月に黒猫 朱雀の華
七の七 待っている家
雪の作った雑炊は、なかなかにうまかった。
嘉神やレン、久那妓も素朴で懐かしい味わいを楽しんだが、特に刹那は気に入ったらしく誰よりもおかわりをしていた。雪はそれを拒むことなく、むしろ少し嬉しそうに何度も刹那によそってやっていた。
食事を終えると、雪は食器などの片付けに、刹那は久那妓と話があると表へ出ていった。
「…………」
「…………」
残された嘉神とレンは、無言で――レンが無言なのは常のことであるが――囲炉裏の火を眺めていた。
相手が引いただけとはいえ危機を逃れたことと腹が起きたせいか、囲炉裏の薪の火のぬくもりと足の間のレンのぬくもりが嘉神には妙に心地よい。
――今日は色々あった故、少し疲れたか……
それはレンも同じなのか、時々眠たげに目をこすっている。
「…………?」
「どうした」
と、目をこすっていた手を止めたレンが、その手を嘉神に掲げて見せた。
「あぁ、先の戦いでか……」
レンのコートの右袖口が、少し破れている。
夢魔の着る服は普通の布なのだろうか、と嘉神は猫に転じたように見えた、あの戦いのレンの姿を嘉神は思い返す。その限りでは、あれは見間違いではなかった気がする。
――やはり、猫なのか……
初めてレンを見た時もそう感じていながら、ようやく実感を持って嘉神はそう思う。
「帰ったら、執事悪魔に繕ってもらうか」
そう言いつつも、夢魔の服は繕うものなのかは嘉神にはわからない。それに猫になった時も服が脱げたりした様子もなかった。
――勝手に直ったりするものかもしれないが……
「よかったら、私が縫いましょうか」
片付けものを終えて戻ってきた雪が、そう声をかけた。
「ふむ……」
どうする、そうレンに視線を向けて問えば、レンはこくりと頷いた。
「では、頼もう」
「じゃあ、ちょっと待って。レンさんはコートを脱いでおいてね」
そう言って雪が裁縫道具を取りに行く間に、レンはコートを脱ぐ。コートの下はシンプルな濃い灰色のワンピース。コートを着ていないと、小さなレンが更に小さくなったようにも見える。
コートを置いてまた嘉神の足の間に座り直したレンは、きゅっと自分の肩を抱いた。コートを脱いだ分、少し寒いらしい。
――やはり猫は寒さに弱いか……
少し考え、嘉神は自分のコートを脱いでレンの肩に掛けた。
「…………?」
「繕い終わるまで羽織っていろ」
嘉神の答えにこくりと頷いたレンは、そっとコートの前を合わせた。
「…………」
「嘉神のコートを借りたのね」
裁縫箱を持ってきた雪がレンに目を向ける。妙にその表情や口調が微笑ましい物に向けているもののように、嘉神には思える。
気のせいだろうと自分に言い聞かせた嘉神は、雪が裁縫箱の他に小さな半纏を持っているのに気づいた。
「それはレンにか」
「ええ、私が子供の頃の物よ。これを着ててもらおうと思ったけれど」
裁縫箱を開け、針に糸を通しながら雪は微笑む。
「そっちのほうがよさそうね」
「…………」
いや、半纏の方がいいだろう――そう嘉神が言うより早く、レンが頷く。襟元を合わせる手にも力が入ったように見える。
「そっちのほうがいいのね」
もう一度言う雪は何やら楽しそうで、しかし何やらそれが嘉神は面白くない。何を引っかかっているのかと自問するが、自分でも理由がよくわからない。
「…………」
結果、嘉神は憮然として口をつぐみ、それをまた楽しげに見やりながら雪はレンのコートを繕い始めた。
――この娘のこういうところは、慨世に似ている……
「あなたが変わったのは、この子のせいかしら」
慣れた手つきで丁寧に針を進め、雪は言う。
「……知らん。
そんなことより」
これ以上何か雪が言い出す前に、嘉神は言葉を続ける。
「これから貴様はどうするつもりだ」
「封印の巫女の役目は果たすわ。でも、その時がくるまではここにいる」
手を一度止め、真っ直ぐに嘉神の目を見て雪は言った。きっぱりとした口調には、迷いも躊躇いもない。
「ここでか。一人になるぞ」
雪がどこにいようと役目を果たす意志があるなら嘉神は構わないが、一人になるのは気がかりであった。刹那が常世の意志に背いても、常世はまだ雪を狙っているであろうし、オシリスの砂も諦めたとは思えない。
「自分の身は自分で守る。今度は遅れは取らない」
「それで通じる相手ではなかろう」
「それでもここにいたいの。
ここは私達が育った家だから」
ゆっくりと雪は部屋の中を見回す。部屋はきれいに掃除が行き届いている。この部屋だけではない。庭や道場の手入れをしていたのも雪なのだろう。
家が、死なないように。
――だがそれだけではない、か。
部屋を見つめる雪の青い目に浮かぶ色を嘉神は見とっていた。
それは過ぎ去った、もはや取り戻せぬ時への寂寥と愛惜。そして、その時への憧憬と幽かな希望。
「待っているのか」
嘉神の言葉の呟きにも似た響に、一拍の間を置いて「え」と雪は小さく声を上げる。
そのまま嘉神を見つめること、一呼吸、二呼吸。
雪は、頷いた。
「……そうね。
私もこの家も待って、いるのかも……」
もう一度、雪は室内を見回す。あたたかな色の光に照らされた部屋を、かつて自分たちが暮らしたこの家を。
「でも……本当は、ここを離れることがただ恐いだけなのかもしれない。少なくとも……楓をここに呼ぶことはできるもの」
言葉の裏で、雪は出来るがそうはしないと言っている。
「青龍が翁の家にいることは」
「知っているわ。老師がこの件では皆のまとめ役だから、青龍である楓がこの家じゃなくて、老師の家を拠点にするのは当然ですもの」
「ならばなぜ」
「嘉神、もう一つ頼みがあるの」
嘉神の言葉を遮り、雪は言う。
「なんだ」
「あの子にも、老師にも……それからあの人にも、私が封印の巫女だと言うことはまだ言わないで」
「まだ、ということは時が来れば」
「私から、言うわ」
「ならば私が言う必要はない」
答えながら、嘉神は雪が楓を呼ばない理由を察した。
以前に気づかなくても、今会えば青龍である楓は、雪が封印の巫女であることに気づくかもしれない。
「……ありがとう」
ほ、と雪は小さく息をつく。
「礼を言うことでは無かろう。
それに私は貴様が一人でいることは認めていない。
四神として、封印の巫女である貴様の安全は出来る限り確実なものとせねばならない。
どうしてもここにいることを望むのであれば、私もいさせてもらう」
本心では玄武の翁か示源の元へおくか、嘉神がアーンスランド邸に雪を保護しておきたい。しかし雪がここにいることを強く望むのであれば、次善の手を考えるしかなかった
「あなたがそれでよければ」
少し意外そうな顔の雪に嘉神は眉を寄せる。
「四神として当然のことを言っているだけだ」
「そうかしら。
正直なところ」
再び針を進めながら、雪は言う。
「あなたは私がここにいることも、楓達に何も言わないでという頼みも、聞いてくれないと思っていたわ」
「貴様に封印の巫女としての自覚がなければ反対した。だがそうではないのだから、多少は妥協する。それだけだ」
「あなたのその判断が誤りでないようにしなければいけないわね……」
「そう願う」
「願う……ね」
クスリと笑って、雪は繕い終わった糸を歯でぷつりと切った。
「なにがおかしい?」
「あなたはただ願うような人ではないと思っていたのだけれど」
勝手なことをと思いつつ、その言葉を否定しきれないでいる嘉神の耳に、あの人と同じで、と小さく雪が呟くのが聞こえた。
――あの人……か。
先程も雪があげた存在。その人物が誰なのか、嘉神には一人心当たりがあった。
慨世の養い子の一人であり、慨世を殺害したあの場に居合わせ、嘉神に傷を負わせた剣士。
――御名方守矢。
地獄門を開こうとした嘉神の前に現れ、戦った。しかし地獄門、常世の力を解放した嘉神の前に敗れ――とどめを刺される寸前で、青龍である義弟、楓に救われた。
その後の消息は当然ながら嘉神は知らない。雪だけではなく楓や玄武の翁も知らないのだろう。だが寡黙ながらも師や家族を思う心の厚いあの剣士はこの一件のことを知れば、必ずや駆けつけるだろう。会った回数こそ少ないが、嘉神はそう思う。
――再び私と相まみえれば、御名方守矢はどうするのであろうな……
嘉神の剣の下、死を目前にした時も、恐怖の無かった御名方守矢。その紅い目には衰えることのない戦意と、嘉神への憎悪の念が宿っていた。
あの時と同じ心のままならば、嘉神と出会えば守矢はおそらく。
「……あら」
――む。
雪の上げた声に、嘉神は思考を打ち切った。
「レンちゃん、眠ってしまったのね」
言われてレンに目を向ければ、嘉神のコートにくるまって嘉神の膝を枕にレンはすやすやと眠っていた。
「……今日は、あちこち出向いたからな。疲れたのだろう」
「そう」
畳んだコートを嘉神の脇に置いて雪はレンに目を向ける。
「よく眠っているわね……」
「そうだな」
嘉神はレンの顔にかかった前髪をそっと払ってやる。
雪が何か言いたげな風に思えたが、嘉神は気づかないふりをした。
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