月に黒猫 朱雀の華
八の二 赤
表に出た嘉神の元に、白い小鳥が舞い降りてくる。
嘉神が差し伸ばした手の上に降り立った小鳥は、嘉神と同じ色の目を真っ直ぐに向けた。開いた小さなくちばしから、その可愛らしい外見に合わぬしわがれた声――嘉神の師であり、四神の一人玄武の翁の声が流れ出す。
『封印の儀の件、承知した。詳細は後に聞かせてもらおうかの』
それだけ伝えると、ふうっと小鳥の姿が揺らめき、たちまち一枚の紙片へと姿を変えた。ひらりとさやかな風に舞ったそれを取り、嘉神は内ポケットへと収める。
――深くは聞かぬか……我が師らしい。
一人数日考えた末、嘉神が翁の元へ式神を飛ばしたのは今朝のことだ。
『封印の巫女を見つけた。儀式の用意を始めて欲しい』
そう、伝えるために。
雪との約束故に巫女が雪であることは伝えていない。だからといって何もしないままでいるわけにはいかない。地獄門では今もなお、黄龍がジェダを相手にしているはずでもある。明確な『敵』が存在する以上、打てる手は打っていかねばならない。
嘉神は四神の一人、朱雀の守護神。役目を果たすと覚悟を決めたのならば、そうあらねばならない。
――巫女と接触した最初の四神が私であったのは、幸いか。
義弟の楓は言うまでもなく、孫のように慨世の養子達を思っている翁や情に厚い示源では、雪が封印の巫女であるという事実を前にしては平静ではいられないだろう。
『さて、まことに君は平静なのかね?』
――この声……!
「ジェダ=ドーマかっ!」
認識した声に嘉神は刃を抜き放つ。同時に濃い血のにおいが立ちこめ、周囲が赤く染まる。
――結界? 異次元? どちらにしても、ぬかった……
慨世の家の周囲には嘉神の手で結界を張り巡らせてあったが、冥王の前には無駄な代物だったらしい。
――巫女達はこちらには引き込まれてはいないようだが……
『巫女達はこちらには招いていないよ。今日は彼女の勇み足のお詫びに来ただけだ。
まだ時は、至っていないのだから』
慇懃な口調と共に、空間からにじみ出るように冥王ジェダ=ドーマが姿を現す。
「お久しぶりだね、朱雀の守護神。自らの役割への忠節、見事なものだ」
恭しく、優雅に会釈するジェダには取り立てて敵意や殺意はない。穏やかな笑みを口元に浮かべて嘉神を見る。
――彼女とは、オシリスの砂か。やはりジェダの手の者か。
抜いた剣を手にしたまま、嘉神はジェダを見据える。敵意が感じられないとはいえここはジェダの領域であり、またジェダの思想に共感できない以上、油断は出来ない。
「手の者、ではないね。油断できない同盟者といったところだよ。おかげでこのような手間をかけさせられている」
やれやれ、困ったものだ、と両手を広げて道化師のようなそぶりでジェダは嘆いて見せた。
それを見つつ、嘉神は奇妙な違和感を覚えていた。
――思考を読まれている……?
ここがジェダの領域だからか、他に何か理由があるのか、嘉神の思うところを読んだかのような答えをジェダは返してくる。
「さて、どうかね?」
実質的に嘉神の問いに答える言葉を口にし、ジェダはククッと喉を鳴らす。優雅な物腰だがそこには相手を見下す尊大なものがあった。強大な自らの力と存在を知る、まさに王たる者が身につける自然なまでの尊大さ。例えるなら、人が虫に向けるようなものと言うべきか。
「それでは、今日はこれにて。まだこちらの準備も整っていない。黄龍もなかなかにしぶといものだ」
――慨世はまだ、持ちこたえていてくれるか……
僅かに安堵した嘉神だったが、続くジェダの言葉に怪訝に眉をひそめる。
「幕上がる時を待っていたまえ、朱雀よ。君の宿願のために」
くるりとジェダは背を向ける。向けるそばからその姿がにじみ、ぼやけていく。
『あぁ、そうだ』
ふっと、ジェダは振り返った。
『黒猫のことは思い出したかね?』
その口元に浮かぶのは、悪魔的な笑み。消えつつある中でも鮮烈なそれは、人の闇をえぐる快を知る邪なる者の笑み。
「……何?」
『早く思い出してあげたまえ。彼女は……私達もそれを待っている……』
「っ、待て、それはどういう……!」
もとより嘉神の言葉にジェダが従うはずもなく。
血のにおいの中へとジェダは消えた。同時に周囲の赤い色も消え失せる。
「くっ……」
何もなかったかのごとくの平穏な午後の日差しから眼を背け、嘉神は歯がみする。
黄龍がまだ無事であるらしいこと、やはりオシリスの砂とジェダが手を組んでいるということ、そしてジェダがいつでもこちらに手を出すことが出来ることがわかったのは収穫と言えた。しかしそれはジェダの脅威を改めて感じさせることでもあった。
それに加え、何かを含ませたあの言いようが嘉神の感情を逆撫でる。
「黒猫……彼女……だと? 何が言いたいのだ……」
――まさか
ちりん
「レン」
鈴の音に眼を向ければ、いつ現れたのかレンが傍らに立っていた。
「…………」
嘉神の剣を握らぬ方の手を取り、レンは嘉神を見上げる。
赤い、夕日の色の瞳が悲しげに揺らめき――
――しんじて。
銀の鈴を振るような声が、嘉神の意識に響く。
たった一言に、切なる思いが込められているように嘉神には思えた。
嘉神の手を握る小さな手に、きゅ、と力が入る。レンの少し尖った耳の先が、いつもより下を向いているようにも見える。
「……わかった」
嘉神は、頷いた。
ジェダの言葉が何を意味してのものかはわからない。だが、レンの眼差しに、その声なき声を疑うことは出来なかった。少なくともレンはジェダの味方ではない、そう嘉神は信じられた。
「信じよう」
「…………」
またほんの少し、レンの手に力がこもる。眼を伏せたレンの耳はもういつも通りだ。
なんだかそんなレンが可愛らしく、嘉神は小さく笑みかけ――レンを突き飛ばした。
「!?」
驚きの表情でぺたりとレンは尻餅をつく。
全く同じタイミングで舞う、赤。
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