月に黒猫 朱雀の華

八の七 案ずるということ

 守矢の姿が見えなくなって、嘉神もまた踵を返した。
――……さて、どうするか……
 気持ちゆっくりと歩を運びながら思案に暮れる。
 御名方守矢のことはあれで決着がついたなどと思わないが、当面、守矢が無闇に向かってくることはないだろう。そういう意味では、なんらかの区切りがついたと言えないこともない。少なくとも、決着に向けての前進はできたと言って良いだろう。
 現在、直近の問題は――
「……っ」
 鈍く痛む腹部に、嘉神は手を置く。腹部だけではない、体のあちこちに傷を負っている。昼間負った傷が開いたところもある。酷い深手はないが手当を急いだ方が良さそうだ。
――と言っても、だ。
 この状態で戻れば、レンや雪が怒るのは目に見えている。かといって戻らないわけにもいかない。
――ある程度手当をしてから戻れればいいのだが……
 このまま戻るよりは、その方が当たりは柔らかくなるだろう。それなら家に残した身代わりの式神に、薬や包帯をを持ってこさせるかと思いついたところで、嘉神は足を止めた。

 ちりん、ちりりん……

 近づいてくる、鈴の音。断じて虫の音ではない、聞き慣れたその音。
 前からではない。後ろからだ。
 嘉神のすぐ傍で、音が止まる。
 何故か後ろめたい気分で嘉神は振り返った。この音を、守矢と戦う直前にも聞いていた、とようやく思い出しながら。
――つまり、ずっと彼女は――
 振り返ったそこには、やはりというべきか当然と言うべきか、黒いコートの少女が一人。
「……レン」
「………………」
 きゅ、と唇を引き結んだレンは、鈴の音と共に嘉神に歩み寄る。
 嘉神の手を取り、強く下に引く。しゃがめ、と言っているのだと理解した嘉神は、素直に片膝をついた。
「はじめから、ついてきていたのか」
 身代わりを見抜いたのかと暗に問うが頷くこともなく同じ目の高さで、じ、とレンは嘉神を見つめている。赤い夕日の色の目に怒りの色が浮かんでいるのが、月明かりの下でもまざまざとわかる。
「…………」
 ほんの僅か、レンの唇が開く。
 赤いレンの目が、ふるりと揺らめく。
――泣く……?
 嘉神がそう思ったのと同時だった。

 ぱちんっ

 レンの小さな手が、嘉神の頬を打ったのは。

「…………」
 何よりもまず、驚きに嘉神は反応できなかった。何があったのかを把握するのに、数瞬、時間を取られる。
――……打たれたのか。レンに。
 唇を引き結んだままのレンを半ば呆然として見ながら何とか状況を把握する。
 打たれた痛みはほとんど感じなかった。それが傷の痛みのせいか、驚いたせいかはわからない。
 状況を理解すると、何故打たれたのか、という疑問が嘉神の思考に浮かび、ついであっさりと解は浮かぶ。
――黙って家を出て、御名方守矢と戦ったことを怒っているからだ。
 逆の立場なら嘉神とて怒る。
「…………」
 非は自分にある。これも当然のことか、とある程度納得している嘉神に、レンが手を伸ばした。
 もう一回打つ気なのか、それはさすがに遠慮したい、と嘉神が思う内にレンは嘉神のタイを掴む。
 掴んだまま、一歩踏み出す。

 こつん、と。
 
――レン……?
 自分の胸元に額を押し当てるレンを、嘉神は驚きと戸惑いと共に、見つめた。
 月明かりに、レンの体が微かに震えているのが見える。
 タイを掴む手からも、胸に押し当てられた額からも、震えが伝わってくる。
 怒りからなのか、泣いているのか、それとも何かに怯えているのか。震えの理由はわからない。
 だがそんなレンの姿に、嘉神は罪悪感を覚えていた。震えの理由はわからずとも、その原因は間違いなく己、嘉神慎之介であることは間違いないのだから。
 嘉神は右手――傷に触れていない、血に汚れていない方の手――でレンの青銀の髪に触れた。
「……すまん」
 言葉は自然に零れ落ちた。
「……っ」
 嘉神の言葉に、レンの肩が一つ大きく震える。
「…………」
 ゆっくりと顔を上げた――どうやら泣いてはいなかったらしい――レンの夕日色の目が、じいっと嘉神を見つめる。レンの眼の赤の中には怒りの色があり、眉はきゅっと寄せられている。
――やはり、怒っている……
「黙って出て悪かった」
 こく、と小さく、しかしきっぱりとレンは頷いた。同時に少しタイを握る手に力がこもる。
「だが、こうするのが一番良いと思っての……」
 嘉神の言葉を遮るように、ふるふるとレンは首を振る。そして再び額を嘉神の胸元に押しつけた。
 行動の理由などレンにはどうでもよいのだと嘉神は悟った。理由が正当であろうと無かろうと、嘉神の行動にレンが怒っていることには変わりない。
「すまん」
 もう一度詫びると、レンはまた僅かに顔を上げた。
「…………」
 タイを握っていない方の手が、嘉神の腹部を――傷を撫でる。傷に障らないように気遣ってか、優しく、そっと。
「たいした傷ではない。
 痛みはあるが、手当てすればすぐよくなる」
 問いかける眼差しにそう答えてやると、レンは嘉神のタイから手を離した。
 嘉神の手を取り、軽く引く。
「あぁ、戻って手当をしよう」
 答えて嘉神が立ち上がると、レンはいつものように嘉神の手を引いて歩き出す。
 急ぎ足に数歩進み、ふと、嘉神を振り返る。
「…………」
 一度嘉神の手を離して柔らかく握り直し、レンは再び、心持ちゆっくりと歩き始めた。
「…………」
 歩きながらレンは時折嘉神を見上げてくる。
 まだ眉は寄せられているから、まだ怒ったままのようだが。
――いや、これは……
 寄せられたままの眉。だがよく見ればただ怒っているのではない。
――案じて、くれている……
 レンの眼に浮かぶ怒りの中の、憂いの色。嘉神を振り返る度に怒りを超えて濃くなっていくように見える。
――……私を。
 嘉神の足が速まった。戻れば色々と面倒はあるだろうが、今は早く戻ってしまいたい。
 嫌だという訳でも、いたたまれないと言うほどでもないが、レンの視線が何やら落ち着かない気分に嘉神をさせる。
――罪悪感……いや、それだけではない……
 歩みながら考える嘉神もいつしか眉を寄せていた。レンにはすまないと思っているが、この落ち着かない気分はそれだけではない。それだけではないが、どうもはっきりとせず、更に落ち着かない気分になる。
「…………?」
 レンが振り返って小首を傾げた。嘉神の歩く速さや表情を見てか、きゅ、と眉が寄り、憂いの色が濃くなる。
「心配ない。早く戻って、手当をせねばと思っただけだ。
 それにこれぐらい歩く分には問題ない」
「…………」
 それでもレンはじっと嘉神を見上げていたが、もう一度「心配ない」というとふぃっと前を向いた。
 嘉神の手を握ったレンの小さな手。
 いつもよりしっかりと握っている気がするその手が、更にぎゅっと嘉神の手を握る。
――…………
 嘉神はその手を、そっと握り返した。
 それだけで少し、落ち着かなかった気持ちが収まったような気がした。


 雪の家に戻ってすぐ、嘉神どころか雪達にも有無を言わさずレンは嘉神の傷の手当てを始めた。
 雪や刹那達もここにいた嘉神が式神だったと気づいていたらしく――つまり嘉神が何の為に身代わりを置いてまで家を出ていたかも気づいていた訳であり――事情をあれこれ問いはせず、レンが嘉神を手当てするのに任せている。
――……居づらい。
 かろうじて心中で呟くだけに嘉神はとどめた。つきそうになった溜息も飲み込んでおく。
 帰り道で感じた落ち着かない気分がまだ続いている。
 レンは黙々と嘉神の傷の手当てをしている。レンが無口なのはいつものことだが、今は妙にその沈黙が重い。レンの赤い目に宿っていた憂いの色は嘉神の傷を見る度に濃くなっていく。
 かといって自分から口を開くのも躊躇われた。と言うかレンに何をどう言えばいいかがわからないでいる。
 薬はやけに傷にしみ、レンは妙にきつく包帯を巻いてくるが、抗議したりたしなめるのも何やらしづらい。
 道中では早く戻りたいと思っていたのはどこへやら、嘉神はこの場から何とか逃れられないものかとまで考えていた。
 もっとも、この状態で逃れられるはずもないのであるが。
「式神まで作って……あなたという人は……」
 沈黙を破ったのは、嘉神の着替えを持ってきた雪だった。怒りと呆れの入り混じった口調と眼差しだが、沈黙が続くよりは今の嘉神にはありがたかった。
「面倒を避けたかっただけだ」
「レンちゃんが気づかなかったとしても、傷だらけで帰ってきたら同じことだったでしょう?」
 本日二度目の着替えを置き、はぁ、と一つ雪は溜息をついた。
「どうしても行くというのなら、話してくれればよかったのに」
 手を止め、こくりとレンも頷く。
「言っても反対したであろう」
「でもあなたも折れないでしょう? 話してくれれば互いの意志をきちんと確認することはできたわ。
 ……話してくれないと、何もわからない」
 ほんの僅か、雪は目を伏せる。
「この場であなたを止められないなら、あなたと共に守矢の元へ行って、守矢ともう一度話をすることだってできた。
 あの人が、守矢が何を考えているのか、知ることができたかもしれない。
 ……あの人はいつも、自分一人で全てを背負ってしまうから」
 嘉神の中で雪の言葉に御名方守矢の顔が重なる。封印の儀のことも、封印の巫女が誰であるかも知っていた御名方守矢。そのことを守矢は嘉神以外の誰にもまだ話してはいまい。
――奴は知っているのだろうか。雪が既に己の運命を知り、受け入れていることを。
 嘉神と共にいるところを見たのだから、可能性は察しているかもしれない。
「私も楓も、もう、あの人に守られるだけじゃないのに……少しはあの人の背負ってきたものを共に負えるのに……」
 寂しげに言う雪が、御名方守矢が全て知っていることを知ればどうなるのだろうと嘉神は思った。
――御名方守矢は、封印の儀のこともお前が巫女であることも知っていた。
 そう告げるべきか、否か。
「守矢だけじゃない。あなたも」
 嘉神が逡巡している間に、昼間と同じようなことを雪はまた言う。
「……む」
「周りをちゃんと見て。あなたを案じている人がいるのだから、無茶をするなら、せめてそう言って」
 きっ、と顔を上げて言う雪の言葉には力がこもっていた。だがそれは、己にではなく御名方守矢にこそ言いたい言葉なのだろうと嘉神は思う。
 そう思ったからこそ、嘉神は雪の言葉を己のものとは捉えていなかった。
 視界の端で頷くレンに気づくその時まで。
――……レン……
 思わずレンに目を向ければ、レンは真っ直ぐと嘉神を見つめ、こくんともう一度頷いた。
「案ずるのは、相手を大切に思っているからよ」
 雪の言葉は止まらない。おそらく今まで言えなかったことを――例え本来伝えたい相手に対してではないとはいえ――口にしたことで、心の堰が切れたのだろう。
 レンを見つめたまま頭の隅でそう考える嘉神の思考が、次の言葉で一瞬止まった。
「レンちゃんはあなたを大切に思っているわ。そのことを忘れないで」
――レンが私を、大切に……だと?
「…………」
 考えたこともないことに戸惑う嘉神の腕に巻いていた包帯を、きゅ、とレンは縛った。きつめだったこれまでとは違い、優しく。それが最後の手当の箇所で、レンは包帯の上から嘉神の腕の傷を小さな掌でそっと撫でた。
 優しいその手つきに、レンが雪の言葉を肯定しているのだと、嘉神は知る。
――そう、か。
 戸惑いはまだ消えない。だが同時に、嘉神は納得もしていた。
 だからレンは自分についてくるのだと。だからレンは自分を案じてくれるのだと。
 だから――レンはあの時自分を支えてくれたのだと。
 大切に思っていてくれたから、そう思えば全てが腑に落ちた。
 しかし何故レンが嘉神のことをそう思うのか、という疑問はある。アーンスランド邸で目覚めてからのこと、逆にそれ以前のことを思い返しても心当たりはまるでない。
「レン」
「…………」
 嘉神の声に目を上げたレンは、いつものごとく何も語らない。
 ただその夕日色の目に嘉神の傷を案じる色と、今宵の嘉神の行動への怒りを共に浮かべているだけ。
 だがそこに全ての答えがある、ただ己が気づかないでいるだけのような気がして、嘉神もまた無言でレンの目を見つめた。


 嘉神は聞いてはいなかった。
 雪が更にこう言ったのを。
「それに、あなたもこの子を大切に思っているのでしょう?」
と。
 

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