月に黒猫 朱雀の華
八の六 憎しみの先
若き青龍のいかづちが、堕天の朱雀の炎を打ち砕く。
技も力も、確かに嘉神が上回っていた。されど楓の強い意志が覚醒したばかりの力を大きく引き出し、一瞬とはいえ嘉神を凌駕したのだ。
怒りと無念に歯がみする嘉神の前で、とどめと楓はいかづちを宿した刀を振り上げ――
そこでぴたりと、動きが止まった。
解放された青龍の力の証、楓の金の髪と緋い目が、元の藍色へと戻っていく。
姿が変わるにつれ、嘉神への怒りと憎しみと共にあった勝利を確信した不敵な笑みが楓の顔から消え、強い苦悩の色が浮かび上がる。
そして。
「……ダメだ……」
楓の口から洩れた声は、苦しげに震えていた。
「……く……っ」
地に突き立てた刀を支えにし、立ち上がろうとする守矢を嘉神はただ、見つめている。
剣こそ未だ抜き放たれたままであるが、よろめきつつ守矢が立っても動こうとはしない。
「き、さま……っ」
声を絞り出し、睨み据える守矢の紅い目は、満身創痍であっても闘志と憎悪、そして怒りの色を失わない。
――だが、これは……
戦いの中で嘉神が感じていた違和感は、いつしか確信となっていた。
守矢の中にある憎悪と怒りは嘉神へのものであると同時に、嘉神ではない何者かへのものであると。
守矢が刃を振るうのは、仇を討つ為だけではないと。
そう、御名方守矢は、決して――
「まだ、終わっては、いないっ」
立ち上がった守矢は剣を構える。下段後方に刃を向ける、独特の構え。
「貴様もひとかどの剣士ならば、わかっていよう」
それでも嘉神は構えは取らない。元来構えらしい構えのない嘉神の剣技ではあるが、剣を持った手もだらりと下げたまま、戦う意志を全く見せない。
「己が戦えるか否かぐらいはな」
それに、と嘉神は付け加える。
「私も剣士の端くれだ。これだけ剣を交わせば、わかる。
御名方守矢、貴様には私を殺す気はない」
「……っ」
『……ダメだ!! 僕には、僕にはとどめをさす事は出来ない!!』
息を呑んだ守矢に、あの時の青龍――楓の表情、声が重なる。
嘉神を倒しながらも、嘉神への憎しみも怒りも持ちながらも、とどめを刺せなかった楓。
楓がとどめを刺さなかったからこそ、嘉神は地獄門に身を投げ、慨世に救われ――今、生きている。
――慨世と慨世に連なる者はそろいもそろって私を死なせぬ気らしい。……意識的にせよ、そうでないにせよ。
眼前の御名方守矢も、また。
守矢は無言で嘉神を睨み据えている。
「先も貴様は私の首を落とさなかったな。貴様の腕なら可能だったはずだ」
「……不意打ちでは、意味がない」
「む?」
「そもそも、貴様があのような動きを取らねば、当たりなどしなかった」
そう言う守矢の声に不満の響きを聞いた気がして、嘉神は怪訝に眉を寄せた。
「正面から貴様を倒す。そうでなければ、私は……っ」
守矢の刃の切っ先が、下がる。
「……貴様は、師匠と正々堂々と戦い、斃した。それだけは、認めざるを得ない」
切っ先が下がると共に、守矢の顔も伏せられていく。低い、感情を故意に打ち消した声が、重く響く。
「故に私も、貴様とは……少なくとも、正面から戦わねばならぬ。戦って、倒す」
「ならば今は剣を収めよ。
互いにこれ以上は満足には戦えん」
言いながら、嘉神は自ら剣を収める。思い出したように、あちこちに負った傷が痛みを鈍く訴え始める。
「…………っ」
「先にも言ったが、私にはやるべきことがある。
次の戦いはそれが終わるまで待て。全て終われば、貴様が満足するまでつきあってやろう」
うつむいていた守矢が、顔を上げた。
変わらず、紅い目は嘉神を射貫かんがばかりに睨み据えてくる。だがそこにあるものは今までとは違っていると、嘉神には感じられた。
怒りであることには変わりない。しかしその怒りには、やるせない思いが混じっている。
放たれた言葉にも、その色は濃く現れていた。
「封印の儀、か」
「……知っているのか」
慨世の養子とはいえ、ただの人の守矢がそのことを知っていたことにいささかの驚きを嘉神は覚えた。
「貴様が開いた地獄門を、閉ざす儀だろう。
封印の巫女と、四神によって成される儀」
守矢の目に浮かぶ怒りが、声に宿る怒りが鮮明さを増す。やるせなさも、共に。
「四神は朱雀の貴様、青龍の楓、白虎の直衛殿、玄武の老師――そして封印の巫女は、雪だ」
――そこまで、知っているとは……
封印の巫女が誰であるかまで知っていることに、嘉神の驚きは深くなる。
「嘉神ぃっ!」
守矢の姿が、霞んだ。微かに、空が唸る。
次の瞬間には、刃が止まっていた。
嘉神を幹竹割りにする寸前の白刃は、月光を鈍く弾きながら、震える。
刃の向こうの守矢の紅い、怒りと憎悪を宿した目が、嘉神を見据える。
間近のその紅に嘉神は知った。
守矢が誰に怒り、憎んでいるのかを。
「……貴様は」
「黙れ」
低く言葉を吐き、守矢は身を引いた。嘉神に背を向け、刃を収める。
そのまま、嘉神を顧みることも言葉も発することもなく、守矢は歩み去った。
「…………」
嘉神は後方を見上げる。
視線の先には、木の小枝に止まった白い小鳥が一羽。
しばし、小鳥を見つめたが嘉神は何も言わなかった。
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