月に黒猫 朱雀の華
九の一 魔道師の問い
壁全てが書棚であり、ずらりと並んだその果ては仄暗い闇に溶けて見えない。
ほどよい湿度が保たれた部屋の空気には、紙とインクの臭いがうっすらと漂う。
明かりは柔らかく、文字が読み取れる以上の強さはない。
「すごい……」
これら全てを読み尽くせる者などいないとしか思えないほどの本の数に圧倒され、楓は感嘆と驚き、戸惑いの入り混じった声を洩らした。同時にその声の中には、希望の想いが見え隠れしてる。
これだけの本があるのならば、これだけの知が蓄えられているここなら、封印の巫女を犠牲にせずとも、地獄門を封印するすべが眠っているのではないかという、希望。
「ほう……地獄門の封印について知りたいと。ふむ、時の流れは残酷と見える」
嘉神の呼びかけに応えて部屋の奥から姿を現したのは二匹の竜を従えた赤い服に青い肌の老人、魔道師ヴァルドール。簡単に事情を聞いたヴァルドールは興味深そうに訪れた一同――すなわち楓、嘉神、玄武の翁、直衛示源ら四神および京堂扇奈、レンの六名を見渡した。
「返す言葉もないの。
代々の四神とてただただ天命に従っていたわけではないが、過ぎる時の中で失われてしまうこともある」
苦笑しつつ、翁は自らの白い髭を撫でる。
「忘れ去られるもまた、知の定め。責めたわけではない。
これもまた我が知の探求よ。異界との門、地獄門の封印を護りし四神一同と会える機会などそうそうない。
まずは問おう。
四神という存在は地獄門を護る為のシステム。知識は失われても本能とでも言うべき受け継がれし四神の記憶が封印の儀を行う助けをするはず。
それ以上の知識を求めるのは何故か?」
「封印の巫女を救う方法を知りたいんです」
迷い無く一歩前に出て、楓はきっぱりと言った。若い青龍は異相の魔道師を前にし、緊張の色を明らかにしながらも自分の意志を示すかのごとくきっと見据えている。
「封印の儀は巫女の命、存在と引き替えに地獄門を封じる。
僕はそれが嫌です。だから巫女の犠牲無く地獄門を封じる方法を、探しています」
巫女を救う方法を探し、楓は嘉神の元まで訪れ、助力を請うた。しかし嘉神も巫女を救う方法は知らず、また慨世の遺した書物にもそのような方法は記されていなかった。
それでも諦めきれない楓を前に、嘉神は一つの、そして最後の手がかりを思いついたのだ。
膨大な書物が収められたアーンスランド邸の図書室。魔界の知識までもが収められているというあの図書室になら、楓の求める手がかりはあるかもしれない。それはとてもわずかな可能性かも知れないが。
そう嘉神が話すと、楓は一も二もなく連れて行って欲しいと頼んできた。可能性が僅かでもあるのならば行くしかないと、強い決意と意志を表して。
その意志を確かに目にした嘉神は、それ故に楓と、そして共に封印の儀を行う玄武の翁と示源を伴い、アーンスランド邸を訪れたのだった。
青龍たる楓の決意が揺るぎないものであるならば、一人で先走らせるわけにはいかない。嘉神とて楓の想いは理解できる。加えて、もし楓の求める知識が得られなくても、封印の儀や地獄門のもっと詳しい情報が得られるかも知れない。ただ楓の我侭に近い想いだけがここに来た理由ではないのである。
「ほう……。若き四神よ、何故そなたは巫女の犠牲を拒む?
そなたら四神はこれまでもそうしてきたのであろう? それまでの有り様を何故否定する?」
「それは……」
僅かに口ごもったが、楓はヴァルドールから視線を逸らさなかった。ヴァルドールを睨むような強い視線は、自分を叱咤し、支えんとせんが為だ。
「今の封印の巫女が、僕の大切な人だからです」
もうためらうことなく、楓は言い切った。
「僕は巫女である人を失いたくない」
嘉神だけではない、翁にも、示源にも楓はそう告げてきた。失いたくないから、最後までできることを探したいと。
翁も示源も、楓を否定しなかった。ただ一つだけ問うたのは、
『もし方法が見つからなかったらどうする?』
ただそれだけ。それは答えを求めた問いではない。楓の覚悟を問うた問いであった。
楓はまだ、その言葉に応えられていない。
「私心を以てこれまでの儀を否定するか……」
ヴァルドールもまた、楓をひたと見据えている。若い青龍を見極めるような眼差しはやがて興味の色を宿し、老魔道師の口元には笑みが浮かんだ。
「面白い。
世に理は一つとは限らず、目的達成の手段は複数あることも珍しくはない。
ここにそなたの求める知識があるかは定かではないが、存分に求められよ。及ばずながらわしも力を貸そう」
とん、とヴァルドールが手にした杖を突く。
音もなく、動く。ずらりと並んだ棚が、次々に意図を持って並び変わっていく。部屋の本来の広さやスペースなどまるで無視した動きだが、決して棚同士がぶつかりあうことはない。
「ふむ……この辺りか」
やがて動きを止めた棚を一瞥し、ヴァルドールは呟いた。
「これら全てが封印の儀に関する書物と言われるか?」
選り抜かれたといえども、かなりの数の書物に示源が眉を寄せた。
「さて、わしにもわからぬ。わしとてこの図書室の本全てを読み尽くしたわけではない。
わしはただ、この図書室に問うたのみよ。若き四神の問いに答えられる書物を、と」
「その問いに応えたのはなんだ」
「膨大な知を蓄えしこの図書室の意志、とでも言うべきものかのう。
精緻な答えを得ることはできぬが、大まかな指針となるものは示してくれる。
朱雀殿よ、そなたにも覚えがあろう? ここでそなたが読みし書物は、そなたの興を引くものばかりであったはず」
――確かに。
この図書館で過ごした時のことを思い出し、嘉神は頷いた。今思い返せば不思議なほど、この膨大な数の書物の中から嘉神は興味を持つ本を手近なところに毎日見つけたものだ。
それがこの図書室の意志だという。魔界三大貴族の一人、霊王ガルナンの遺した知の結晶とでも言うべき書物の数々である場所が為に、そのように不可思議なことも起こりうるのだろう。
「じゃあ、この中から必要なことを得られるかどうかは、僕ら次第だということですか?」
「左様。わしや、タバサ殿も力を貸そう。地獄門の脅威はわしらも放ってはおけぬからのう」
いつからそこにいたのか、ヴァルドールの側に姿を現した魔道学者、タバサを示してヴァルドールは頷く。
「ありがとうございます!」
素直に楓は頭を下げたが、嘉神は見ていた。ヴァルドールの、そしてタバサの顔にある好奇心の色を。
地獄門の脅威を捨て置けないというのは事実だろう。だが知の探求者としての好奇心も抑えがたいものらしい。
――学者とは面倒なものだ。……だがそれも、人の有り様か……
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