月に黒猫 朱雀の華

十の二 違和感

 天は、暗い。
 雲で覆われているわけではない。この島上空自体が青黒く変色しているのだ。その色は緩やかに広がり、濃さを増し始めている。
 変色の中央にあるのは、地獄門。開きつつあるそれの向こうにある常世が現世を浸食しつつある証であった。
――あの時と……私が地獄門を開こうとした時と同じだ……
 以前よりはっきりと見えてきた地獄門の様に一同の先頭を行く嘉神は思う。その傍らを、黙々とレンが行く。
――もうそろそろ、特異な力のない者達にもあれは見え始めることだろう。
 そう思い、思ったところで嘉神は眉を寄せた。
――……地獄門……やはり何か、おかしい。
 島に降り立った時から、天に在る地獄門に対して薄ぼんやりと嘉神は違和感を覚えていた。未だ明確なものは何もないが、何かがおかしい、そんな感覚が離れないでいる。
――私が開こうとした時と何も変わりない……おかしな所などないはず……
 「地獄門が開こうとしていることを除けば」、と心中で嘉神は呟く。しかし、違和感はつきまとう羽虫のごとく、嘉神から消えない。
 未だ治まらない意識に、思考に介入しようとするノイズを思わせる不快感の所為かとも疑ったが、それとはまた別だ。ノイズは相変わらず強くなるわけでも弱まるわけでもないが、それはそれで不気味であった。
――色々と、厄介なことだ……
「慎之介や、体は大丈夫かの」
 と、嘉神の隣、レンとは反対側へと足早に並んだ玄武の翁が、嘉神を見上げた。
「あの程度の式神の行使、たいした苦ではない」
「そうではない。地獄門の変化を感じてからお主、具合が悪いじゃろう」
 そう言う翁の声は低い。おそらく聞こえているのは嘉神だけだろう。レンには聞こえているかも知れないが、彼女は翁の言葉に反応した様子はない。
「それは……」
「強烈な地獄門の負の気を感じたから、だけではあるまい?
 隠そうとしても師であるわしにはわかるぞい」
「…………」
 先んじて翁に釘を刺されては、嘉神は口をつぐむしかなかった。
「式神を操ったことも直接の原因ではあるまい。
 慎之介、何がお主に起こっておる」
 常と変わらぬ穏やかな口調に嘉神を案じる色を乗せて翁は問う。
 嘉神は後ろ――自分の後に続いている者達の様子を伺った。意図したものではないが僅かに距離は開いている。変に騒がない限り翁と嘉神が話す声や内容を彼らに気づかれはしないだろう。
 それを確認した上で、嘉神は口を開いた。
「何が起きているかはよくわからない。だが、何かが私の思考に介入しようとしてきている……」
 正直に嘉神は告白した。ここで翁に隠しても意味はなく、また師である翁なら話してもいたずらに騒ぐことはあるまいという信頼からだ。
「ふむ……。常世かの?」
 言葉の裏で翁が問うているのは、常世が再び嘉神をその尖兵としようとしているのか、ということ。
「そうではない。常世のそれとは異質な力だ」
 それは嘉神も一番に疑った。だがノイズには常世特有の、強烈な負の意識は欠片も感じない。正か負か、邪か聖か、とらえどころのないノイズだ。敢えてそれを表すのにふさわしい言葉を選ぶならば――
「これは……純粋な意志、だと思う。強固で澄んだ意志だと」
 おぼろなそのノイズ、力のイメージに一番近いと嘉神が思うものがそれだった。ただ一つのものに特化した、迷いのない意志。「ノイズ」とは矛盾するが、そうとしか言いようがない。
「それがお主の意識に介入しておる、か……」
 呟いて翁は髭を撫でる。口にはしなかったが、翁が「何の為に」と思っているのは明らかだった。
――それを知りたいのは私もだ。だが……
 今この時、嘉神の意識に何者かが入り込もうとする理由。推測だけならできる。嘉神を木偶とする為、嘉神の意識、記憶、あるいは知識を奪う為、嘉神の意識を通して四神の動向を探る為――常世か、ジェダか、オシリスの砂か、あるいは他の何者かはさておき、狙いとするならせいぜいこの辺りの理由が妥当なところだ。
 翁もこれぐらいの推測はしているはず。そして気づいているはずだ。どれもが可能性があり、故にどれだという決定的なものもない。
 だから翁は問いを口にはしない。嘉神も何も言わない。
 どう転がるかわからない、薄氷の上を踏むような不安定な状況だが前に進むしかない。封印の儀は一刻を争う。
「慎之介や」
 ただ、翁は言った。
「無理はするでないぞ。お主は一人で地獄門を封印するのではないのだからの」
と。
「わかっている」
「だと、よいがの」
 笠の端を上げて嘉神を見上げ、翁は苦笑する。
 ちりん、と鈴が鳴った。
 もう聞き慣れたその音に、自然と嘉神の視線は向く。
 視線を向けたそこには、こくりと頷いて見せるレンがいる。
――師匠に同意するのか。
 レンの夕日色の目に走る光に嘉神は思い、憮然と眉を寄せた。
「ほっほっ、信頼がないのではないぞい。お主を案じておるのじゃ」
 小さく笑って言う翁の口調は穏やかだ。地獄門の開きつつあるこの時、封印の儀を行う場所のすぐ近くだというのに。
「……わかっている」
 ぼそりと先と同じ言葉を繰り返すと、嘉神は足を速めた。師である翁の言葉の意図も、レンが頷いた理由も理解している。だが案じられるのは――
――落ち着かん。
 もう坂を登り切る。そうすれば屋敷跡が見える。気を引き締めていかねばならぬ、そう自分を戒め、嘉神は歩む。
 その足が、不意に止まった。
――……っ!?
 驚きに嘉神の青い目が見開かれる。
「慎之介、どうかしたかの?」
「……馬鹿な」
 嘉神の口から洩れたのは翁への答えではない。声も聞こえていたか、どうか。
 嘉神が目にしたのは、崖下にある洋館。
 数ヶ月前、嘉神が地獄門を開放しようとした時、跡形もなく崩れ去ったはずの嘉神の屋敷であった。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-