月に黒猫 朱雀の華

六の二 白虎

「殴る?
 なるほど、恨みを晴らしたいか」
「恨んでなんかない!」
 納得して呟いた嘉神に、大きくかぶりを振って都古は叫んだ。
 声に含まれる強い怒りが、実際は少女が心に抱くものがその言葉通りの感情でないことを示している。しかし同時に、少女がその言葉を本気で言っていることもまた、嘉神には感じられた。
「親父が許せって言ったから、許す!」
「それで、いいのか」
「親父の言うことに、間違いはないっ。
 ……でも」
 拳を握って、都古はうつむいた。
 だがすぐに顔を上げると、真っ直ぐに嘉神を見る。
「一発殴らないと、気が済まない!
 アタシは親父も、水月の親父も、大好きだからぁっ」
――水月の親父……?
 言うが早いか、都古は地面を蹴って跳び上がった。大きく右拳を振り上げる。
 嘉神は避けもせず都古を見据えた。都古には嘉神を殴る十分な理由があり、嘉神はその拳を受けなければならない理由がある。殺されたとて文句は言えないところなのだ。
 全体重を乗せた拳を都古は繰り出した。拳は正確に嘉神の左頬を狙っている。
――やはり示源の娘だな。攻撃の癖がよく似ている……
 思考の片隅に妙にのんきな考えを浮かべながら嘉神はその一撃を待った。

「やめんか!」

 乾いた音が一つ上がる。
 しかし嘉神には痛みも衝撃もない。
 代わりに嘉神の上に、影が落ちる。巨体が太陽の光を遮っている。
 巌のごとき体躯の巨漢が、都古の拳をその腕で受け止めていた。そのまま宙でバランスを崩し掛けた都古の体をひょいと肩に引っかけた。
「都古、慎之介を殴ってもお前の気は晴れん。
 それに水月も喜ぶまい」
「……はい」
 しゅんとした都古の頭を撫でて巨漢は嘉神を振り返る。
「久しいな、慎之介。あの時以来か」
 巨漢――白虎の守護神、直衛示源は屈託のない笑みを浮かべた。
「……あぁ」
 予想外の表情に嘉神はどう言葉を返せばいいか戸惑い、曖昧に頷きを返すに留まった。
「その内会えるだろうと思っていたが……ほう、その子か。夢魔というのは」
 頬を膨らませている都古の頭を撫でながら、示源は鏡の傍らに立つレンを見下ろした。
 そのまま、ひた、とレンを見据える。
「…………」
 レンはいつもと変わらぬ表情で示源を見つめ返す。
 そんなレンに、ふうっと示源は笑みを浮かべた。
「わしは直衛示源。白虎の守護神であり、慎之介の友だ」
――……友……
 笑みまで浮かべて言われたその言葉に、嘉神の戸惑いは先より深くなる。
「お主の名は、何という?」
「…………」
「む?」
 答えないレンに、示源は怪訝な顔で首を捻った。
「慎之介、この子は口がきけぬのか」
「…………」
「慎之介?」
「あ、あぁ……」
 ようやく我に返った嘉神もレンに目を向けた。
「話せぬことはないと思うが、私もレンの声は聞いたことが……」
 僅かに首を傾げて二人を見上げるレンを見ながら示源の問いに答える嘉神の脳裏に、ふと、あの声が甦った。

――レン。

 水晶を思わせる澄んだ、そしてあどけない声。その声がレンの名を嘉神に教えた。
――あの声がレンの声……なのか……?
「しゃべれないわけではないと、思う。
 ほとんどしゃべらないようだが」
「ではお前に聞こう。
 彼女の名は?」
「レン、という」
「そうか。
 レン殿、宜しくな」
 笑みかけた示源に、こくりとレンは頷きを返した。
 

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