月に黒猫 朱雀の華
七の八 黒い猫
嘉神は、アーンスランド邸へと車型式を走らせていた。
助手席ではレンが嘉神のコートにくるまったまま眠っている。
――眠っていてくれて、丁度よかったかもしれん。
助手席を見やり、嘉神は思う。
――刹那と久那妓が、あのように言ってくれたのも……
あの後、戻ってきた刹那と久那妓は嘉神も雪も思いもしなかったことを言った。
「巫女を守る」
と。
「現世を渇望する常世は封印の巫女を決して逃しはしない。それに加えあの女のような者も狙っている。
ならば、巫女を守る者が必要だろう」
戸惑った顔を見せる雪と、僅かに目を細めて刹那を見る嘉神の様子には構わず、きっぱりと刹那は言い切った。
「私も巫女の守りにつくが」
「守り手は何人いても構わんだろう」
「もっともだ」
刹那の言葉にあっさりと嘉神は頷いた。そもそも刹那の言葉を拒む気は嘉神にはない。守り手の数が多い方がよいのは確かであるし、常世より生まれた者とは言え、今の刹那は信用にたると嘉神は思っている。
「私の意見は無視かしら?」
「何か不満か?」
雪の言葉に刹那は訝しげな顔をする。
「自分の身ぐらい自分で守れる、とは言い切ったりはしない。
でも嘉神はともかく、あなたがそうする理由がわからない」
「そんなことが気になるか。
俺には守りたい者がある。現世が滅んでは困る。だからお前を守る。簡単なことだ」
「あなたの守りたい者……」
雪は、刹那の傍らの久那妓を見た。それまで無言でいた久那妓の頬が、うっすらと朱を帯びる。
「……私も、刹那を手伝う。女がいた方があなたもいいだろうし」
気恥ずかしいのか、視線を逸らして少し素っ気なく久那妓は言った。
「そうね。
ありがとう、刹那、久那妓。
お願いするわ」
微笑んで、雪は頷いたのだった。
――頃合いなのだろうな。
嘉神が向かうのは、アーンスランド邸。
レンを送っていくのだ。
雪を守り、常世、更にジェダやオシリスの砂と戦うと決めた以上、嘉神は危険な戦いに身を置くことになる。それに無関係な者を巻き込むわけにはいかない。
久那妓のように刹那と共にあることを決めた者なら仕方もないが、レンはそうではない。今まで何故か嘉神についてきていたが、もうそれを許すわけにはいかないだろう。
丁度よかったのだと嘉神は思う。レンが眠っていることも、刹那達が雪を守ると言ったことも。
――おかげで巫女から離れる時間が取れた……それにレンが眠っていれば、何も言わずにすむ……
少し強引なところもあるレンだ。もしアーンスランド邸に帰されることを嫌がったら面倒だ。
レンの寝顔を見やり、そう思う嘉神の脳裏に雪の言葉がよぎった。
「置いてくるって……いいの?」
まるで、嘉神が間違ったことをしようとしているかのような口調だった。
――封印の巫女があのようなことを言ってどうするのだ……
言われた時と同じ苛立ちを再び感じ、嘉神は眉を寄せていた。
――レンを置いてくるのは、レンのためにも雪のためにも最善。あのようなことを言われる由来はない。
アーンスランド邸の前で、車型式神が止まる。
まだ眠っているレンを抱きかかえて嘉神は車型式神から下りた。それでもレンは起きる様子がない。
よほど疲れているのだろう。今日一日あちこちを回り、戦いまでしたのだから無理もない。
すまないと思う一方で、このようなことはもうないのだと嘉神は思う。
そのことが妙に寂しい。
――レンがいることが当たり前になってしまっていたのだな……
嘉神の口元に薄く、苦笑が浮かぶ。
レンと過ごした時は、悪くはなかった。素直に認めてしまえば、良い時だった。
腕に抱いた黒猫が、嘉神を見上げて鳴いた。
嘉神の胸元にすりすりと頭をすり寄せる。
「毛がつくではないか」
そう言いつつも嘉神は猫を腕から下ろすこともない。
この猫と過ごす時は、嘉神の短い休息の時。気まぐれに甘えてくる猫との時間は、いつの間にか嘉神にとって大切な時になっていた。
猫にはミルクを、嘉神自身には紅茶を淹れ、のんびりと過ごすひととき。この時には友や師と過ごす時とは違った穏やかさと心地よさがある。
――拾った時には、こうなるなど思いもしなかったが――
――……あぁ、そうだったか……
思い出した懐かしい光景に、レンを抱いてアーンスランド邸のレンの部屋に向かっていた嘉神の足が、止まる。
あれはMUGEN界ではない世界。常世に触れるずっと前、朱雀の役目を授かってすぐのころだ。
捨てられたか、親とはぐれたのかは定かではない。一匹で心細げに鳴いていた黒い仔猫を拾い、嘉神は飼って――共に、暮らしていた。
もっとも、餌とトイレの始末ぐらいしか世話らしい世話は嘉神はしなかったが、猫も拾われた恩など知らぬ体で屋敷の外や中で自由に暮らしていた。唯一猫が嘉神に気を使っていたとすれば、甘えてくるのが嘉神の休息持に限られていたということだったろうか。
――今、そのようなことを思い出すとはな……
嘉神の腕の中のレンは、嘉神の胸元に頭をもたれさせている。思い出したのはこうしているからかもしれない。もしくは、レンと過ごした時への感慨が、黒猫と過ごした時を思い起こす呼び水となったか。
――どちらにせよ、感傷だな。
振りきるように一つ首を振って、嘉神が歩みを進めようとした時、その前でドアが開いた。
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