月に黒猫 朱雀の華
十の幕外・一 救世する者
「灰となれ! 穢れしものよ!」
火の鳥が、飛ぶ。朱雀の性たる朱を忘れた、青い炎の鳥が。
その炎が、朱の鳥――嘉神慎之介の身を喰らう。
「嘉神!」
受け身も取れず地に落ちた嘉神の姿に、楓は疾風丸に手を掛け、踏み出した。
突然駆け出した嘉神の後を追って屋敷まで来た楓達が目にした二人の嘉神。割って入れぬ雰囲気に見守るしかなかったが、嘉神の不利を見ては黙ってはいられない。
だが――
嘉神本人、そして玄武の翁が楓を制止した。
もう一人の自分、黒衣の『嘉神』を見据え、僅かによろめきつつも立ち上がった嘉神は一言低く「来るな」と。
翁は無言で釣り竿で楓の行く手を遮り。
「老師、何故ですか!? 嘉神がこのままでは……!」
釣り竿を引き、ひょいと肩に担いで翁は言った。
「お主は一人であの時の慎之介を倒した、なれば自分にもできるはずと慎之介なら考えるであろう。今の状況であっても、誰かの手助けなど慎之介は受け付けまいよ」
「しかし……」
「慎之介の意地……あれに言わせれば美学、かの。
それを尊重してやっておくれ。
それにの」
翁は黒衣の『嘉神』と刃を交える嘉神に視線を向け、言った。
「慎之介は負けはせぬよ。二度と、己にはのう」
笠の下、白くふさふさとした眉毛の下の翁の目は、鋭くも優しい。楓はそう思った。
「わかりました。老師の言葉を……嘉神を、信じます」
『そうしてくれると、私も助かるよ』
――この、声は……!
脳に直接響くようなその声、息苦しいプレッシャーさえ感じる強烈な気配に、楓は疾風丸を握り直した。翁達も皆、警戒の色も露わに身構えている。
『『彼』は自らの手で決着をつけることを好むのでね……
フッ、言わずともかつて戦った君にはわかることだったかな、青龍よ』
「ジェダ=ドーマ、どこだ!?」
『ここだよ』
宙を睨んで叫んだ楓に応えた声は、背後からだった。
「あれは……!?」
目にしたモノに楓は声を上げる。
楓達の後ろ、嘉神の屋敷の庭に、赤い柱が出現していた。
濃い、むせるような匂い、本能的に「赤」と形容したくなる鉄のそれと似た匂いが大気を満たす。
「血柱か」
呟いたのは、刹那。
刹那の言葉通り、血でできた柱が天から流れ落ちるでもなく、地から吹き上げるでもなく、そびえ立っている。
と、柱の、人の高さの三倍ほどの位置に、黒い影が見えた。
最初なんの形かもわからなかった影が人の形になり――それは影が柱の中央から表面へと近づいているからだと楓は気づいた――やがてその細部が明らかになると同時に、その者は柱の内より出でた。
青黒い肌、鎌のような翼、確かに人の形をしているのにどこかいびつさを感じさせる姿のその者――冥王、ジェダ=ドーマ。
「青龍と封印の巫女のコピーには一度会ったが、そちらの方々にはお初お目に掛かる」
慇懃にそう言い、宙に浮かんだまま、優雅かつ傲岸そのものの仕草でジェダは一同にお辞儀をして見せた。
「私はこの世界の救世主、ジェダ=ドーマ」
「ほう、お主がのう……」
僅かに笠の端をあげ、翁がジェダを仰ぎ見る。
「お主がことは慎之介から聞いておるよ。やれやれ、世の中急ぐ者が多すぎるわい」
「これでも私は色々見定めてからの行動のつもりなのだがね、玄武よ」
「ふむ……」
ぽん、と一つ、翁は竿で自分の肩を叩いた。
「定めた答えの上からでは、どれだけ見ても何も変わらぬよ」
「それは君の弟子である朱雀を知るが故かな?」
興味深げにジェダは腕を組んで翁を見下ろしている。
「お主ら魔族ほどではないがの、それなりに生きた者の答えじゃ」
「……なるほど。
どうやら私達は相容れないようだ」
ゆっくりとジェダは一同を見渡す。
「残念だが玄武だけではなく、この場にいる一同皆そのようだね。
常世の使者であった者までが封印に力を貸そうとしているとは……だがその魂の輝きは美しい」
「……貴様は好かん」
不快げに眉を寄せ、刹那は携えた刀を抜き放つ。ばちり、と稲妻が黒い刃を走る。
「虚ろなるモノには理解できまいよ。魂無き者よ」
「もういい!」
余裕を持ったジェダの態度に焦れ、楓もまた抜刀した。一瞬、どこからともなく吹いた風がふわりと楓の髪やベストをなびかせる。
「僕達とお前が相容れないとわかっているなら言葉は不要だろう!
僕達は地獄門を封印する。邪魔をするならば容赦しない」
「姉や君の想い人を犠牲にする覚悟はついたということかね?」
「犠牲になんかしない! 僕達は姉さんも扇奈も犠牲にせず、地獄門を封印してみせる!」
僅かの逡巡も、ひるみも見せることなく、真っ向から楓は言葉を叩きつけた。
「ふむ……」
あごに手を当て、ジェダは小さく声を洩らす。
「君の言うことが希望的観測に満ちた戯言であるのか、それともなんらかの手段を見つけ出した故のものかに興味がないわけではないが……」
音もなくジェダの刃の如き翼が広がった。ジェダの「力」の強大さが楓達の精神を、そして肉体までも威圧する。
「くっ……はぁっ!」
疾風丸を振り上げ、最上段から楓は刃を振り下ろす。
刃は空を斬り、ジェダの放つプレッシャーをも両断する。それで完全にプレッシャーが消え失せたわけではないが、幾分楽になった体に闘志と気をみなぎらせ、楓はジェダを睨み据える。
「私の言葉を聞き入れてくれないのならば仕方あるまい」
しかしそれを委細気にした風なく、静かにジェダは言葉を続けた。
「ここまで整えた舞台を邪魔されるわけにはいかないのだよ。
私の救世を阻もうとする者は皆、消えてもらわなければならない」
もっとも、とジェダの口がぱかりと大きく笑いの形に開く。その頬を、赤いものが伝う。
「安心したまえ、君達の魂はきちんと救ってあげよう。私は救世主なのだからね!」
高らかに、ジェダは笑った。血の涙を流しながら、狂ったように、それまでの慇懃な態度をかなぐり捨てて。
「さあ、招こう。君達に救済の道を示すにふさわしい男を」
大仰な動きで、ジェダは背後の血柱を指さした。
――まだ、仲間がいるのか……?
身構えた体に走る緊張を抑えながら、楓はジェダが指し示した血柱に浮かぶ影を、見た。
浮かぶ影は、大きい。示源ほどではないがなかなかの巨漢のようだ。頭に角が生えているように見える。
「……え?」
楓は、雪が小さく声を洩らすのを聞いた。その声の響きにあるのと同じ感情が自分の胸の内に広がるのも。
『全テノ生命アル者ヨ……生命ノ意味ヲ問フ……
死ノ意味ヲ知ル者ヨ……我ガ声ヲ聞ケ……』
重く低い声が、空を震わせる。
――嘘だ。
楓は小さくかぶりを振った。
――この声を知っているなんて、嘘だ。
『愚カナル生者ヨ……イニシエノ罪状ヲ……
ソナタラノ死デアガナワン……』
『その者』がジェダと対峙し、その動きを阻んでいると嘉神は楓達に言った。
――ジェダは、何故、僕達の前に姿を現せた? 何故、地獄門開放に手を出せる?
その答えを、楓も雪も、他の者達も既に理解していた。
「なんということじゃ……」
翁の声には苦渋の響きがある。
「……奴が、敵に回ったのか」
刹那は淡々とそう呟く。
「……あの人は……まさか……」
扇奈は驚きを隠せない。
「そんな……」
雪は、そして楓は、言った。
「師匠……」
「お師さん、どうして……」
『我ハ全テニ救世ヲモタラス者……黄龍……』
血柱から現れしその者、最後の守護神、黄龍はなんの感情もない声でそう、言った。
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