月に黒猫 朱雀の華

十の四 二人の朱雀

 ぎぃ、と鈍く不気味な音を立てて屋敷の大きなドアは、開いた。
 開いたそこは広いホールになっている。天井にシャンデリアが備え付けられてはいるが今は明かりは点いてない。壁の燭台の蝋燭と窓から差し込む日光だけが光源だった。
 やはり、あの時と同じく。
 そしてその光の中に『嘉神慎之介』は佇み、来訪者を、己が野望を挫きに来た愚かな者を出迎えたのである。

「最初に我が元に来たるはやはり『影』か」

 ドアを開けたところで足を止めた嘉神を見やり、何の感慨もなく『嘉神』は言った。
 『嘉神』の顔も、声も、寸分違わず嘉神と同じ、ただ身に纏う衣は嘉神の白とは対極の漆黒。
「そこまでの意志を持ち、そこまで枷を破ってこの場に至るとは、愚かしく弱きものなれどさすがは我が一部であったもの、というべきか」
 それは確かに嘉神慎之介、己だと嘉神は理解した。顔が同じだからではない。声が同じだからではない。目にした瞬間に理解したのだ。
 これは自分だと。比喩でも何でもなく、何かの理由で一つから分かれた己の片割れだと。
 それを、先より酷くなった息苦しさの中、嘉神は理解していた。鼓動も一層激しくなる。額に嫌な汗が浮かんでいるのさえ感じられる。
――……怯えているのか、私は……
 首筋に手をやり、嘉神は思う。手に震えこそはなかったが、白い手袋の下で掌にも汗をかいているのがわかる。
 触れた首にタイはもう無い。無駄なことと知りつつ嘉神はシャツの一番上のボタンを外した。
 無意識に、おそらくは己自身であるからこそ感じ取っていたこと――もう一人の自分自身の存在、それが地獄門開放の儀式を行っていること――が受け入れ難く、恐れ、拒絶していた。そんな感情が肉体にも変調を及ぼした、そんなところだろうかなどと、自覚した恐れの中でも嘉神の心のどこかが妙に冷静に分析する。
――人は己自身の影を恐れる……私もまた人であり、弱きもの。そういうことか。
「そうだ。その心は「私」が人であったが故。もっとも影なのは私ではなく貴様だがな」
「…………」
「忌まわしきものだが貴様は我が一部であった。その心などたやすく読める」
 笑みが、『嘉神』の口の端に浮かぶ。己を嘲笑しているのだと嘉神は感じた。
「本来ならば貴様を切り捨てたその時に、滅するつもりだったのだがな。
 だが傷ついた我が身を癒すには時が必要。故に貴様に我が身を預けたのだ。
 私がこの舞台を整えるまでの間、我が身を癒し、守らせるために」
 『嘉神』が剣を抜き放つ。その左手の鞘が消える。青き、常世の力に染まった炎と化して。
「完全に無事だったとは言えぬようだが、十分に傷は癒えた。我が元にその身を持ち帰ったことで貴様の役目は終わりだ。
 私は我が身を取り戻した後、現世を浄化する。
 人は忌むべき者、現世には不要な者。わかっていよう?」
「…………」
 無言の嘉神に、『嘉神』の青い目に蔑みの色が浮かぶ。
「フン……所詮は忌むべきもの、真理を曇らす善性等というものか。
 やはり我が手で消し去り、その身は力尽くで取り戻すしかないということか」
 抜いた剣――常世の青い炎を宿した剣を『嘉神』は嘉神へと突きつける。
「我が元へ戻れ」
 だが『嘉神』のその言葉を向けたのは嘉神ではなかった。
 嘉神の傍らに在る黒いコートの少女、レン。
――……レン……だと……?
「我が身を監視する役割は終わりだ。お前はお前の力を以て私と我が身を再び一つに戻さねばならぬ。夢が覚めるかのごとくに」
 低く、だが強く命じる口調で『嘉神』は言う。
 嘉神は信じられない思いでレンを見た。
 レンはいつもと変わらぬ表情で『嘉神』を見ている。夕日色の目には感情が見えず、レンが『嘉神』の言葉をどう思っているのかはわからない。
――レンが、私を監視していた?
 思い返すまでもなかった。いつでもレンは嘉神の側にいた。嘉神が一人街へ出た時には不機嫌になっていた。体が弱っているというのに主を探すそぶりも見せず、嘉神が主になろうと持ちかけても拒み、そのくせ嘉神から離れようとしなかった。
――……だから、なのか……
 断片が『嘉神』の言葉を裏付ける。それが嘉神の中で確かなものへとなろうとした、その時。

――しんじて。

 はっきりとその声を嘉神は思い出した。
 切なる思いがこもっていた、そう嘉神が感じたレンのあの銀の鈴を振るような声。
――……信じると、私は答えた。
 あの時のレンの姿に、嘉神はレンの言葉にこもった想いは真だと信じた。それを今、覆す理由があるだろうか。
――ない。
 自問に即答する。嘉神が自分でも少々意外に感じるほどに。
「何を信じる? 私がその黒猫を貴様の監視役としたのは事実」
 嘉神の心を読んだ『嘉神』が目を向ける。その声に混じるのは不快の響き。
 嘉神はひたと『嘉神』を、己を切り捨てたと言う者を見据える。
「レンは、私を裏切らない」
「…………!」
 レンが嘉神を見上げる。目を大きく見開き、夕日色の赤に、喜びの色を浮かべて。
 『嘉神』を見据えたままでそれを見てはいなかったが、嘉神はそうだと感じた。
「私、だと? 影が何を言う。黒猫が裏切らぬのは私だ。貴様ではない。
 来い、我が黒猫よ。お前の役割、お前の望みだ。私達を一つにするのに力を貸せ。そしてお前を殺した「人間」を浄化しよう。
 その時、お前にも完全なる救済を……」
――お前を殺した「人間」?
「…………っ」
 レンが首を振る。はっきりと、大きく。
――……レン?
 『嘉神』を見たレンの目が悲しげな色を宿していたように嘉神には思えた。
 だが、嘉神の抱いた疑問の答えを求める余裕など無い。
 『嘉神』の剣に宿る青き炎が一際大きく燃え上がる。『嘉神』の殺気が膨れあがる。
「……よかろう」
 『嘉神』は言った。ふわり、とその身が僅かに浮き上がる。
「ならば、貴様ら双方力尽くで従わせるまでだ。
 少々我が身を損なうやもしれぬが、やむを得まい」
「レン、下がれ」
 嘉神は剣を抜いた。嘉神の鞘は赤い炎と化して消える。赤は朱雀の赤、現世の秩序の守護神たる四神の証。
「…………」
「案ずるな」
 見上げるレンにそう告げ、嘉神は一歩前に出た。
「…………」
 くい、と左手を引かれる。
「何だ?」
「…………」
 レンは嘉神に自分の右手を差し出した。小さなその手にあるのは、白い布が一枚。
「これは……私のタイか」
 こく、と小さくレンは頷く。
「……ありがとう」
 床に剣を突き立て、嘉神はタイを受け取った。シャツのボタンを締め直し、首にタイを結ぶ。
 不思議と息苦しさは消え、汗も引いている。
――恐れが消えた……か。
 剣を撮り直し、嘉神は『嘉神』を見据えた。
「貴様は我が過去。時として人は己が過去に怯えるが、それを越えて進む力がある」
――為すべきことを見定めれば。
 嘉神は思い出す。吸血鬼となってしまった少女を、常世の使者だった青年を、封印の巫女の複製として作られた少女を。皆恐れておかしくない過去を持ちながら、前に進む揺るぎなき意志を宿していた。
 それぞれに、己の為すべきことを己が心に持っていたからだ。
「どうやら私にもそれは備わっているようだ。私が人であるが故に」
 嘉神の為すべきこと、今のそれは封印の儀を以て地獄門を完全に封印すること。
 過去に恐れている場合ではない。過去が甦り、地獄門を開こうというならばこの手で阻止するまでのこと。
――レンに感謝せねばな。
 レンを信じること、そのことが嘉神の心に冷静さを取り戻させ、今為すべきことを完全に見失わずにいさせてくれた。
――何がきっかけになるか、わからぬものだ……
「まこと、何がきっかけになるかわからぬな。
 力を使わずして黒猫は影に下らぬ夢を見せるか。
 良かろう、その夢を打ち砕いてくれる。
 我が影なれど一介の四神如き、人の如きが、常世の力を得た私に勝てると思うか!?」
 強い声と共に『嘉神』の殺気と常世の負の気が膨れあがり、放たれ、嘉神とレンに叩きつけられる。
「はぁっ!」
 一歩も動くことなく、嘉神は剣を振るった。その剣閃が『嘉神』の放った気を打ち払い、消滅させる。
「そう言って相手を侮り、若き青龍に倒されたことを忘れたか、嘉神慎之介?」
「ほざくな。それは貴様という不純物が我が内にあったが為。それを今ここで思い知らせてくれよう!」
 青い炎が『嘉神』の左手に宿る。
 応じるように赤い炎が嘉神の左手に宿る。
「むんっ!」
「薙げっ!」
 同時に放たれた二つの炎が、まさに戦いの口火を切った――
 

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