月に黒猫 朱雀の華

九の四 動揺

「作業に入る前に地獄門と封印の儀についてタバサ殿が見解を述べたいそうじゃ」
 昼食後、図書室に戻り、昼前に書物に目を通していたテーブルや本棚の側に立つ一同を前にヴァルドールが言った。
「それを聞くことはこれからの調査の指針にもなるとわしは思う」
「ふむ……それもそうじゃのう。第三者の分析にも興味はあるのう。わしらでは気づかぬことを知れるやもしれん」
 玄武の翁が白髯を撫でながら問いかけの視線を向ければ、一同は異論はないと頷いた。
「では僭越ながら述べさせて頂きます」
 一歩前に出て魔道学者タバサは語り出した。
「封印の儀はおおざっぱに分けて二系統の術、思想によって構成された儀式と見ます。
 まず一つは力、エネルギーによる物理的な封印。これは端的に言えば強大なエネルギーで強引に閉ざすということです。シンプルですね。
 二つめは呪術的な封印。呪術と言っても複数の要素が絡んでいると思われます。
 その一つは陰陽五行思想による封印。万物の循環方程式の一つであるこれを用いることにより、本来あってはならない、この世界の循環を乱す原因となる、異なる法則の世界への穴を閉ざすというものです。五行の体現者である四神と黄龍が封印の儀に必要な理由はここにあります。四神が欠けることが封印の安定を欠く理由もここでしょうね。
 もう一つは……」
――興味深いな。
 水を得た魚のように生き生きと述べるタバサの話を、嘉神はそう感じていた。
 封印の儀を構成する術の原理や、地獄門が封印される原理を嘉神は考えたこともなかった。封印の儀自体も、幾ばくかの知識と四神の本能だけでするものだと当たり前のように思っていたのである。
 そう思っていただけに、タバサが示す封印の儀の原理は興味深く、色々と嘉神に考えさせている。封印の儀のことだけではない。地獄門の封を護る、つまり現世の理を護ることにあたって四神がどのような役割を果たしているのかといったことや、自分が朱雀の守護神であることの意味――今まで「そうである」ことが当たり前すぎて考えもしなかったことを否が応でも嘉神は意識していた。
 だが嘉神の心中にはあのことが抜けない棘となって刺さり、タバサの話に耳を傾けながらもその意識の中から消えることはなかったのである。

「……つまりまとめると、封印の巫女の役割は地獄門を物理的に封印する為のエネルギーの源、そして呪術的な封印の為の生贄と考えられます。
 以上が私の封印の儀に対する見解です」
 そういって、タバサは長い話を締めくくった。話し終えたその顔には一つの達成感が浮かぶと同時に、話を聞き終えた四神達の表情を観察する様子が見て取れる。
 その、タバサに図られる四神達の表情は固いものだった。
――封印の巫女を犠牲にしない方法が存在する可能性は低くなった……か。
 中でも特に硬い――いや、険しい表情の楓を見やって嘉神は思った。
 タバサも述べていたが地獄門を封じる為には巫女の持つ全ての力が必要。また、呪術の形態を整える為に生贄が封印の儀に必要。これら二つの要素を鑑みれば、封印の巫女の犠牲は必須としか考えられない。
――だが青龍は諦めていない。
 表情を険しくしながらも楓は書物に挑んでいる。その眼に浮かぶ意志の光はいささかもあせていない。
――未熟なれど、強い心を持っている。その心が、私を討った。
 青龍を継いだ楓に敗れたときのことが嘉神の脳裏に浮かぶ。しかし未熟な青龍に打ち倒されたあの時の記憶はもう、不思議と嘉神に屈辱も恥辱も感じさせなかった。代わりのようにその心に広がるのは――
――これは、羨望か。青龍を私は羨んでいるのか。
 楓は大切な者の為に一途に、真っ直ぐに全力を尽くしている。どれほど困難に見えても、決して諦めない。ともすれば柔弱とも見える外見からは意外なほどに強い精神、心。
 その心をもって楓は青龍の力を我がものとして嘉神を倒し、今また懸命に封印の巫女を救うすべを求めている。

――己の大切な者の為に――

 僅かに、嘉神は眉を寄せた。苦い思いが青い眼の中に揺らめく。
――羨望だけではない。嫉妬か……
 嘉神は口の端を歪める。羨望、嫉妬。人の、決して美しいとは言えない感情。人のそれらを否定した己がその感情を抱く愚かさ。
 四神といえど、朱雀の守護神といえど、人の枠からは抜けられぬのだと繰り返し思い知らされながら、嘉神は果敢に書物に挑む楓を見つめる。楓はどうやら難しい書物は苦手らしいが、必死に取り組んでいる。
――私には何ができる?
 自問し、何の為、誰の為に、と付け加える。
――……世界の為。現世を守護する四神の役割を果たす為に。生きとし生けるものの為に。
 積み重ねた答えを、違う、と嘉神は否定した。それらの為ならばできることはあまりにも明らかであり、それを果たせば良いだけのこと。
 楓を羨み、嫉妬する理由を生む「何か」であり「誰か」――心に刺さる棘。
――……レン……
 ゆっくりと嘉神は楓からレンへと視線を移した。
 レンは今は所在なげに本棚の前をぶらついている。嘉神の位置からはほとんど背しか見えないが時折垣間見える顔にあの時見せた複雑な――怒りと寂しさ、呆れの入り混じった――色はない。
――我ながらどうかしている。あの程度のことで……動揺しているとは……
 小さく、微かに、自分ではまるで意識せずに嘉神は溜息をついていた。
 溜息をついたことには気づいていなくても、それは認めざるを得ない。
 レンに主となることを拒まれたこと。そのことに嘉神慎之介は少なからず動揺している。
――主として認められぬはずはないと自惚れていたか……?
 朱雀の守護神であり――そして何より、ずっと傍にいた。八百年というレンの生きた時と比べればささやかな長さだろうが、一緒にいた理由のほとんどはレンが望んでついてきたからだ。それだけ自分のことをレンは気に入っているのだと嘉神は思っていたが、それでも主しては認めてはもらえない。傍にいたいと思う程度に気に入るかどうかと、使い魔の主として気に入るかどうかは別なのだろうと嘉神の冷静な部分は推測するが、どうにも気分は沈んでならない。
――自尊心が傷ついたか? だがこの程度のことで傷つくほど私は弱くはなかったはず……いや、今こうも引きずっているということは弱くなっているのか……
 いかん、と嘉神は小さく首を振った。今はこうしている場合ではない。タバサの説も考慮しつつ、封印の儀に関することを調べねばならない。
 封印の巫女を救う方法だけではない。どのような不測の事態が起きても対応できるようにしておかねばならないのだ。
 そう思って嘉神はテーブルの本の山に手を伸ばした。手に取った『多重世界を繋ぐ扉の宿す力とその利用法』と題された本を嘉神が開いた時、
「朱雀殿、いかがであったか」
「……なんだ」
 周囲をおもんばかってかいくらか小声のヴァルドールに嘉神はいささか不機嫌な、しかし同じく小声で応えた。視線は開いた本へと向けたままだったが。
「なに、心ここにあらずと見えた故にの」
「…………」
「使い魔との契約はならなかったようじゃな。予想外じゃ」
 嘉神が無言でも構わず、平然とヴァルドールは言葉を続ける。
「朱雀の守護神を拒むとは、気位の高い使い魔であるものだ」
「それは半分当たりで半分外れね」
 割って入った女の声に思わず嘉神は額に手を当てた。
――またやっかいなのが……
「やっかいなのが来た、と思っているでしょう?」
 まるで悪びれた風もなく、楽しげな、しかし一応小声で言ったのはモリガンだった。
 いつの間に入ってきたのか、コウモリたちの作る宙を飛ぶ椅子に腰掛け、嘉神達を見下ろしている。
「面白そうなことをしているんですもの。図書室を貸す代わりに少し楽しんだって構わないでしょう?」
「邪魔をするな」
「あら、ぼんやり考え事してたくせに。いいじゃない、気分転換になるかも知れないわよ?」
「貴様とではより悪い方に変わりかねん」
 一切モリガンには目もくれず、嘉神は素っ気なく言い放つ。
「残念ね。でもまあそうね、あまり邪魔しても悪いわね。あなた達には頑張ってもらわないといけないし」
 そうは言っているが、忍び笑いを洩らすモリガンが欠片も悪いと思っていないのは明らかすぎるほどに明らかだ。
「そうしてくれると助かりますな」
 自分も嘉神に声をかけたことは忘れたかのようにヴァルドールは頷く。
「じゃあ頑張ってね。期待してるわ……
 色々と、ね」
 一つウィンクを飛ばしてモリガンは言ったが、努めて本に集中している嘉神は当然見ていない。
 そんな嘉神にクスリと笑うと、モリガンはコウモリたちと共に消えた。
 それと時同じくしてヴァルドールも本棚の森へと戻っていく。
――やれやれ……
 静けさの戻った周囲に、ようやく嘉神は少し気を緩めた。改めて本の内容に集中する。
 と――
 ふと引っかかった言葉に、嘉神は本から視線をあげた。先程モリガンがいた辺りへと自然とその視線は動く。もちろんそこには誰もいないのであるが。
――半分当たりで半分外れ、だと。
 ヴァルドールが言ったのは「レンが気位の高い使い魔である」こと。それが半分当たりで半分外れだとモリガンは言った。
――……レンが拒んだのには他に理由があるとモリガンは言いたいのか……?
 しかしそれを問おうにもモリガンは既にいない。
――……今は、それを確認する時ではない。
 目の前の書物に集中するべきだと嘉神は視線を本へと戻す。
「……」
 戻すその時、嘉神の目は、レンの目と合った。
「……」
――……今は、後だ。
 先に視線を逸らしたのは、嘉神だった。
 これまでと同じく目次に目を走らせ、本の内容を大まかに把握する。この本に書かれているのは、異世界、異次元を繋ぐ扉がどのような力を持っているのかの分類や、その力の利用法だ。異世界や異次元に関わるのではなく、扉自体を利用する、という辺りが嘉神の興味を引いた。
――封印の儀も、扉に干渉する儀式。関係を見いだせるやもしれん……
 意識的に本の内容に嘉神は集中する。
 だが、レンの視線が自分に向けられていることを嘉神はしばらくの間感じ続けていた。
 

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