月に黒猫 朱雀の華
十の一 その地へ
白い大鳥が三羽、空をゆく。巨大な翼を羽ばたかせ、天を翔る。
その背に乗っているのは嘉神達だ。嘉神とレン、示源と翁、楓と扇奈と、一羽に二人ずつ、落ちないようにしっかりと掴まっている。
大鳥は、嘉神の作り出した式神。アーンスランド邸から一刻も早く『そこ』へと赴くためにこのような手段を執った。
――地獄門の気配……感じる、開くのはやはり……
先頭を行く大鳥の背で、嘉神は強い風を受けながらも前を睨み据えている。
頭の中をいじられるような不快感は未だ消えない。むしろ『そこ』に近づくほどに強くなるような気がしている。最初の一瞬ほど、強烈なものではないことは幾ばくかの慰めであったが。
天にある地獄門の放つ力、存在感も緩やかにだが強くなり始めている。開放されようとしているのは明らかだ。
地獄門を開放しようとしている者、ジェダ=ドーマがいるのは――街の上空を越え、港へ、更に海へと向かって飛ぶ大鳥の行く先、それは、
――やはり我が屋敷か。
見えてきた小島、嘉神の屋敷があったその島は既に、陰気、負の気に覆われていた。
――この世でもっとも地獄門に近い場所、私が行った開放の術式は残っていまいが、あそこ以上に適した場所はあるまい……
『近い』というだけではない。彼の地には先の一件で地獄門との因果が深く刻まれている。確実にそして効率的に地獄門を開放するならば、あの場所を選ぶのは当然のことだ。
「…………」
袖を引かれ、嘉神は傍らのレンに目を向けた。
レンは嘉神を夕日色の目で見上げ、すっと左前方を指さした。
――む……
レンが示す先には、同じ方向を目指す別の白い鳥。その背にはやはり、人影が見える。
――無事に巫女達も向かっているようだな。
それが雪達を迎えにやらせた大鳥だと気づき、嘉神は小さく頷いた。
小島はどんどん近づいてくる。息がつまりそうな濃い負の気に眉を寄せ、嘉神は傍らのレンに目を向けた。
嘉神のコートの裾をきゅっと掴んだレンの顔色が少し悪い。体が弱っているせいか、負の気に中てられているせいか。
「レン、苦しいなら戻っていいのだぞ」
レン一人を送り返すだけの式神を作るぐらいの余力はある。だがこの問いの答えは、あまりにも明らかであった。
「…………」
きっぱりとレンは首を振る。嘉神の予測通りに。
「退く機会はこれが最後だ」
「…………」
レンの、コートの裾を掴む手に力がこもる。それが彼女の答えの全てだった。
――予測通りとはいえ……
コートを握って離そうとしないレンを見やり、嘉神は思う。
レンは嘉神の使い魔になることを拒んだ。拒みながらも、危険な地に頑ななまでについてくる。その気持ちが嘉神にはわからない。
――……レンは何をどうしたいのだ……
「…………」
レンが嘉神を見上げる。変わらず、その唇は何の言葉も発しない。夕日色の目が一途な光を宿して嘉神を見つめるのみだ。
嘉神と共に行く、その想いがひしひしと伝わってくる。
「ついて来たとて、お前の益になるとは思えんのだがな」
そう嘉神が言っても、レンの手は緩むことはない。
大鳥が、降下を始める。小島の浜へと向けてだ。屋敷跡は崖に囲まれており、大鳥が下りるのは厳しい。そうでなくても此度の要の地に安易に突っ込むのは危険が過ぎる。
「邪魔にはなるな」
着陸に備えて身構えながら、結局嘉神はレンにはそう言うだけにとどめた。それぐらいしか、言う言葉が見つからなかった。
四羽の大鳥は次々に浜に降り立つ。その背から嘉神達が下りると、あっという間に大鳥の姿は消え、浜には鳥の形を模した紙片だけが残った。
――ここまでは問題なしか。ジェダ=ドーマは我らを退ける気はないか。
それだけ儀式に自信があり、それだけの力があるということなのだろうと、一層強く感じられる地獄門の気配、そして去ることのない不快感に嘉神は眉を寄せつつ思う。
「嘉神、大丈夫なのかい?」
嘉神の表情に何か勘違いでもしたか、楓が声をかけてきた。そう言う楓も地獄門の気配に眉を寄せ、緊張にか表情は硬い。
「この程度ならばどうということもない」
人を運ぶ式を四つ作り、操る。確かに楽なことではなかったが、酷く負担になるほどでもない。ましてや他の手段を選ぶ時がない以上、少々の負担のことなど言っても仕方がない。
「けど……少し、顔色がよくない。いくつもの式を操るって大変だったんじゃないのか?
儀式にはあなたの力も必要なんだ。あまり無理は……」
――これが必要だったということはわかっているだろうに……しかも、『私』を案ずるか。
なおも心配そうな――『仇』である嘉神を案じる楓の様子に、人の善いことだと内心呆れにも似た思いを抱きながら嘉神は首を振る。
「心配ない。己の為すべきことは心得ている。それが果たせなくなるような真似はせん」
それよりもだ、と嘉神は改めて一同を見渡した。この地に漂う気配、そして地獄門が開きつつあり、儀式を行わねばならぬということに表情を険しくしている者がほとんどだ。いつもと表情が大きく変わらないのは刹那とレンぐらいであった。常世に生み出された存在である刹那はこの気配に動じることもないのであろう。
――レンも夢魔故に、人のようには常世の気を感じぬのやもしれん……
なんらかの悪影響を受けていないのであればそれでいい、と心中で呟き「行くぞ」と嘉神は一同に声をかけた。
「先にも言ったが、ジェダ=ドーマが地獄門を開くのは私の屋敷があった場所のはずだ。
案内するからついてこい」
先に立って歩き出した嘉神の後に、一同は無言で続いた。
皆、わかっているのだ。多くを問う時間はないのだと。
ちりん、と鈴の音が鳴る。
「…………」
鈴の音と共にレンは嘉神に並ぶ。急ぎ足の嘉神において行かれまいと、小さなレンの歩みは自然と小走りになる。
嘉神は歩む速さを変えない。
今はその地へ、かつて己が地獄門を開こうとしたあの場所へと今は急がねばならないのだから。
だが一度だけ、嘉神は傍らのレンへと視線を向けた。
夕日色の目が嘉神の視線を受け止める。向けられることを待っていたかのように。
真っ直ぐに、レンは嘉神を見つめている。共に行くのだと、言葉よりも雄弁にその眼差しは語ってくる。
――何故だ?
その問いの答えは、返らない。
返らない答えを今は待つ時間も、求める時間もない。
視線を前に戻し、嘉神は黙々と歩む。急ぎ足に、次第に上り坂となっていく道を行く。
しかしその歩みが今以上に早まることは、なかった。
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