月に黒猫 朱雀の華
六の四 水月
畳敷きの和室に、ちゃぶ台が一つ。台所に通じるガラス戸の脇には水屋がある。部屋の角の一つには古いテレビが一台。
大きく開かれた障子の向こうには、小さいながらも良く整えられた庭が見える。
「慎之介、茶とコーヒーと紅茶があるが何が良いか?」
コーヒーはインスタントで紅茶はティーバッグだがな」
水屋の戸を開けながら示源が問う。
「……は?」
「なんだ、不満か?」
「そういうわけではなく……」
インスタントとはいえ示源の家でコーヒーや紅茶が出るとは思わなかった、とは言えず嘉神は言葉を濁した。
「紅茶をもらおう」
「親父、アタシは……」
「都古、お前とレン殿は牛乳だぞ」
「親父のけちー」
「水月も許さなかっただろう? 牛乳をちゃんと飲まねば大きくなれんぞ」
「……うう」
不満げに唸りはするが、都古はそれ以上の反論はしなかった。
「示源、さっきから聞く名だが「水月」とは誰だ」
「ん? ……あぁ、そうか、お前は知らんか」
二人分の紅茶を入れ、台所から牛乳パックを取ってきた示源は少し複雑な表情を浮かべた。
嘉神に苛立ったような、どこか痛みを含んだような、そんな表情に嘉神には見えた。
ちゃぶ台の上に菓子皿を、嘉神と自分の前には紅茶の入ったティーカップを、レンと都古の前には牛乳のグラスを置くと示源は腰を下ろす。
「慎之介、お前はわしを封印した後、わしの影武者……というのもおかしいな、わしの偽物を作っただろう」
「…………」
嘉神は小さく頷きを返した。
かつて嘉神は地獄門を開放するため、地獄門を守護する四神の力を削ごうと白虎である示源を封じ、青龍である慨世を殺害した。しかし世には異変の到来を気づかせぬよう、白虎の替え玉として一体の木偶を作ったのである。
もっとも、青龍・慨世の死は隠しきれなかったため、次代を捜索中で押し通したのであるが。
「それが水月だ。この名をつけたのはあやつが死した後だがな……。
生きておる内は、ほとんどの者がわしだと思っておったのだしな」
「木偶が壊れた後にわざわざ名をつけたのか」
嘉神がそういった瞬間、バン、と都古が机を叩いて立ち上がった。
「木偶じゃない! 壊れたんじゃない!」
「都古」
嘉神に食ってかかる都古を、静かに示源は制する。
「慎之介、お前はあれをわしの身代わりとしたな。世間を欺くため、見た目も気性もわしと変わらぬように作った。そうだな」
――……違いは、私に従順であること。
心中だけでそう嘉神は付け足す。世間を欺くために作った物であるが故に、大きな違いを持たせるわけにはいかないが、自分に従わぬ物では困る。だからそう作った。簡単な話だ。
「あまりにもわしと変わらなかった奴はな、都古と暮らしはじめたのだ」
「暮らしはじめただと?」
木偶が普段どうしていたかを嘉神は知らなかった。世を欺くために木偶は存在するだけでよく、自分を裏切ることがないはずの木偶の行動の詳細には気も払わなかったのだ。
「都古はわしの娘だ。わしと変わりないのならば、あれが都古と暮らすのは当然だ」
「でも……親父じゃないって、アタシはわかった。わかったけど……」
しゅん、と都古は顔を伏せる。その都古の頭を示源は大きな手で撫でた。
「幼き者には庇護し、共に暮らす者が必要だ。あれはわしに似せられただけあって、良い男であったようだしな」
ふっと笑んで示源は言う。その言葉にはいくらか戯言が混じっているようではあったが、皮肉などは存在しなかった。
「実際、都古にはよい親だったようだ。そうだな、都古」
「うん。水月の親父も優しかった。
……怒ると恐いのも親父といっしょだけど」
話す都古の口調はもう明るい。
――よほどその「水月」は良い親だったのか。偽と知りつつも慕うほどに。
示源の言葉が、都古の「水月」を慕う表情が、水面に投げ入れた小石のように嘉神の心に波紋を起こす。
嘉神が作った木偶、嘉神の下僕に過ぎなかった「物」を都古は、いや示源さえも家族として認めている。それだけ木偶は示源によく似ていた……どころか、都古の言葉からは木偶が心を持っていたようにさえ嘉神には思える。
そのことが嘉神の心を揺らして止まない。
「木偶は、結局どうした。私の力が断たれた後、壊れたか」
揺れる心から目を反らすように、ことさらに冷静な口調で嘉神は言った。
「……っ」
顔を強張らせる都古の頭をもう一つ撫で、示源が口を開く。
「都古、席を外しておれ」
「やだっ」
ぶんぶんと首を振って都古は示源の言葉を拒絶すると顔を上げ、嘉神を睨み据えた。
「親父は悪くない。アタシは平気。ちゃんと、何度だって、聞く」
「わかった」
一つ頷き、改めて示源は嘉神に目を向ける。
平静を保っているようだったが、その眼には過去の痛みを振り返る者の色が見えた。
「……水月は、わしが殺した」
「貴様が?」
「お前に敗れた後も、わしは正気を完全には取り戻せなんだ。怒りと復讐に憑かれたままのわしは、いつしかこの地に戻ってきてな」
低い声だったが、淀むことなく示源は言葉を続けていく。
「お前の気配を感じたか、わしの場所であったところを占める水月が憎かったのか、わしは水月に襲いかかったのよ。
都古の、目の前でな」
目を閉じた示源の肩が震える。
辛そうに都古がうつむく。
養女ではあるが、都古を示源は心から慈しんでいる。その娘の前に鬼と化した自らを晒し、正体は自分の偽物、木偶とはいえ娘の慕った者に襲いかかる。そのことが正気に返った今、どれほどの苦痛を伴う記憶となることか。
また、偽でも慕った者が、鬼と化した父と戦うのを見せつけられた娘の苦痛もどれほどのものだっただろうか。
嘉神にも、それらは推測することは容易に出来る。
故に、嘉神はただ沈黙を守った。
「どれほど戦ったのかはもはや定かではないが、最後に倒れていたのは水月であり……その時になってようやくわしは正気を完全に取り戻せた」
「水月の親父はっ!」
ばん、と机を叩いて都古は叫んだ。
「親父を助けようとしたんだ! 親父を元に戻すために、戦ったんだ……」
ぽろりと都古の目から大粒の涙がこぼれる。
「泣いてない!」
誰かが口を開くより先に、都古はごしごしと自分の目をこする。
「水月の親父は、これで……これでいいんだって言ったんだ。これで自分は、全う、できたって、言ったんだ……。だから、アタシが泣いたら、駄目なんだ……!」
涙声を懸命に張り上げ、何度もかぶりを振っては都古は言う。
「都古、もうよい」
「親父……」
示源に抱き寄せられた都古は、その胸に顔を埋めた。声は殺そうとしているようだが、都古がしゃくり上げる声はしばらく絶える音はなかった。
その声が嘉神の心に更にいくつもの、大きな波紋を生み出す。
――木偶が人のごとき心を持ち……他者を想い、その為に命を投げ出す……。その姿はこの娘の中に焼き付き……未だに木偶を想っている……。それでいて、示源を父と慕うことは変わらぬ……
一度は見限った、人間というモノ。その心。
しかしアーンスランド邸で目覚めて以来、出会った者たちの心の有り様を見るたびに嘉神は揺らぐ。
――人は……人の心は、私が思っていたより……強い……
「…………」
そして親子を見つめたまま身じろぎもしない嘉神を、レンもまた、じっと見つめていた。
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