月に黒猫 朱雀の華

六の五 誰かと共に

 都古がようやく泣き止んだときには、示源の胸元はぐっしょりと濡れていた。しかし怒る様子もなく、示源はハンカチで都古の顔を拭いてやる。
「ほれ、鼻もかまぬか」
「うん」
 示源がティッシュを箱ごと取ってやると、都古は一枚ティッシュを取って盛大に音を立てて鼻をかんだ。
 血のつながりが無くとも、五年もの時を挟んでも、そして鬼と化した姿を目にしてさえも、都古は示源を父と慕う。
 示源もまた、封印される前とおそらくは変わることなく都古を娘と慈しんでいる。
――っ……
 親子のそんな様子を見ている内に嘉神は苛立たしげに眉を寄せていた。
 二人が悪いわけではない。今日、自分の屋敷跡でのレンとのあの時――つまりは嘉神がレンの前で無様に涙を流してしまった時――のことを思い出してしまっていたのだ。
――あれは、少し気が弱くなっていただけであってだな……
 自分でもわからない何かに対して言い訳をする嘉神の膝に、触れるものがあった。
「…………」
――レン?
 レンは嘉神の膝に手を置いて嘉神を見上げ、軽くその手に力を入れた。

 すとん。

 その手を支点に、レンは嘉神の膝の上に腰を下ろす。更にそこから腰を滑らせ、あぐらをかいている嘉神の足の間にすっぽりと収まる。
「…………」
「…………」
 唖然、と言うべきか、呆然、と言うべきか。言葉を失っている嘉神をまた見上げ、レンは軽く首を傾げた。
 その、いつもと変わらない感情の薄い夕焼け色の目を向けられると嘉神は何か言う気も失せて一つため息をつく。
「慎之介」
「……なんだ」
 示源の声に、一拍おいて無理矢理自分を落ち着かせてから嘉神は応える。
「わしからも聞きたいことがあるのだがな」
 やけに楽しそうに示源は問いかける。
「なんだ」
「誰かと一緒にいるというのは、悪くないだろう?」
「……別に、レンは、そういう者ではない」
 言葉を返すためにもう一拍、嘉神は必要とした。
「わしはレン殿のことだとは言ってはおらんぞ?
 だが、そうだな、お前は翁のところにもレン殿と一緒に行ったのだったな」
 嘉神の取った間に、笑いをかみ殺しながら示源は言う。
「それは、別に」
「そう言うな。
 先に変わらないと言うたが……やはり変わるものもあるものだな」
 うんうん、と示源は一人頷いた。
「勝手に納得するなっ」
「慎之介よ、お前、自分で気づかぬのか?
 何故お前はレン殿を連れ歩く?」
 示源の口調は問い詰める風ではない。いっそ穏やかに、嘉神を諭す響きがある。
 だから余計に、嘉神は反論の言葉を口に出来なくなった。といってもまともな反論の言葉などはじめから嘉神の中には無かった。
 あるのはただ、認めたくないという感情だけ。
 レンが強引についてくるから、渋々折れていた。そう理由づけてきた。だが、拒むことなど簡単だったはずだ。
 レンの小さな手を振り払うのに、どれほどの力がいるという?
 そうしなかったのは、出来なかったのは――
「…………」
 レンは嘉神を見上げることなく無言でいる。嘉神の足の間にちょこんと座っているレンの体温があたたかい。
「慎之介?」
 どうだ、と示源が今一度問う。
「…………」
 嘉神は憮然とした顔で口をつぐむ。
 示源の問いに意識させられたとはいえ、完全に認めてしまうのが躊躇われていた。認めてしまえば何か一つ、自分の中で崩れてしまうような気がしてならない。
「もっと素直でも良いと思うが……まあいい」
 慎之介らしい、と示源は独り言ちる。
――何を勝手に納得している……
「……親父、嘉神はレンが好きじゃないのか?」
 二人の様子を見ていた都古が不思議そうに問う。
「そうではない」
「そういう話ではない」
 同時に示源と嘉神は答える。にべもない嘉神と苦笑する示源の顔を見比べていた都古は、ひょいと示源の膝から降りた。
 嘉神に歩み寄るとレンの手を引く。
「……?」
「ちょっと立って」
 きょとんとしながらもレンは素直に立ち上がった。
 そのままレンの手を引いて都古は少しちゃぶ台から離れる。
「嘉神、よーく見ろ!」
「何をする気だ」
 何やらやる気満々の都古に、なんとなく嫌な予感を感じつつも嘉神は問う。
「見ればわかる!」
 都古は僅かに身をかがめ――

 ぴらっ

 レンのスカートを、めくった。
「…………」
「…………」
「…………」
「どうだ嘉神、嬉しいか?」
 いつも通り無言のレン、呆然としている嘉神と示源をよそに、むしろちょっと得意げに都古は胸を反らした。
「……嬉しい、だと?」
 固い口調で、何とか嘉神は問う。都古の行動は理解不能過ぎてどう対応すべきかわからない。まだこれが少年ならわからなくもないが、都古は少女だ。示源が――木偶、いや「水月」が育てた割には女の子らしい、とさっきまでは思っていたぐらいには。
「うん。男は好きな子のパンツを見るのが好きって、水月の親父が言ってたぞ。
 嘉神がレンを好きなら、嬉しいはずだ!」
 無言で嘉神は示源を見る。
 示源は苦虫を百匹ほど噛みつぶしたような、再び鬼と化したかのような顔をしている。
「慎之介……お前は、どう考えて水月を作った……?」
 地の底から響くような声で示源は問う。
「お前そっくりに」
「……わしはあのようなことは言わん」
「私を睨まれても困る。私は意図していない」
「まことか?」
「こんなことで嘘を言ってどうする」
「あの頃のお前は正気ではなかった。何をするかわからん」
「……お前の木偶を作るのに、くだらん手間をかけない程度には正気だった」
 嘉神の声も一段トーンが落ちる。
「手抜きで作った結果かもしれんぞ」
「手を抜いたとは言ってない」
「手抜きでなく、都古にあんなことを教える物を作ったか」
「細かい性格など私の関知するところではない。お前がそういう奴だっただけではないか」
「創造主の性格が移っただけやもしれんぞ」
「どういう意味だ」
「言葉通りだ」
「詳しく説明してみせろ」
「ほほう、これまた自覚がないのか。困ったものだな」
「つまらん妄想で自覚を求めるな」

「……なんで二人は喧嘩してるの?」
 言葉を荒げこそしないものの、見えない火花が飛び交うような二人の言葉のやりとりに、都古はまた首を傾げる。
「…………」
 さあ、と言いたげに、レンは小さく肩をすくめた。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-