月に黒猫 朱雀の華

七の四 砂の女

 ちょうど、嘉神と雪の間に。
 その女はそこに「いた」。

 奇妙な形の、帽子とも頭巾とも見えるかぶり物。
 肩やへそを露わにした扇情的な服。
 赤みがかった紫を主体とするそれらをまとった女の肌は、浅黒い。
 そして、女の目は固く閉じられていた。
 まるで世界の全てを否定するかのように。

――なんだ、この女は……
 嘉神は腰の剣に左手を掛けていた。詳細は形容しがたい。だがこの女は危険だと嘉神の本能が告げている。
 同じことを感じ取ったか、雪も槍を構えていた。
『私は死生を司る運命よりこぼれ落ちし最後に死する人類、オシリスの砂』
 女――オシリスの砂が、口を開いた。
 その声はしかし、耳にではなく直接心、魂に響くかのようだ。
 突然そこに「いた」ことと合わせずとも、このオシリスの砂が普通の人間ではないことは明らかだった。
――オシリスの砂? ……これは、もの、なのか?
 「人類」を自称するオシリスの砂の気配に嘉神は眉を寄せる。人のものではない。かといって魔族や妖怪のそれとも異なる。嘉神にもはっきりとしたものはつかめないが、何か根本的にこの女は存在そのものが異なっている気がしてならない。
 嘉神や雪の戸惑いと警戒を意に介した風もなく、オシリスの砂は雪に顔を向ける。
『封印の巫女、貴女の力は賢者の石のためにこそ必要。貴方こそ最初の一滴。
 貴女の値を変換します』
「賢者の石……変換……? 何を、言っているの?」
「巫女、下がれ。この女は危険だ」
 嘉神は剣を抜き放った。オシリスの砂の正体もわからぬうちに動くのは得策とは思えなかったが、この、敵意も殺意も欠片もない女は脅威であり危険としか思えない。
『朱の鳥よ、夢魔の猫よ、貴方達の時は今ではない。役割の時までおとなしくしているがいい』
 顔も向けずにオシリスの砂が言った瞬間、嘉神は自分とレンがオシリスの砂と雪からずっと離れた位置にいることを認識した。
――どういう、ことだ。
 二人まではざっと100m(五十五間)はある。床板も周囲の壁も道場のものだが、こんなにも広いはずがない。
「……とっくに奴の領域に取り込まれていたと言うことか……」
 おそらくは最初に声がした時に。
「レン、離れるな」
 一言声をかけて嘉神は駆ける。雪をオシリスの砂の手にかけさせるわけにはいかない。
――封印の巫女だからではない。慨世へ借りを返すためだ……
『おとなしくしているように、言ったでしょう』
「……っ」
 再びオシリスの砂の声が響くと同時に、嘉神の足が止まる。止められたわけではない。
 やはりなんの前触れもなく、化け物――山羊、鷲、獅子、竜の四つの頭を持ち、蛇の尾がある四つ足の異形が出現したからだ。
『終わるまでセクメトと遊んでいるがいい』
――くそっ……
 さすがに立ちはだかる化け物を無視するわけにはいかない。
 セクメトの向こうに小さく見える対峙したオシリスの砂と雪に歯がみしながらも、嘉神は剣を構えた。
「下がっていろ、レン」
「…………」
 しかしレンは、ふるふると首を振った。
 下がるどころか一歩前に出て、構える。
「…… 戦えるのか?」
 嘉神の問いにこくり、と頷いたレンの手に青白い光が宿る。
 レンがどれほど戦えるかはわからないが、一人よりも二人ならば早く片付くかも知れない。
「ならば、行くぞ。だが無理はするな」
 たとえ夢魔とはいえ、幼い容姿のレンを戦わせることに躊躇いがないはずがない。しかし何故か、嘉神は信じられた。
 大丈夫だと。
 レンは共に戦える、自分はレンを守ることが出来ると、嘉神には信じられた。


 レンの光は嘉神の炎とは相反する冷気を宿していた。
 レンの軽やかな踊りにも似た動きの通りに青白い軌跡を描く光は強い力をもってセクメトを打ち、時に貫く。
 光の輝きは嘉神の炎の中でもいささかも揺らぐことはない。むしろ輝きを増し、炎と共にその力を放つ。
 そう、共に。
 まるで長年戦ってきたパートナー同士であるかのように、嘉神とレンの攻撃は息が合っていた。
 嘉神の炎の一閃でセクメトの足が止まると、立て続けにレンの光が氷の刃となってセクメトの身を貫く。レンの小さな体を噛み砕こうと竜の首が顎を開いた時には嘉神は炎をまとって宙に舞っていた。
「紅蓮!」
 朱の炎が異形の獣を飲み込み、断末魔の叫びが空を震わせた。
「…………」
 鈴の音と共にレンが降り立った嘉神に駆け寄る。
「怪我はないか」
 こくりと頷くレンを、嘉神はほんの数呼吸の間、見つめた。
 戦いの最中、何度かレンの姿が猫に変わったような気がした。セクメトの牙や爪から身をかわそうと伏せたレンの姿がやけに小さくなったように見えたのだ。
――気のせい……いや、今はそれどころではない……!
 雪とオシリスの砂を見やれば、オシリスの砂が不可視の力で雪の動きを封じている。
「レン、行くぞ」
 崩れたセクメトの体を残し、嘉神はレンを従えて駆ける。
 今は、雪を守らねばならない。

『もう遅い。巫女を、変換する』

 だが無情に、オシリスの砂の声が響く。ふわりとその髪が広がり、赤い光が広がる。
――くっ……!
 嘉神の位置からは打つ手がない。あと数秒足りない。
 それでも嘉神が床を蹴ったその時――

「悪夢は終わりだ!」

 聞き覚えのある声と共に、空間が砕け散った。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-