月に黒猫 朱雀の華

十の三 甦った屋敷

 海に浮かぶ小島の、更に崖に隠されたその場所に嘉神の、朱雀の屋敷があったのは、全ては人の目から地獄門の封印の要を隠す為であった。
 屋敷が洋館であったのは、過去、江戸時代初期の朱雀がそこに弾圧されていたキリシタンを受け入れていた名残だと、嘉神の一つの記憶、嘉神が「本来の世界」と認識している記憶にはある。
 もう一つ、このMUGEN界の嘉神の記憶は――曖昧として館の由来ははっきりとしていない。
 だが洋館であった理由が何にせよ、嘉神の屋敷は嘉神が地獄門を開放しようとした時に無残に倒壊したのだ。間違いなく。
 しかし今、何もなかったかのように屋敷は存在している。
「……信じられない」
 あの時、屋敷が倒壊したその場にいた、嘉神以外のもう一人である楓が低く呟く。
「慎之介、お主の屋敷は倒壊したのであったな?」
「そうだ」
 示源の問いに答える嘉神は食い入るように屋敷を見つめている。
――間違いない。我が屋敷は私が力を……常世の力を解放した時に、崩れ去った……
 あの時、師の仇を取る為に、それ以上に青龍として現世を護る使命に目覚めた楓に追い詰められ、嘉神はその身に宿した常世の力を解放した。
 同時にそれは、嘉神による地獄門開放の儀式の最後の一手であり――嘉神の力と発動した地獄門開放の術式に耐えられずに屋敷は崩壊した。
――だが、あれは……っ
 一歩、一歩、嘉神は歩を進める。己の鼓動が早鐘を打っているのを嘉神は自覚している。
 それが、己の動揺がもたらしているものだとも。
――……あの中では……
 嘉神は感じていた。屋敷ではある術式、儀式――地獄門開放の儀が執り行われている気配を。かつて己が執り行った時と同じ力の波動が、ここにいても屋敷から伝わってくる。
「新しく誰かが作ったのかのう?」
「地獄門開放の為に必要なことなんでしょうか」
「……違う」
 聞こえてくる翁達の会話に、低い声を嘉神は絞り出す。感じている違和感はますます強くなってきている。
 何かが違う、何かがおかしい。
 それは屋敷だけではない。
――何かが、間違っている……
 また一歩、嘉神は歩を進めた。
 ここからは屋敷を一望できる。ここからの光景は屋敷が崩れ去る前と何も変わらない。屋敷も、その周りの木々も。ここから見える庭には、白い花――あれは、椿だったはず――が咲いているのまで見える。
――椿……庭の草木まで、あの時と同じ、だと?
 かちりと嘉神の中で何かが噛み合った。
――そうか、そういうことか。違和感があるはずだ。そもそもの私の認識が誤っていたのだから……
「あれは、あの時のままということか」
 何も違っていなかった。何もおかしくはなかった。
 『今この時にこの状態であるはずがない』、その一点を除いて。
「嘉神……?」
 嘉神の呟きに楓が訝しげな声を上げる。
「新しく作ったのではない。あの時そのままだ。
 全て」
 嘉神は天を見上げた。開きつつある地獄門、その様も、放たれる力、負の気もその強さも寸分変わらずあの時と同じ。
 嘉神は地へと視線を下ろした。甦った己が屋敷。今まさにかの場所では開放の儀が展開されているはずだ。
「私が地獄門開放の儀を行った時、そのまま全てが再現されている」
「そのままって、どういう……」
「だからか」
 困惑の表情と共に問う楓――その言葉は他の者の思いの代弁でもある――に応えるように呟いたのは刹那だ。
「今のあれは、俺が出でた地獄門とは似て異なる。
 俺が出でた時の地獄門は止まっていたが、あれは生きている。力の流れも異なっている」
「だが、何故だ?」
 久那妓の呟きに嘉神は首を振った。
「わからん。この地だけ時間が巻き戻ったか、はたまた他の理由か。
 推測はできぬこともないが、正しいかどうかなどわかるはずもない」
 殊更に冷静に嘉神は言う。だがその鼓動は未だ治まらない。感じる息苦しさに嘉神はタイを僅かに緩めた。
「……行くしかないってことか」
 きっ、と楓は屋敷を睨み据えた。その周囲を一瞬、風が舞う。ふわりと少年の髪をなびかせたその風は、負の気の漂うこの場においてもすがすがしさと力強さを宿している。
――この場においても、怯むことなし、か……青龍の意志も、力も、あの時よりも成長している……
 楓の起こした風に嘉神の息苦しさが僅かながらも和らぐ。
――あの時と、何もかもが同じではない……何も恐れることなどない。
 今この時、開こうとする地獄門に向かうのは、四神全員に封印の巫女達、常世の使者だった者と彼と共に進む少女。
 一人ではない。
 あの時、嘉神を阻まんとした者は皆一人だった。そうなるように嘉神が、常世が仕組んだのだ。雪も、守矢も、示源も、玄武の翁も、楓も、皆一人で嘉神の前に立った。
 だが今は一人ではない。

――私を阻むのは一人ではない。

――…………!?
 至極自然に己の中に浮かんだ言葉に、ぎくりと嘉神は体を強張らせた。
 ジェダ=ドーマではない。オシリスの砂でもない。
 今、嘉神が思い浮かべた阻むべき者は己――「嘉神慎之介」。
「あの時の、まま……」
 先の自らの言葉を嘉神は繰り返した。
 地獄門は開かれようとしている。その儀式は甦った嘉神の屋敷で展開されている。それが嘉神にはわかる。
 では誰が、儀式を執り行っているのか?
「あの時、行ったのは……」
――今、この現世で開放の儀式について誰よりも詳しいのは……
 嘉神は地を蹴った。走った。
「慎之介、どうした!?」
「嘉神!?」
 驚きの声、先走るなと引き留めようとする声が響くが嘉神の足は止まらない。足場の悪い坂道を駆け下りていく。
――どういうことだ、何が起きている、何が……っ
 問いただす声がぐるぐると嘉神の思考の中で渦を巻く。
 それは疑問ではなかった。確定した事実を確認するための問い。
「……ぐっ」
 嘉神の感じる息苦しさが強くなる。屋敷に近づき負の気に満ちた大気のせいか、足場の悪い坂道を全力で駆け下りているせいか、その「事実」のせいか――
 走りながら乱暴に嘉神はタイをほどいた。投げ捨てられたタイが淀んだ大気の中を流れ行く。

 宙を舞う白いタイは、少女の小さな手に掴み取られた。

 ちりんちりんと鈴を鳴らし、ただ一人、嘉神のすぐ後を追って駆ける、レン。
「…………」
 レンは足を止め、手の中のタイを数瞬、見つめた。
 きゅ、と一度強く握りしめる。
 きっ、と強い意志を宿した顔で前を、駆ける嘉神の背を見据える。
 迷い無く、レンはまた駆ける。坂を駆け下り、屋敷の門をくぐる嘉神の背を追い。
 レンの鈴は、淀んだ大気の中でもちりんちりんと澄んだ音を響かせていた。
 

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