月に黒猫 朱雀の華

八の四 怒る理由

「…………」
 嘉神の傷の手当てをするレンは、いつもと変わらず無言だ。しかしいつもと異なり、その眉をきゅっと寄せ、唇を引き結んでいる。
――怒っている……か。
 自らの血に汚れたコートとベスト、シャツを脱いで――何も言わなくても、嘉神の手当は譲らないという意志を全身でレンが主張していたのは誰が見ても明らかだった――嘉神は自分を手当てするレンを見ていた。
 怒っているのは守矢にか、それとも嘉神にか。そこまではわからない。わからないが、嘉神は怒っているレンの夕焼け色の目に憂いの陰りを同時に見た。
「…………」
 視線が気になったのか、レンが手を止める。「何?」と問うように首を傾げるが、眉は寄せられたままだ。
「いや、世話をかけると思ってな」
 誤魔化しではなく、本心を告げたのだが何故かレンの眉間のしわは深くなった。
 さらに、
「っ……レン、締め、過ぎだ……」
嘉神の首に巻く包帯を、きゅ、と強く締める。すぐ緩められたが嘉神は軽く咳き込みながら喉をさすった。
 レンは素知らぬ顔で手当を続けている。
――……ここまで怒るか……そもそも、何をここまで怒っているのだ?
 先程ほどではないが少しきつめに巻かれる包帯に困惑しつつ、嘉神は包帯に指を差し込んで緩めようと試みる。
「…………」
 嘉神が緩めようとした分、レンは包帯を強く締める。
――……?
 さすがに幾分むっとしながら更に嘉神は緩めようとするが、レンも譲らない。
「着替え、これで良いの?」
 静かな、しかし微妙な攻防を嘉神とレンが繰り広げている丁度その時に雪が嘉神の着替えを持って戻ってきた。アーンスランド邸から戻ってきたときに、嘉神は自分の着替えなど少ない私物も持ってきていたのである。
「……あぁ、すまないな」
 ぐ、と包帯を緩めて嘉神は雪を見やった。その前に腰を下ろして雪は嘉神の着替えを置く。
「…………」
 ようやく諦めたのか、レンは包帯を巻くのをやめて――少々巻きすぎのようであるが、今は嘉神は問わないことにした――嘉神の腕の傷の手当てを始めた。
「見事に同じデザインね……」
「生地の色合いは違う。っ、それに裏地は全く別のものだ」
 傷に塗られた薬がやけに染み、嘉神は眉を寄せつつ雪に答える。
「……変なところにこだわるのね」
 曖昧に笑んで雪は言う。
「美学、とか言うものなのだろう」
 刹那の声に、嘉神は肩越しに振り返った。
 念のため、家の近くを見てくることを刹那と久那妓に頼んでいたのである。
「何かあったか」
「いや、誰もいない。おかしな気配もしない」
 久那妓と共に腰を下ろしながら刹那は答えた。
「足跡を追ってみたが、あの男は一人だったようだ。途中で道路に出たからそこまでしか追えなかったが」
――御名方守矢が誰かと手を組むことはまずあるまい……
 久那妓の話を聞きつつそう思う嘉神の前で、雪は硬い表情でうつむいている。おそらくは雪も同じ考えであり、同時に御名方守矢のこれからを案じているのだろう。
 今のままでは守矢と嘉神が再び剣を交えることは避けられない。更に今度も此度のように守矢が退くかどうかはわからないのだ。
――……今後のことを考えれば、穏便に済ませた方がいいのだろうが……
 御名方守矢は封印の巫女である雪、そして青龍である楓の義兄。例え事情を飲み込んでいたとしても、嘉神が守矢を手にかければ二人は平静ではいられまい。
 そうは言っても守矢は下手な手加減が通じる相手でもない。
――己が蒔いた種。やっかいなことだと言えた口ではないが……
「朱雀」
 どうしたものか、と思考を巡らせかけた嘉神に、刹那が声をかける。
「聞いているか」
「あぁ、聞いている」
「これからどうする。あの男、また来るぞ」
「であろうな」
「俺が相手しても構わんぞ。貴様らではやりづらいのだろう?」
「ほう」
 刹那がここまで察したのかと嘉神が思わず感嘆の息を洩らすと、当の刹那は怪訝の色を浮かべた。
「なんだ。任されて良いのか」
「いや、そういう意味ではない。御名方守矢のことは私が決着をつける」
「嘉神」
「…………」
 嘉神の言葉に雪が声を上げ、レンは嘉神の腕に巻いていた包帯をきつく締める。
 それは嘉神もある程度予測していた反応だ。
「私と御名方守矢だけの問題ではない、というのはわかっている」
 なら、という雪を嘉神は視線で制し、ぐいぐいときつく包帯を巻くレンの手を軽く叩く。
「だが、私がつけねばならぬ決着であることは貴様もわかっているだろう?」
「……それはそう、だけど……」
 雪は口ごもるが、この雪自身とてほんの少し気持ちの動きが違っていれば守矢と同じ側に立っていたかもしれない。いや、今からとてそうなっても何もおかしくないのだ。
「確約は出来んが出来る限りのことはする。
 私自身が今は死ぬわけにはいかぬ上、封印の巫女である貴様と青龍、それに黄龍たる慨世……いずれも御名方守矢が死ねば動揺しよう。それでは封印の儀にも差し障る」
 気休めだ、と思いつつも嘉神はそう言ったが、
「違う」
雪はふるふるとかぶりを振った。
「あなたの言うことも、心配よ。
 でもそれよりも、あなたも、守矢も、一人で全てを背負おうとしているのが、心配なの」
「……何?」
「決着のことだけではなく、それにまつわるものを全て一人で背負おうとしているわ。あなたも、守矢も」
「…………」
 こく、と頷いたレンが嘉神の手を握る。
 先と変わらずレンの小さな唇はきゅっと引き結ばれているが、その夕日色の目には嘉神を案ずる色が浮かんでいる。
 その色が、怒りしか見せていなかった先よりもずっと、嘉神に居心地の悪さを感じさせる。

 チチチッ

 白い羽根を朱に染めた小鳥が、嘉神の肩に舞い降りる。
「……見つけたか」
 気を引き締め直すと共に幾分ほっとしながら、嘉神は小鳥を見やった。小鳥から思念の形で流れ込んでくる、守矢の向かう先――
「…………」
 レンが、嘉神の手を握る自分の手に力を込めたことを嘉神は気づかなかった。
 

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