月に黒猫 朱雀の華

七の五 覚悟

 がらがらと周囲全てが崩れていく。壁も、床も、天井も――しかしそう見えたのは、ほんの一呼吸にも満たない間。
 瞬き一つ終えた後には、何も変わりのない道場の中に、嘉神たちはいた。
 セクメトは消え失せていたが、オシリスの砂は依然、雪を捕らえている。
 そして、道場の入り口には先にはいなかった二人の姿があった。
 右手を高く掲げた銀髪の青年、その傍らで身構えた銀髪の少女。
 常世に生を与えられた刹那と、人獣の娘である久那妓。先日嘉神が出会ったこの二人が慨世の道場を訪れる理由はわからない。だが、
――好機。
 空間が戻った今、嘉神もレンも雪の傍にいる。
 一瞬の迷いもなく嘉神はオシリスの女に斬りつけた。
 人を斬った感触とは違う、異様な手応えとを嘉神が感じたのと同時に、

 ざぁっ

 オシリスの砂が、その名のごとく崩れていく。
『……やはり、状況の固定化が成立せねば不確定要素の乱入がありますか……』
 崩れていく自分にはなんの感慨もない、淡々とした口調でオシリスの砂は呟く。
 その力から解放され、へたりと座り込んだ雪を後ろにかばい、嘉神はオシリスの砂を見据えた。
『ここは引きます。全てを確定した後、また会いましょう』
「次などないっ」
 朱雀の力を込め、嘉神は再び刃を振るった。
 だが、もはや手応えはなかった。
 黄昏の薄闇に溶けるがごとく、オシリスの砂は消えた。
「……逃げたか」
「そのようだ」
 歩み寄ってくる刹那に頷き、嘉神は剣を鞘に収めた。
――オシリスの砂、か。ジェダとは関係なさそうだが……
『「地獄門」にはどれだけの力があるのかしらね……?』
 モリガンの言葉が嘉神の脳裏をよぎる。
 オシリスの砂が地獄門そのものに興味があるかどうかはわからない。だが地獄門を閉ざすために覚醒する封印の巫女を狙う以上、オシリスの砂もまた、地獄門 ――つまりは

――地獄門を開いた私が招いた厄災。

 嘉神は僅かに目を伏せた。己が投じた石が予想だにしなかった波を生み出した事実に、胸の奥に重い何かを抱え込んだような感覚を覚えて。
 それは一言で言うならば、悔い。
 嘉神が地獄門に身を投じたのは自らの手で全ての幕を下ろすためだった。しかしそれがそうではなかったばかりか、残ってしまった地獄門を利用する者や新たな災厄を招いている。そのことへの、悔いだ。

――ならば、今度こそ。

 視線を、道場の床の染みへ、嘉神が斬った慨世の血の痕へと向ける。

―― 私が、幕を下ろす。

「嘉神?」
 嘉神の表情に気づいたのだろう、雪が立ち上がりながら「どうしたの」と問いかける。
「傷を負ったの?」
「いや。
 貴様こそ大丈夫か」
「ええ。何ともないと思うわ。
 でも……」
 刹那に警戒の視線を雪は向けた。構えこそしないが両手で持った槍を胸の前まで持ち上げる。
「この人は」
「常世の使者、だった者だ。封印の巫女」
 静かに、刹那は答えた。
「だった……?」
 つかの間、怪訝な顔を雪は見せたが刹那の傍らの久那妓に気づくと得心した風で頷いた。
「そう、今は違うのね」
 穏やかに笑むと、槍を持った手を下ろす。
 雪のその態度に、かえって刹那は戸惑ったようだった。
「……そんなに簡単で良いのか? 俺はお前を殺すはずだったのだぞ」
「でも今は、そうではないのでしょう?
 あなたは確かに常世から生を受けし者、でももうその心は常世のものではない……それは封印の巫女でなくてもあなたの目と、そちらの方を見ればわかることだわ」
「…………朱雀」
「わかってもらえたのだからよいではないか」
 当惑の目を向けてきた刹那に嘉神は口の端に苦笑を浮かべて答える。刹那の気持ちはわかるだけに――似た気持ちをさっき嘉神もあじわったところだ――そう言うしかない。
「それにただのお人好しで巫女は言っているのではない」
「違うのか」
「人が好いだけではこうは言えぬ」
「……ならば、美学、か?」
 怪訝な顔のままで言う刹那に嘉神が渋面を作ると、久那妓が小さく声を上げて笑った。
「刹那、美学なんて言うのはきっとこの朱雀ぐらいだ」
「そうなのか? では、巫女はなんだ?」
「美学ではないし、自分で説明するのはなんだか恥ずかしいけれど……」
 雪もまた笑みを浮かべて言う。
「そうね。
 覚悟……かしら」
「…………」
「覚悟」
「ええ」
 真面目な顔で繰り返した刹那に、一つ、雪は頷く。
「わかった、気がする」
 呟いて刹那もまた、頷いた。


 嘉神は自分の傍らにそっとたたずむレンに目を向けていた。
 レンの視線を感じた気がして。
 覚悟、そう雪が口にした時に、レンは確かに嘉神を見上げた。
 いつもとは異なり強い意志を僅かながらも露わにしていたのを感じたのは、嘉神の気のせいではなかったはずだ。
 雪の言葉とレンの視線を結びつけるいわれはどこにもない。しかし、何か関連があると嘉神は感じた。
「……?」
 だが今小首を傾げたレンの夕焼け色の目は、いつもと変わらない。赤い闇は黙して語らない。
 故に嘉神はただ、レンに首を振って見せた。
 

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