月に黒猫 朱雀の華

五の三 我に返る

「レン……」
「…………」
 嘉神は戸惑っているが、レンの表情は特に変わらない。
「……そこまでは……してくれなくとも良いのだが……」
 嘉神の様子には構わず、せっせとレンはハンカチで涙に濡れた嘉神の頬を拭いている。しかも嘉神が逃げられないよう、片手でしっかりと嘉神のタイを握っている。
――人目がないとはいえ……
 レンに抱かれて泣いたことでさえ冷静に戻れば汗顔の至りであるというのに、さらにこの状況だ。人目があろうが無かろうが、嘉神は酷くいたたまれない気分になっていた。穴があったらその穴を更に深く掘って埋まってしまいたいぐらいの気分だ。
 しかしレンは委細気にした様子はない。頬や目元を拭い終えると、今度は嘉神の鼻にハンカチを持ってくる。
「……っ、待て、鼻はいい、鼻は……!」
 さすがにそれは顔を背けて拒むと、レンは首を傾げる。何故いけないのか、と言いたげだ。
「……それは……お前のような子供に……だな……」
 さっきまでのことを思い出せば説得力がないことこの上ない理由である。しかしそうとしか言いようがない。
「…………」
 レンは小さく首を振った。軽く背伸びをしてみせる。
「……子供では、ないと?」
 少し考えてから口にした嘉神の言葉に、レンはこっくりと頷き、更にぐっと背伸びする。
「…………
 ……私より、年上だと?」
 よくよく考えた末、タバサが言っていた『百年級の使い魔』という言葉を嘉神は思い出した。
 うんうん、とレンは頷いて背伸びをやめると、改めてハンカチを嘉神の鼻へと持っていく。
「たとえ、そうでも、見た目の問題だ見た目の……っ」
 背を逸らして拒みながら、必死に嘉神は言う。
「…………」
 仕方ないと言いたげに、レンはため息をついた。
 握ってしわがよったタイをきれいに広げ直してから、嘉神を解放する。
 急いで立ち上がった嘉神は、レンが差し出したハンカチで鼻の辺りを拭うとポケットにしまった。
「後で洗って返す」
「……」
 レンがこくりと頷くのを見てから、嘉神は改めて周囲を見回した。
 やはり廃墟そのもの、がれきの山だ。
――……この屋敷にあった書物も、これでは全滅だな。ここでなにがしかの知識を得ることはもう不可能か。
 地獄門封印の要があるだけに、屋敷の書斎には地獄門に関する書物が大量にあった。しかしそれらの無事は見込めそうにない。
 だが過去の己の心の有り様を見つめ直せたのは、悪くはなかった。痛みをともないはしたが、過去を受け入れずして未来への決断は出来ない。
――それに……
「……いや、それは、どうでもっ」
 ふと肌に甦ったレンのぬくもりに、誰にともなく嘉神は言い訳する。
「…………?」
 きょとんと見上げたレンに嘉神は首を振る。
「なんでもないっ。
 こ、ここにはもう用はない。
 行こう」
「…………」
 こく、と頷いてレンは嘉神の手を握った。
「…………」
「…………」
 何も言わずに、二人は屋敷の残骸を後にした。
 

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