月に黒猫 朱雀の華

七の九 使い魔

「おや、嘉神殿。どちらかにお出かけでしたか?」
 開いたドアから現れたのは紫のとんがり帽子とマントを羽織った魔道学者、タバサだった。
 考え事をしながら歩くうちに図書室の前にまで来ていたらしい。
「あぁ」
 とりあえずタバサの問いに頷き、嘉神は先へ行こうとした。
 それを遮ったのはタバサの目に浮かんだ色だ。学者によくある、興味深いものを見つけた色。その色を宿した眼が向けられているのは、嘉神の腕に抱かれた眠るレン。
 その目を無視できず、嘉神は口を開いた。
「何か、用か」
「その使い魔、レンと言いましたか。ずいぶんと弱っていますね」
「……弱っている?」
「気づきませんでしたか?」
 意外だ、という顔でタバサはレンの額に触れる。
「まだ主がいないのですね。しかも相当長い間主無しで過ごしてきている……弱るはずです」
「どういうことだ」
「言った通りですよ」
 レンから手を離し、タバサは嘉神を見る。彼女の眼からは興味深いものを見る色はまだ消えない。
「使い魔にも様々な種類がありますが、この子は主の魔力に依存して生を繋ぐタイプです。普通は主から魔力の供給を受けなければ長くは生きていけない。
 もっとも、彼女は百年級の使い魔ですから、主が無くてもかなりの時を生きられるようですが。
 しかし、そろそろ限界と私は見ます」
 淡々と、それでいて得々とした響きを持たせてタバサは語る。
 それを目前にしながら、嘉神の頭にはタバサが言うことがうまく入ってこないでいた。タバサの声は聞こえている。言っていることも理解できる。しかしどこか遠いところで話されているような感覚がある。
 ただその声が、語る口調が嘉神を苛立たせる。
「……何が、言いたい」
「…………」
 低い嘉神の声に一度タバサは言葉を切った。
 紫水晶に似た色の瞳から刹那、興味の色が消え、嘉神を見据える。
「では簡単に申し上げましょう。
 このままではその使い魔は死にます」


 黒猫は、二度と動かなかった。
 酷く痛めつけられた、小さな体。
 抱き上げても冷たく、固い。呼びかけても、応えない。
 誰が、こんなことをしたのか。
 誰が、小さな命を踏みにじったのか。


 フラッシュバックしたのは、あの黒猫を失った時の光景。
――死ぬ? あの時のように? レンが、奪われる?
「……死ぬ」
 タバサの言葉を繰り返すが、嘉神には実感はない。タバサはレンは弱っているというが嘉神にはわからない。わかるのは腕の中のレンのぬくもり、そして唐突に、しかし鮮明に甦った過去の光景。
――まだ、あたたかい。レンはまだ生きている。
 感じるぬくもりを頼りに、意識を埋め尽くしそうになった過去の光景からかろうじて嘉神は這い上がる。
「救うためには、主が必要か」
 問いながら、嘉神はレンが主を持たない上に、主を探していないことを思い出している。
「そうです。
 魔力の供給が必要なだけではありません。使い魔が「使い魔」であるという自己を支えるためにも、主は必要なのです。
 彼女には夢魔の側面もありますから、主無しでも自己の崩壊を遅らせる、あるいは抑えることが出来ていると思われますが」
――何故だ……? 主無しでは、命がもたないというのに……
 無口、無表情が常のレンだが、死を望んでいるようではない。むしろ彼女は彼女なりに生を楽しんでいるように嘉神には思えていた。
 主を探さない、その理由が解さない。
 考えあぐねる嘉神の耳に、次のタバサの言葉はかろうじて引っかかった。
「……嘉神殿、私がこの使い魔の主になりますよ」
「……貴様が?」
 嘉神にとっては突然の申し出だが、タバサは涼しい顔で言葉を続ける。
「ええ。百年級の使い魔であるこの子には以前から興味がありました。是非、身近に置いておきたい。
 てっきり貴方が主になるかと思っていましたが、そうではないようですし」
 構わないでしょう、そう言いながらタバサはレンに再び手を伸ばす。

――イヤ。

 レンの声を、嘉神は聞いた。銀の鈴のように澄み、強い意志の宿った声を。
 一瞬遅れて、ぱん、と青白い小さな光がタバサの手を弾く。
「……レン」
 いつ目を覚ましたか、レンがタバサを見据えていた。その表情は、常になく険しい。
「貴方ほどの使い魔になると、主を自ら選ぶというのですか」
 気を悪くした様子もなく、むしろ一層興味深そうにタバサはレンを見る。
「…………」
 ぷい、とレンはタバサからも嘉神からも顔を背けた。
「やれやれ、嫌われてしまったようですね。
 仕方ありません、この場は諦めるとしましょう」
 しかし、とタバサはレンを見つめて言う。
「貴方ほどの使い魔が失われるのは惜しいのです。魔道学者として。
 気が変わったら、いつでも言いなさい。
 では」
 優雅に一つ頭を下げると、タバサは歩み去った。
 その足音も聞こえなくなると、ようやくレンは嘉神に目を向けた。
「…………」
「…………」
――怒って、いるな。
 先程タバサに向けた視線ほど険しくはない。だが、夕日色のレンの目には、嘉神への怒りが浮かんでいる。
 目を覚まし、ここがどこかを理解したレンは、嘉神の意図も察したのだろう。怒りを見せたまま、ふるふると首を振る。
「私は雪の、封印の巫女の守りにつく。だからお前と一緒にはいられない。わかるだろう?」
 やはり面倒なことになった、と思いながら嘉神はレンに言う。
 しかし再び、そしてきっぱりとレンは首を振った。嘉神のタイをしっかりと握り、嘉神が自分を置いて行くことを拒否する。
「今日のように、いや今日以上に危険な戦いもある。それにお前は弱っているのだろう?」
 そう言っても、レンの手は緩まない。
「レン……お前は私についてくるより、主を探す方が自分のためではないか」
「…………」
 レンは、じっと嘉神を見る。その目の紅が愁いを帯びたように、悲しげにふるりと揺らめいたように――今にも泣き出してしまいそうに、嘉神には見えた。
「レン……」

「レンに決めさせなさい」

――モリガン?
 割って入った声は、嘉神の背よりも高い位置から聞こえた。見やればコウモリ達の作る台座に寝そべったモリガンが嘉神達を見下ろしている。
 どうやらまた、勝手に結界に道をつけて出てきた模様だ。
「レンのことでしょう。あなたがあれこれ指図する理由はないはず。
 あなたはレンのマスターではないのだから」
「貴様に言われる筋合いもない」
 割り込んできたモリガンに、自然に嘉神の声のトーンは低くなっていた。
「怒った? どうして?」
 クスクスとモリガンは笑う。故意に感情を逆撫でる笑い方、そうわかっても嘉神は苛立たしげに眉を寄せている。
「その子はあなたよりずっと長い時を生きている。自分のことは自分で決められる。
 あなたの指図はいらないのよ、坊や」
「……っ」
 鼻白む嘉神のタイが、くん、と引かれる。引いたのはもちろん、レンだ。
「…………」
 嘉神が目を向けるとレンは一つ頷き、そして首を振った。
「あくまでもついてくると言うのか」
 躊躇無く、レンは再び頷く。
「……そう、か」
 頷いたレンにこれ以上何か言う気は、嘉神にはなくなった。
 それどころか、
――私は、安堵している……?
 命の危険があることにレンを巻き込むというのに、それでなくてもレンの命の限りは近づいているというのに。
 わかっていて、嘉神はレンが頷いたことに安堵していた。
 その自分の心の動きが嘉神にはわからない。
 わからないが、レンをここに残す気はなかった。危険に巻き込みたくない、安全な場所にいて欲しいとは今も思うが、レンの意志を無視できなかった。
「そこまで望むなら、いいだろう。だが」
 折れた嘉神の言葉を聞くレンの表情は和らいでいた。心なしか、嘉神のタイを掴む力も弱めたようだ。
「自分の身は自分で守れ」
 こっくりとレンは頷く。
「危ないと思えば逃げろ。無理はするな」
 数拍間はあったが、こく、とまたレンは頷く。
「主も探せ」
「…………」
 和らいでいたレンの表情がすうっと変わった。
 怒った気配はないが、今にも溜息をつきそうな、呆れた顔に嘉神には見える。
 おかしなことは言ってはいないがと思う嘉神の目の前に音もなくコウモリの台座が下りてきた。
 レンと似た表情を浮かべた――違いは同時に何やら愉快そうな笑みを浮かべていること――モリガンと嘉神の視線が合う。
「どうしてあなたは一番簡単な答えを選ばないのかしら」
 翠玉にも蒼玉にも、紫水晶の色にも見えるモリガンの瞳は楽しげに、真剣に、呆れ混じりに嘉神の目を捕らえる。
「なんのことだ」
「一番近くにある、一番簡単で素敵な答え。どうしてあなたは目を背けるの? 嘉神慎之介」
「触れるな」
 両頬に触れようとしたモリガンの手から、嘉神は一歩下がって逃れる。
「言いたいことがあるなら、はっきりと言え」
「……目を背けているのか、単純に気づいていないのか……でも、時間はそれほど無くてよ」
「言われずともわかっている」
――黄龍――慨世が持ちこたえられるであろう時間はあと僅かだろう。
 黄龍とジェダのことだけではない。オシリスの砂もいる。
 出来る限り早く、地獄門は完全に閉ざさねばならないのだ。
「……そうだと良いのだけれど」
 モリガンは一つ肩をすくめた。
「今宵は泊まって行きなさい。ベッドは整えさせてあるわ。
 封印の巫女だったかしら? その子の家までまた今夜移動するのは疲れるでしょ」
「そうさせてもらおう」
 もう夜も更けてきた。レンを早くちゃんとベッドで休ませてやりたい。
 いつ戻るとは言ってはいないが、向こうには刹那と久那妓もいる。今日は戻らなくても大丈夫だろう。
「明日の朝すぐに出る」
「はいはい。色々用意させておくわ。
 じゃあね、良い夢を……」
 レンに向けて軽くウィンクをして見せ、モリガンは台座ごと消えた。
「…………」
「もう一度言っておくが、くれぐれも無理はするな」
 自分を見上げるレンに、嘉神は念を押す。
 先は自分の身は自分で守れと言いはしたが、出来る限りは守ってやりたい。だが、戦いの中ではレンを優先できない時も出てくる。そんなときはレンには逃げていて欲しいと嘉神は思う。
――あんな光景は、もう二度と……
 命を失い、冷たくなった黒猫。
 気まぐれに、身勝手に奪われた命。
 黒猫の命を奪った者を嘉神は許しはしない。しかしそれ以上に、守ってやれなかった己の無力さが許せない。
――二度と繰り返しは、しない。
「…………」
 頷く代わりに、レンは嘉神の首に両腕を回した。
 ぎゅ、と抱きつく。
――……本当にわかっているのだろうな?
 少々怪しく思いつつも、それ以上は言葉を重ねることなく、嘉神はレンの部屋へ向かった。


 その夜嘉神は、黒猫の夢を見た。
 ずっと昔に共に暮らした黒猫なのか、レンが転じた姿なのか、それとも全く別の黒猫なのかわからない。
 だが、甘え、すり寄ってくるその猫の体はあたたかく、そのぬくもりが嘉神には愛おしかった。
    七・終
 

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