月に黒猫 朱雀の華

八の三 因縁

 殺気を感じたその時、嘉神が優先したのはレンをかばうことだった。
 一挙動めでレンを突き飛ばし、逆方向に飛び退る。
 首筋に痛みと熱が走ったのはまさにその瞬間だった。
――っ……
 それでも傷を押さえるより先に、刃を抜き放つ。抜きはなった流れと剣士としての本能のままに下段から切り上げる。
 鋼がぎん、と鈍い音を上げた向こうに、嘉神は剣士の姿を見た。
 紅い髪、白い着物と緋の袴。黒いコート。紅い眼には嘉神を射貫かんばかりの鋭い殺気と憎悪。
 嘉神はこの剣士を知っている。
 慨世の三人の養い子の一人、そして嘉神が慨世を一度殺めたあの場に居合わせてしまった少年。
 六年前、慨世を斬った嘉神に斬りかかり、その首筋に――奇しくも今と全く同じ場所に――傷を負わせた剣士。
 師であり養父である慨世を奪った嘉神を誰よりも憎んでいる男。
「御名方、守矢」
「……っ」
 名前を口にした嘉神に、剣士――守矢の目に宿る殺気が鮮烈さを増す。
「ふっ」
 一瞬姿が霞んだかと思うと、嘉神の間合いの僅かに外に守矢は在った。
 刀を握り直す一呼吸の間だけその動きは止まる。しかし嘉神が体勢を立て直すには早く。
「行くぞ……!」
 まさに瞬速、守矢は間合いを詰める。刃を振るう。
 刃の軌跡の残像が銀色の月のようだ、そう嘉神が思ったのは守矢の刃が身に迫るまでの、一呼吸にも満たない弾指の間。守矢の動きに比べれば遅すぎる自らの体を叱咤し、腕を上げる。
 ぎん、と鋼の音が上がる。息つく暇なく、続けていくつもいくつも鋼の音が上がる。閃く守矢の刃を嘉神の剣がぎりぎりのところで受け、弾く。されど朱が無情に舞う。
「月夜に……あがけ……!」
 最後と振り下ろされる守矢の一閃。
 一際大きな、絶叫のような鋼の音――かろうじて、嘉神はその一撃を受けきった。
「ふっ」
 守矢の刃をはじき返し、嘉神は一歩踏み込む。一瞬動きの止まった守矢の襟元を掴みその体を持ち上げ、朱雀の力を放つ。
 紅蓮の炎に包まれた守矢の体を、地に叩きつける。
「……っぐ……う……」
 息を詰まらせながらも地を転がって間を取る守矢を、嘉神は追わなかった。素早く立ち上がり、刀を構える守矢を無言で見据えるのみ。
「……ふざ、けるな……」
 一つ咳き込み、守矢は低く声を洩らした。
「手を抜いた剣で、私を倒せると思っているのか!」
「倒す必要など無い」
 押さえられてはいるが強烈な怒気のこもった守矢の声とは対照的に、嘉神の声はただただ静かだ。殺気も、闘気すらも嘉神にはない。
「愚弄するか!」
「愚弄ではない。これは事実だ。私には貴様を倒す理由がない」
 守矢を見据えたまま、嘉神は首筋の傷に触れる。幸いにも深手ではないが、まだ出血は止まっていない。
――手当てせねばならんな。
 首だけではない、先程受けきれなかった守矢の連撃で受けた傷もそうだ。
 その為には守矢を退ける必要がある。しかし守矢を倒す必要はない。
「……ふざけたことを」
 下段で後方に引いた構えの守矢の剣の切っ先が、僅かに動く。
 来る、嘉神がそう思ったまさにその時――
「…………」
 小さな黒い影が二人の間に駆け込む。
――っ……
 その姿を目にした男二人は、同時に動きを止めていた。
 共に、驚きと戸惑いに。
「レン……」
 守矢の前に立ちはだかり、嘉神を守るように両腕を広げていたのは、レンであった。


「どけ、子供」
 低い声で守矢は言う。その声にも眼差しにも殺気が混じり、邪魔をするならば守矢はレンを斬り捨てることすら厭わないのがありありと伝わってくる。
「…………」
 レンはふるふると首を振った。僅かも迷いはない。
「レン、下がれ!」
「…………」
 嘉神の言葉にまでレンは首を振る。
「……っ」
「レン!」
 頑ななレンに守矢が足を踏み出し、させてはならじと嘉神もまた地を蹴ったのを更に遮るように、

「やめて!」

声と共に空を切って飛んだ何かが、抜き放たれた守矢の刃を弾いた。それは刃に当たって砕け、欠片がきらきらと光を弾きながら宙を舞う。
「……雪」
 動きを止めた守矢が、低くうめくように声を洩らす。
 その視線の先には、槍を構えた雪、すなわち御名方守矢の義妹の姿があった。雪の後ろには刹那と久那妓の姿もある。
「なんのつもりだ」
「あなたを止めるためよ」
「……いま一度だけ問う」
 抜いた刃を鞘に収め、居合の構えを取って守矢は言う。
「なんのつもりだ」
 それが御名方守矢の最後通牒であることはその場にいるだれの目にも明らかであった。
 例えそれが義妹であったとしても邪魔は許さない、そう守矢の全てが語っている。
「あなたに嘉神を斬らせない」
「それが何を意味するのかわかっているのか」
 構えたまま、淡々と守矢は言う。だが声の底に、押し殺された強い感情があるのに嘉神は気づいた。
 少なくとも、それは嘉神への憎悪の類ではない。憎悪は殺気と化し、未だ守矢から強烈に放たれている。
――……なんだ?
 二人の様子を見つめながら嘉神は僅かに眉を寄せる。その傍らに、
「…………」
鈴の音もさせずにレンが寄り添った。剣を持たぬ方の嘉神の手にそっと自分の手を重ねて見上げるレンの赤い目が心配の色に染まっている。
「大事はない。下がっていろ」
 レンの手を払い嘉神は一歩前に出る。
「雪も下がれ。手を出すな。これは」
 雪を制しようとした嘉神の言葉はしかし、その本人に遮られる。
「これは、私達全ての問題。あなた達だけで全てを収めようとしないで」
 揺らぎ一つ無い雪の声に、微かに守矢を責めるような響きがあったと感じたのは、嘉神の気のせいだっただろうか。
 しかし感じたものを確かめる時は今は無く。
「朱雀を斬られては地獄門を閉ざせない。どうしても、というなら俺も相手になる」
 ばちり、と黒い稲妻を刃に走らせ、刹那が言う。何者か知らぬせいもあるのだろう、刹那が守矢に向ける目はいささか剣呑だ。
「……貴様ら……」
 守矢の声に苛立ちと怒りが混じった。柄を握る手に力がこもり、ほんの僅か、守矢はその身を低くする。
 来る、そう感じ取った嘉神が、刹那達が構えかけたその時――
 守矢は背を向けた。
「今日は、退く」
 低く吐き捨て、守矢は歩み去る。
「……守矢、お願い、話を聞いて」
 雪の言葉に応えず、足も止めることなく。雪も半ば以上それを予測していたのだろう、寂しげに目を伏せはしたが、二度言葉を発することはなかった。
「いずれ、また現れよう」
 雪を慰めるでなく、刹那達に警戒を促すでもなく、己への戒めとして嘉神は呟き剣を鞘に収めた。
 御名方守矢は嘉神を斬ることを諦めはすまい。それほどに慨世を殺めた嘉神への恨みは深く、そしてそれ以上に、守矢の慨世への思慕は深い。数ヶ月前のあの時、そして今、守矢と対峙した嘉神はそれを強く感じ取っていた。
 その思い故に、守矢はまた現れる。思いを果たすまで、おそらく命ある限り、剣を振るえる限り、何度でも。
――もっとも……それをただ待っていることは出来ぬがな……
 内ポケットにしまった紙を取り出し、嘉神は宙へとそれを放つ。自らの血に濡れた嘉神の指から赤を映されながらも紙片は一羽の小鳥へと姿を変えて飛び立っていく。
――雪はああ言ったが、これは、私達の間で収めねばならぬこと……ん?
 小鳥を目で追う嘉神の右腕が、くい、と引かれた。
「…………」
 目を向ければ、レンが先と同じ眼差しで嘉神を見つめている。嘉神と視線が合えば、早く、と促すようにまた腕を引いた。
「そうだな」
 今度はレンの意志を聞き入れ、嘉神は頷く。出血はとりあえず止まったが、手当は必要だ。
「…………」
 善は急げ、あるいは嘉神の気が変わらない内にと言わんばかりに、レンは嘉神の腕を強く引いて家へと向かった。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-