を。
 あれこそが人の本質。あれこそが人の真実。
 そんなモノが跋扈する現世を、何故護らねばならん?
 現世の理を護る四神であるならば、人を排除し、新たな世を築く必要があることを理解できるはず」
 嘉神を見下ろす『嘉神』の眼の色は青い。かつては茶だった眼の色は、常世を受け入れたときにその力の色に染まった。常世から解き放たれた今の嘉神の眼も元の色は取り戻せていない。
「……私は、人の全てを知らぬ」
 『嘉神』の青い、曇りのない澄んだ眼を見つめて嘉神は言った。
「常世に蠢く醜き負の想念、あれが人の全てだ。それを見てなお知らぬと何故言える」
 『嘉神』の青い眼が嘉神から逸らされ、別の一点へと向けられた。
 そこに静かに佇むのは、レン。二人の嘉神が戦いをレンはそこで見つめている。
 どちらに加勢することもなく、どちらに肩入れするそぶりも見せず、ただ、じっと。
――レン……?
 『嘉神』の視線を追った嘉神はレンの夕日色の眼にどこか悲しげな色を見た。その小さな手が、固く握りしめられているのも。
 ひそやかに、レンはその小さな体で強い感情を示している――
――レン……お前は何を悲しむ。何を思っている?
 嘉神はレンを信じた。だが、『嘉神』とレンがなんらかの関わりがあることはおそらくは事実。
 その関わりがレンに悲しみを抱かせるのか。
 宙に浮かんだまま、レンを見下ろす『嘉神』の眼は少女の悲しみを前にしてもなんの感情も表さない。
「常世だけではない。現世で私は見たはずだ。
 欲に駆られ、無知のままに己らの守護神たる朱雀の、我が屋敷に踏み込み、あげく小さな命まで奪った「人」というモノを」
――小さな、命……あの黒い猫……かつて『私』が共に暮らした……
 記憶の片隅に引っかかっていた棘が抜けるような感覚、あるいは、パズルのピースが全て埋まったような感覚を覚え、はっ、と嘉神は目を見開いた。
――『私』はレンに向かって『お前を殺した人間』と言った。
「…………」
 レンの夕日色の眼が、嘉神へとゆっくりと向けられる。
 レンの姿に、小さな黒猫の姿が重なって見える。
 ふるりとそこに揺らめいたものを嘉神は確かに見、何であるかを理解した。
 レンの意志、そして感情――肯定。懐旧と悲しみ。罪悪感、後悔、苦悩。そして、喜び――ほんの一瞬の揺らめきの中に、これまでにレンが見せたことのない無数の想いが在ったことを嘉神は理解した。
「レン、お前が……」
 ジャッ、と空を割く音と共に、宙から――『嘉神』の手から放たれた青白い一条の光が床を薙いで走る。
 嘉神の身を掠めた光は無情な浄化の光、人を否定する『嘉神』の意志の具現化とも言えるその光。
 故意に逸らされていたが、光の持ちし力の余波が嘉神の頬を、髪を、衣服を裂く。
「ようやく理解したか」
 依然、宙より嘉神を見下ろし『嘉神』は言う。その声は何故か先より一段低く、玄関ホールに響いた。
「そうだ、その黒猫はかつて我が傍らに在ったもの。
 か弱き無力なその命を、人は己の欲を満たす為に踏みにじった」
「……それが、きっかけだった」
 再び『嘉神』を見上げ、嘉神は言葉を続けた。
 黒猫の死に揺れた心の隙を突かれた嘉神は常世の声を聞き、その声のままに地獄門を介して常世を垣間見た。そこに見た光景――死して常世へと流れ行く定めに背き、現世をひたすらに望む「人」の負の感情の醜さ、おぞましさ――に嘉神は心を呑まれ絶望し、怒り、憎み、拒み、そして堕ちた。
 人の本質は悪であり邪であると断じ、ならば自らのその業を以て滅びるべし、と。
 人の滅びたその後に、新たなる美しき理を己の手で打ち立てようと。
「そう、黒猫の死が嚆矢となり私は常世を見た。
 だが私はそれまでにも無数に見ていた。人と人が互いに争う姿を、強きにつき弱きを見捨てる姿を、騙し、裏切り、殺し、犯し、奪い、壊す姿を見ていた。
 それらを見ておきながらなお、我が影たる貴様は人の全てを知らぬとほざくか!」
「あぁ、知らぬ」
 頬を伝う己の血に構うことなく、嘉神は『嘉神』を、己を見据えた。
 真っ向から、その、絶望と狂気と拒絶が入り混じって澄み切った碧い眼を――清浄すぎる水に泳ぐ魚はない、そんなことを思いながら――見据えた。
「確かに私は常世に人の負を見せつけられた。現世においても人の弱さも醜さも見た。
 だが同時に私は人と人が互いに助け合う姿も、強きに抗い弱きを護る姿も、信じ、尽くし、愛おしみ、創り出す姿も見てきている。
 それだけではない。この世界で目覚めて以降とて、私は様々な者と出会った。
 かつて知ったる者との再会もあった、初めて出会う者もあった。人がいた、人ではない者もいた。
 だがそれらの者が見せた心の有り様は、人の善性そのものだ」
「そのようなモノは虚ろ。醜き人を救うには足りぬ!」
 『嘉神』の殺気を含んだ叫びに、嘉神は静かに首を振った。
「そう言いきれるほど、私は人を見ていない。
 常世を介してではない、守護神としてでもない。私は、「嘉神慎之介」という一個の人として、人を見ねばならん。
 見続けた末の結論が、人が邪悪なる存在だというものとなったならば、その時再び私は人の敵となろう。
 しかしそれは今ではない。今は私は人を見るために、これまでに見た人の善性を認め、現世を護る。
 地獄門を、封じる」
「それは貴様のエゴだ。エゴに囚われ、大局をわからぬ、所詮は影が!」
「それは貴様も同じだろう? 嘉神慎之介」
 嘲りと怒りをない交ぜにした言葉を吐き捨てる『嘉神』に対し、嘉神の口調は落ち着いたままだ。
――私はただ……為すべき事を為す。
 嘉神は確固たるその意志を言葉と化す。
 言葉という形を得た意志を以て、過去の己と決着をつけるために。
「人の全てを否定することしかできぬ『私』が、エゴに囚われていないと言えるのか?」
「なんだと!?」
「我が朱雀の示す『忠』は盲目的に尽くすことを意味していない。
 護るべきもの、廃すべきもの、それぞれを見極めた上で己が意志を以て為すべきことを貫く、それが『忠』であり……私が行く道だ!」
 嘉神の左手に炎が宿る。それは炎へと転じた嘉神の意志だ。
「ほぉっ!」
 炎が、嘉神の意志が放たれる。紅蓮の炎が宙の『嘉神』へと襲いかかる。
「はぁっ!」
 『嘉神』は炎に向け、光を放った。青白い光は炎を貫き、四散させる。
 炎を貫き、更に光は嘉神へと死の手を伸ばす――が、嘉神の姿はそこになく。
 白い外套を翻し、嘉神は『嘉神』へと向かって駆ける。
「くっ」
 次々に『嘉神』は光を繰り出すが、駆ける嘉神を光は捕らえられない。
「鳳凰……」
 嘉神は、床を蹴った。舞い上がるその身を嘉神の内より出でる朱の炎が包み込む。嘉神を核とし、炎は大鳥の姿を形どる。
「っ……よかろう、貴様の言が虚であること、その身を持って知れ!」
 『嘉神』の身を青き炎が包む。炎は見る間に大鳥の姿と化す。
「塵となれ!」
 青き火の鳥は地へと飛ぶ。朱き火の鳥を屠らんが為に。
「エゴの固まりよ!」
――これで終わりにする!
 朱き火の鳥は天へ舞う。青き火の鳥を滅し、自らの道を開くために。
「……天翔っ!!」

――慎之介――

 祈るように胸の前で両手を握りしめたレンの前で、朱と青の鳳凰が激突し、轟音と共に炎が乱舞し――
 一瞬の後か、それともずっと長かったのか。
 不意に、静寂が戻った。
 炎は千々に消え、薄闇もまた玄関ホールに戻る。
 そこに立つ【嘉神】は一人。
「…………っ」
 レンの唇が開かれ、吐息のような声が洩れる。
「……レン」
 確かにその声に応じ、嘉神は――白いコートを纏った嘉神慎之介はレンの名を呼んだ。
「…………!」
 ちりん、りんと鈴の音を鳴らし、レンは嘉神の元へと駆け寄る。
 嘉神の足下には、黒いコートの『嘉神』が倒れていた。
「……フ……また、四神に……敗れるか……」
 忌々しげに、しかし口の端を苦みを含みつつも笑みの形に歪め、『嘉神』は言った。
「……何故だ……何故、人を信じられる……? 『私』の見たあの絶望から、何故貴様はそこに立ち戻った……?」
 『嘉神』の体のあちこちが崩れていく。崩れた部分は黒い霧状に変じ、ホールの薄闇へと消えていく。
――この『私』を具現化させていた術が壊れたか……
 嘉神はもう一人の己を見据え言葉を紡ぐ。これは過去の己と訣別する儀式にも似た行為であると感じながら。
「完全に信を置いたわけではない。
 先も言った通りだ。私はもうしばらく、人を見ていようと思っただけだ」
 そっと、嘉神は左手をレンの頭の上に乗せた。
「そのきっかけは、お節介でお人好しな私の周囲の者達……そしてこの黒猫が、レンが与えてくれたものだがな」
「……フン……」
 『嘉神』は、笑った。苦いものでもなく、忌々しげでもなく。挑発の意こそそこにあったが、何か吹っ切れた笑いであった。
「ならば見ているがいい。私はそんな『私』を見ていよう。
 『私』は貴様の内にあるのだからな……」
「わかっている」
 決着をつけても、訣別しても、この『嘉神』は確かに嘉神の過去の姿であり、なかったことにはなりはしない。誰に許されようとも、事実は残る。嘉神はそれを理解している。
「忘れるものか」
 低く告げ、嘉神は『嘉神慎之介』に背を向けた。
「…………?」
「構わん。どういう存在にしろ『私』だ。消えゆく様など見届けられたくはない」
 小首を傾げて見上げたレンに答えながら、嘉神は歩む。
「それに、為すべきことはこれからだ。何も終わってはいない」
 扉の向こうからは剣戟の音が微かに聞こえてくる。玄武の翁や楓達が戦う相手は黄龍、そしてジェダ=ドーマ。
 ジェダに操られているだろう黄龍を解放し、ジェダを倒さなければ封印の儀は行えない。そしてそれは一刻も早く為さねばならない。
 『嘉神』が消えゆくのを見送る時はないのだ。
――気になることは他にもあるが……
 僅かに、嘉神は早足の自分に懸命についてくるレンに目を向けた。
 かつて嘉神が共に暮らした黒猫、それがレン。だがごく普通の猫だったはずのあの黒猫が、どうして夢魔であり使い魔である少女の姿を得ているのか。しかも、嘉神が黒猫を失ったのは六年ほど前のことだというのにレンが800年の時を生きているのは何故か。
 それらは気になるが、やはりのんきにレンに問いただしている場合ではない。
――今は、封印の儀の完遂に全力を尽くすのみ。
 意を新たにし、嘉神は外へと続くドアのノブに手を、掛けた。
 

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